ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2017年の総括
2016年の総括を纏めた前回の記事に引き続き、この記事では2017年の総括をしていく。
2017年3月頃、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドをプレイ
20年も前から、ゲームの世界にただ"居る"ことの心地よさを知る任天堂が、ただ居たいと思える世界を妥協せず作り上げてくれたことは、ゲームファンとして至上の幸福の一つと言える。 #ゼルダの伝説 #BreathoftheWild #NintendoSwitch pic.twitter.com/fGrm7bOkDu
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年3月10日
BotWの感想と話したいことは、以前に記事にしているので、そちらを参照。
2017年5月頃、ペルソナ5をプレイ
・・・実のところ、「プレイ」などと書いておきながら、この作品は2つのステージ(作品に則した呼称ではパレス)をクリアした時点で積んでいる。再開する予定も今のところは無い。
日常的に家庭用ゲームの話題を追っている人であれば時期からして察しがつくだろうけれど、私は、国内で2016年の9月に発売された後、数ヶ月遅れて2017年に入ってから発売された海外における評判を受けて、プレイに至っている。
国内において発売された時点では関心の対象ではなかったこの作品を、私がプレイしようと思った動機はあまり純粋なものではない。2017年現在において、「JRPG」というジャンルに当てはまる作品が、国際的に大きく注目されていることに興味を抱いたのだ。
主にアクションゲームを好むゲームファンである私が、縁の薄かったJRPGについて興味を抱くより詳細な経緯については、このブログに最初に投稿した以下の記事を参照。
そして、全てがそういう動機なわけではないが、今年はJRPGの類型に当てはまる作品に多く触れており、自分なりのJRPGについての理解が深まった年だと思っている。
以下に、該当する各作品を挙げる。
同年同月、ブレイブリーデフォルトをプレイ
同年8月頃、UNDERTALEをプレイ
同年9月頃、プロジェクトオクトパストラベラーの体験版をプレイ
面白かった。JRPGのフォーマットをモダンな感性で再構成できてると思う。フィードバックとして指摘したい部分は特になし。 #オクトパストラベラー #OctopathTraveler pic.twitter.com/eVkL65p89B
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年9月15日
先程、参照したJRPGについての記事でも扱っているドラゴンクエストXIについても、その後、プレイした人達の感想やメディアのレビューを各所で見聞きして、益々、JRPGの復興というものを考察する上で欠かせないマスターピースなのだろうという認識を強くしている。
しかしながら、やはり私は基本的にはJRPG向きではないタイプのゲームファンだ。今回の記事のテーマでもある個人的なゲーム熱の飽和というのも理由としてあるとはいえ、ドラクエXIをプレイする意欲は無いし、上述した各作品も全て積んでいる。オクトパストラベラーは剣士の方しかクリアしていない。
「物語を読み進めるフォーマット」というのがJRPGを定義する一つの主要なファクターだという認識が、今年、JRPGの類型に当てはまる各作品を触れてきて見出している答えの一つだが、率直に言って、私はビデオゲームを遊ぶ際に、「物語」としてのエンターテイメント性は求めていない。
だがそれは、「ビデオゲームに物語は不必要」、「JRPGは物語を読み進めるフォーマットだから、私がJRPGを面白いと思うことはないだろう」というわけではない。
私はJRPGをビデオゲームの一つの形として尊重できるものと捉えているので、「ゲーム」として楽しむことはできるだろう。
事実、過去にN64のマリオストーリーという作品をプレイした記憶は、私にとって楽しい「ゲーム」をプレイした記憶の一つである。
ここまで少し長くなったが、私がジャンルとしてのJRPGに関心を寄せることが、ただJRPGに難癖をつけているだけの冷やかしではない明確な理由を話そう。
私はFFXVをとても気に入っているので、現行の家庭用ゲーム機向けにFFXVを出してきたスクウェア・エニックスが、次にどういうFFを出してくるのかというのは、無関係な話ではないのだ。
次に出るFFとはつまり、FINAL FANTASY VII REMAKEのことだ。FFの近代化を掲げ、JRPGのフォーマットを一度否定したFFXVの後に、同じ世代で、JRPGの金字塔的な作品をフルリメイクするなんて・・・どう落とし所を見極めるのか。
FFVIIRがどうなるのかという話については、今後一つの記事で纏めようと思っている。
ところで、UNDERTALEをJRPGの類型に当てはまるとして上で扱ったことに違和感を覚える人がいそうな気がするが、自分でもちょっと乱暴なような気はしているので、UNDERTALEから見るJRPGの面影について少し話そうと思う。
UNDERTALEは、どこで知ったかというのは特定できず、日々ネットでゲームの話題を追いながら、各所でUNDERTALEという名前や(UNDERTALEのものとは知らずに)ファンアートなどを見かけながら、作品自体を知るよりも、ちょっとしたブームのようになっている雰囲気に先に触れていて、後から、「ああ、あれがそうだったのか」と確認するような感じで知った海外のインディーゲームだ。
Googleで検索するとトップに出てくるニコニコ大百科のページなどは、ファンの手によって凝った編集がされている。
今年のE3でのSIEの公式配信で、PS4とPSVITA向けに提供されることが発表されたという報せを受け、ダウンロードし、プレイに至った次第である。
個人的な感想としては、積んでしまっていることから察してもらいたいところだが、なんとなく、多くの人が好きだと言うことには「なるほどな」と思ったし、プレイヤーよりも開発者への関心として、やはり、JRPGというフォーマットのファンコミュニティとは、国際的に存在しているのだと思った。
UNDERTALEはJRPGではないとしても、JRPGという類型の元になってきた作品群へのリスペクトの上に成り立っている、JRPGのフォロワー的な性質を多く含んだ作品であることを否定する人はいないのではないだろうか。
2017年10月頃、メトロイドサムスリターンズをプレイ
同年同月、Cupheadをプレイ
Cupheadのゲームプレイはボスとの戦闘がメインだが、横スクロールのステージも幾つかあり、横スクのアクションゲームと言えるところもある。
それを踏まえ、メトロイドサムスリターンズと同時期にプレイしながら、こういった2Dのシューティング要素のあるクラシカルなアクションゲームについて、ここにきて改めて考察している。
私が、幼少期に所有し最も触れていたゲーム機はN64とGCとPS2で、これらの機種は、シューティング要素のある2Dのアクションゲームというと、そういったジャンルは少々影を潜めていたプラットフォームと言えるのではないだろうか。
けれども、私はこういったゲームを触った経験があるし、その記憶としては楽しかった記憶なのだ。つまり、私はシューティング要素のある2Dのアクションゲームは好きだ。
具体的にどのゲームを触ったかとかいう話をするとなると・・・PS2のPS1互換機能を使って、親戚から借りたボカンと一発!ドロンボーという縦型シューティングの作品を遊んでいたり、友人から借りたGBAのロックマンゼロを遊んでいたり、姉が姉の友人から一時期借りパクしていたSFCで、作品名は分からないけど、横型シューティングのゲームを遊んでいたり・・・全て自分で所有したゲームではないし、クリアする前に返してしまっているので、クリアもしていない感じになる。
なので、まだ味わい尽くしていない分、比較的に燃焼する熱量の残っているジャンルでもあったりする。
私にとってのシューティング要素のある2Dアクションゲームの話はこの辺にしておくとして、話したいのは、こういったクラシカルなゲームから考える、アクションゲームの難易度の話だ。
Cupheadにしてもメトロイドサムスリターンズにしても、高難度ということで話題になったことで共通している。
近代において、高難度であるということがゲームファンの間でポジティブに話題になった例では、デモンズソウルに端を発するソウルシリーズが先駆けだろう。
いきなりシューティング要素も無く思いっきり3Dアクションのゲームを出してしまってあれだが、私がダークソウルを初めてプレイしたときのプレイ感覚は、Cupheadやメトロイドサムスリターンズと似た、クラシカルな感覚だったのだ。
「何か、昔のゲームみたいだ」、「昔、ゲームやってるときってこういう感覚だったよね」と。
ゲームを遊ぶ上で、こういった感覚というのは普遍的にあった筈なのだけれど、いつの間にか無くなっていたと、ダークソウルをプレイして思い出した。
ダークソウルにしても、Cupheadにしても、メトロイドサムスリターンズにしても、難しいと言えば難しいという表現でも合っているのだけど・・・昔、ゲームを遊んでるときってこういう緊張感あったな、という風に思う。
では、「昔のゲームが難しかった」と言うと・・・それも合っているのかもしれないけれど、やはり私は違和感があって、本来ゲームに普遍的にあった緊張感みたいなものが、どこかでぼんやりと薄れていってしまったのだと思っている。
Cupheadやメトロイドサムスリターンズの場合、ゲームデザインがクラシカルであると、本来ゲームに普遍的にあった緊張感なども含めて蘇るのだろう。
今のゲームはヌルいのではなく、今のゲームは、昔のゲームができていたような普遍的な緊張感というものを、プレイヤーに感じさせる方法論が洗練されきっていない。
となるとやはり不思議なのは、フォーマットとしては3Dアクションゲームであるダークソウルが、いかに普遍的な緊張感を再現したのかというところで・・・
一つ思ったのは、ビデオゲームのメインストリームが3Dに移行してから、ゲームデザイン上で扱える情報が空間的に増えたことによって、3Dアクションゲームという括りの中でも、2Dアクションゲームと比べ、作品ごとに持ちうるビジョンがより多様で差異が大きいことに原因があるのだろうか。
2Dアクションゲーム的な、必要な情報のみでの「適度な制限」に最適化して構成されたゲームデザインが、2Dの時代の普遍的な緊張感を再現できる。
3Dゲームだからと言って、全てが「ヌルい今のゲーム」になるわけではないのだ。なぜなら、私がN64で幼少期にプレイしていた3Dアクションゲームはヌルくはなかった。まぁ、幼少期の私がゲームがド下手だったのもあるだろうが。
2017年10月頃、シャドウ・オブ・ウォーをプレイ
シャドウオブウォーは、2017年に遊んだゲームで最も面白くて、個人的に刺激があった。
私は、いわゆる「洋ゲ-」と呼ばれる分類に属するゲームには、あまり触れてきていない。
因みに、私が個人的に認識している「洋ゲ-」とは、海外の大手パブリッシャーの巨大な資本によるAAA級タイトルと言われるような作品群である。
デベロッパーの独立性が高いインディーゲームは、海外のデベロッパーの作品であっても「洋ゲ-」とは呼ばず、意図的に「インディーゲーム」と区別して呼んでいる。
N64ではレア社のバンジョーとカズーイの大冒険やドンキーコング64、PS2では007ナイトファイアやGTAやバーンアウト3テイクダウン、PS3とPS4ではSIEWWSのアンチャーテッド、ラスト・オブ・アス、インファマスなどを遊んでいるので、一応、海外製のコンシューマ向け大型タイトルを全く触っていないわけではないのだが・・・
私は、コンシューマにおける「洋ゲ-」の活況をムーブメントとして捉えていて、主にそれを主導していたのは、第6世代のコンソールに最後発で参入したMSのXboxだと考えている。
そのムーブメントが、日本においてもそれ程コアではない多くのゲームファンの目にも見えるような大きなものになり始めたのは、Xbox360からだろうか。
当時、ニコニコ動画でHALO3や、オブリビオン、Fallout3、バイオショック、Call of Duty 4などの動画がランキングを賑わしていたことを覚えている。そういったムーブメントには、丸々乗っかっていないと思うのだ。私は。
だから、私が「洋ゲ-」を意識するのは本当にシャドウオブウォーからで、そのシャドウオブウォーを遊んで、洋ゲ-が面白い、洋ゲ-が好きだ、みたいに言う人達が言わんとするところの、「洋ゲ-の良さ」みたいなものについて、一人で納得していた。
技術的な面とか、どういうところでプレイヤーを満足させようとしているかという方法論とか、開発体制がしっかりと整っているからこそ実現されている丁寧な作りとか、タイトルの垣根を越えて洗練されたプレイアビリティが高い次元で共有されている。
それとは逆に、なんだろうな・・・詰め込み過ぎている感じなんかもあって、開発体制が定型化され過ぎているが故に、作り方が業務的になっているというか、クリエイティブな面で見て無機質に感じるようなところがあるとも思う。
先程、洋ゲ-とインディーゲームを意図的に区別しているという話をしたが、それは、インディーゲームもまた独立したムーブメントだと認識しているからだ。
海外の大手パブリッシャーというのは、産業としてのビデオゲームの発展に第7世代から第8世代にかけて大きく寄与したが、その結果、大衆向けのビデオゲームの量産体制が築かれることになったのだと思う。
作り手の拘りや、作り手がどういうものを表現したいのかという作家性のようなものが、あまり必要とされなくなっていったから、そのカウンターとして、インディーゲームというムーブメントが生まれてきたのだろうな、と・・・。
何はともあれ、シャドウオブウォーは面白かった。
洋ゲ-とインディーゲームをそれぞれムーブメントとして捉えたときに、私はインディーゲームの方により愛着を感じるが、大衆に訴求するエンターテイメントとして、常に最前線のプロフェッショナルを募りロジカルに「確実に満足できるビデオゲーム」を追究する洋ゲ-に対し、ビデオゲーム文化の土壌の豊かさを押し上げている力強さへのリスペクトは感じている。
そして、そういう中であっても、洋ゲ-なりのビデオゲームとしての挑戦というものは確かにあり、シャドウオブウォーにおけるネメシスシステムなどがそうなのだろう。バグろうがどうしようが乗っけてくるくらいなのだから。
私はこのネメシスシステムのめちゃくちゃ複雑な仕組みであるが為に発生したであろう深刻なバグにぶち当たり、シャドウオブウォーは思いっきり足止めを食らってしまった。
攻城戦開始しようとすると無限ロードに入る。多分INVALID STRING IDって名前になってる透明な奴のせい。 #シャドウオブウォー pic.twitter.com/zWiijSL3Wz
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年10月24日
先日パッチがあてられ解消されたことは確認したが、熱が盛り上がっていた頃からはかなり時間が経ってしまっている為、再開するかは分からない。
2015年に各方面で最も評価され、現在も話題に挙がることがある作品であるウィッチャー3について気になっていることも、少し話そう。
現時点でのコンピュータRPGの理想型・完成形というのが、ウィッチャー3への評価の大まかな総意と受け取っている。
同じような評価を受けている作品としてSkyrimがあるが、Skyrimとウィッチャーの特筆すべき相違点は、Skyrimはゲーム開始時点で主人公をキャラメイクするのに対し、ウィッチャーは予め用意された固有のキャラクターが主人公であること。
プレイヤーがロールプレイするのはファンタジー世界における自らの物語ではなく、特定の人物の物語の追体験となるわけだ。
これは、長らく海外製のRPGに対するJRPGの特徴として語られてきた要素の一つだろう。
このことから、ウィッチャー3はSkyrim以上に、コンピュータRPGとしてのJRPGに絡めて考察する声が多いような印象を持っている。
フォーマットの違いを考慮しない単純比較には慎重になりながらも、JRPGがウィッチャー3から学べることについての議論は必要なのかもしれない。
私が関心を向けているのは、2007年にPCゲームとして始まったこのシリーズの最新作に至るまでの「正統進化」への道筋だ。
まず一つ気になるのは、ビデオゲームのウィッチャーシリーズには、魔法剣士ゲラルトというファンタジー小説の原作が存在すること。
シャドウオブウォーにも指輪物語という有名なファンタジー小説が原作として存在するが、他のメディアのコンテンツを原作としたビデオゲームが、単独でもコンテンツとして充分な求心力を持っているというのは、日本の家庭用ゲームではあまり馴染みのないことだ。
そして次に気になるのが、洋ゲ-における代表的なシリーズやそれらを手掛けるデベロッパーは、開発者のフォーラムやプレイヤーコミュニティの由来がPCゲームにあること。
早い話・・・ギークによるギークの為の界隈として一体感を持ちながら成熟しているのだと認識している。
ギークに認められるコンテンツがギークによってビデオゲーム化され、ギークが認める硬派で堅実なコンピュータRPGとしての基礎を保ちながら、近代的なプレイアビリティを取り込んだことが、「正統進化」の道筋をファンと開発者が共有できた所以なのではないかと。
日本のコアなゲームファンや開発者には、そんな環境への渇望を垣間見る。「30年かけてろくなコミュニティが築けなかった家庭用ゲームに期待するより、むしろまだ開拓の余地のあるスマホゲー」という空気が一部にあることも、そう考えると納得がいく。
私は、家庭用ゲームと接してきた時間がファミコンの時代から見てきたような人達より短いのもあり、まだ家庭用ゲームに失望するような感覚には共感できないが、「JRPGをちゃんと育てたかった」人達がいるのだろう、とは思う。
2017年10月頃、スーパーマリオオデッセイをプレイ
人間めっちゃ人間… #スーパーマリオオデッセイ #SuperMarioOdyssey #NintendoSwitch pic.twitter.com/2qgRw4xlV2
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年10月27日
前回の記事の冒頭でも触れたマリオオデッセイ。ざっと感想を書こうとは思うが、マリオオデッセイをプレイしている時点で既にゲーム熱の飽和には陥っていたので、凄く面白かったわけでもないけど、まぁ面白かった。
3Dマリオとして、スーパーマリオサンシャインぶりにリッチでダイナミックなゲームプレイを押し出そうという方向性に、ピュアに挑んだ3Dマリオ最新作なのは確かだ。
スーパーマリオギャラクシーとスーパーマリオ3Dワールドという近代の3Dマリオで積み上げてきた触り心地の良さの集大成にもなっている。
3Dマリオの楽しさたるや何かというのを知りたい人がいたとして、マリオギャラクシーか3Dワールドかマリオオデッセイか、どれを触るといいかで言えば、マリオオデッセイを触るのがいいだろう。
最新作なだけあってゲームデザインも最適化されているマリオオデッセイは、パワームーンを集めていくというゲームプレイの主なサイクルにおいてストレスが無い。
過去作では、一度パワースターやゴールポールに辿り着くと、その都度拠点に強制的に戻されたのだが、マリオオデッセイでは一度ステージに降り立てばシームレスにパワームーンを集め続けられるし、そのテンポでの収集に耐えうるだけのパワームーンが用意されている。
後はまぁ・・・グラフィックとサウンドがリッチだ。マリオギャラクシーやマリオ3Dワールドもそうだったので、3Dマリオシリーズはプラットフォームのパフォーマンスの上限を示すベンチマーク的な役割も伝統的に担っているんだろう。
グラフィックは現在Switchで出ているタイトルで最も高品質であり、マリオオデッセイを触れば、あえてタイトに判定しない限りはSwitchがPS4やXbox ONEなどの標準の機種に比べて、言う程マシンパワーが不足していると感じることは無いんじゃないだろうか。
サウンドに関しても同様に高品質で、その上、各所で驚嘆の声の上がったHD振動が、疑似サラウンドのような効果をもたらしているように思う。HD振動は最新のゲーム体験として価値のある提案だ。
また、3Dマリオチームの難易度とボリュームとの向き合い方も、任天堂がカジュアルに偏重していた時期もブレていなくて好感を持っていたが、マリオオデッセイまできても良い意味でそこは変わっていない。
結局、マリオオデッセイがゲームファン基準でリッチでダイナミックな3Dマリオを志したこと、それ自体が私にとっては最も喜ばしいこと。
ゼルダの伝説BotWという1本で、任天堂がゲームファン基準でリッチでダイナミックなタイトルを出してきたというだけでは、まだ任天堂を信じるには不充分だった。
それが、スーパーマリオオデッセイもそうだったわけだ。しかも、同じ年で。宛ら、N64のときのゼルダの伝説時のオカリナとスーパーマリオ64のように。
マリオオデッセイをクリアした時点で、私が長らく任天堂に対して抱いてきた不穏な気持ちは、完全に払拭された。
だからこそ、しばらくゲームから離れてもいいように感じている。
私がSwitchで、それこそマリオとゼルダ以上に最も期待しているのは、どうぶつの森とピクミンなのだ。
だからもう、どうぶつの森とピクミンが出るまで、ゲームは何にもやらなくていいくらいに思うわけで。まぁ、普通にやるだろうけど。
中途半端な感じのままピクミンを迎えるのは絶対に避けたい。ピクミン、マジで好きだから。
あと、どうぶつの森と言えば、先日配信が開始され、世間で非常に盛り上がっているどうぶつの森ポケットキャンプについて、言及せずにはいられまい。
と言っても、今回の一連の記事を書いている最中にポケ森が配信されてしまった為、触るのは書き上げてからにしたくて、何か話すにしても、触ってから話したい。
触る前に言いたいこととしては、Twitterの方で少し言及したので、最後にそちらを引用して、この記事はこれにて〆とする。
どうぶつの森ポケットキャンプはとりあえず事前登録したけど、自分が今作について言及することは、どうぶつの森の世界においてプレイヤーが所有する自動車という移動手段の存在が認められた…つまりSwitchのどうぶつの森で好きに乗り回させてくれるんだよねっていう。シームレスな3D空間で。 pic.twitter.com/XF8oHocDwD
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年11月16日
闇雲にオープンワールド化しろってんじゃないし、「オープンワールドじゃないから退屈」なんてのはありえないけど、使える技術として目の前にあるならあえて避ける意味はないでしょっていうのが今のところの自分のオープンワールドに対する認識。
— CORETOMAYU (@CORETOMAYU) 2017年11月16日