長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

今はもう遊ぶことができないゲームが自分にとって最高のゲームの一つだった話

 SIE JAPAN Studioと京都のゲームデベロッパーのQ-Gamesによって開発され、2016年9月7日にリリースされた、ジャンルをソーシャルアクションとするPS4向けタイトル『The Tomorrow Children』(以下、TTC)は、今はもうプレイすることができない。

 このゲームは課金制を採用した基本プレイ無料のオンライン専用タイトルであり、SIEは2017年11月1日をもってサービスを終了したからだ。

 『FINAL FANTASY XIV』や『ドラゴンクエストX』などのMMOというジャンルにあたるゲームのプレイ経験が一切無く、スマートフォンのゲームを全く遊んでいない私にとって、1本のゲームがプロダクトではなくサービスであり、サービスを運営する会社が運営することをやめてしまった時点で、そのゲームに触れることすらできなくなるという事態は、言ってみれば他人事だった。

 一人のプレイヤーとしてTTCが永久に奪われてしまったことに対する納得のいかない気持ちは、私のゲームファンとしての経験とビデオゲームに対する認識が浅はかなだけとも言えるのかもしれない。

 けれど、私のようなゲームファンの視点からTTCがどう映ったのかは、ごく限られた期間の内に触れ、このゲームを理解することができた身として責任を持って語っておきたい。

 私が家庭用ゲームという場所でTTCに巡り会い、それまで愛してきたビデオゲームと同様の愛おしさをTTCに対して抱いたことは、出会うべくしての出会いだったからだと思っている。

 

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 TTCのゲームとしての目的に据えられているのは、人類の文明の復興。ある国家が秘密裏に遂行していた科学実験が失敗し、その結果、人の肉体と意識が溶けて固まった"ボイド"という真っ白な物質に地上が覆われてしまったという世界で、各プレイヤーはプロジェクションクローンと呼ばれる同じ姿をした少女を操作し、資源の採掘や施設の建設などを行い、「町」の復興条件達成を目指す。

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 「町」は、多人数同時接続型のオンラインゲームにおいて、一般的にサーバーや部屋と言われる類のもの。既定された上限に収まる1~20人ほどのプレイヤーで、町の復興条件達成というマクロな目的の下、各自が町の復興の為に必要なことを考えながら、共同作業及び、搬入済みの資源の運用を共同管理する。

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 町の周辺には見渡す限りボイドが広がっており、生身で歩くと沈んでしまうので、ホバーマシンという乗り物や、ボイドパワーなる地形を発生させる消費アイテムが必要になるが、高さ・奥行き共にシームレスに行動することができる。

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 ボイド上にて一定間隔で出現と消滅を繰り返す「島」と呼ばれる地形で、各種資源の採掘と、人形変換器という施設で人民に変換することができるマトリョーシカ人形の回収を行う。

 

 このマトリョーシカ人形の演出でニクいのが、プロジェクションクローンが持ち運ぶときに、風鈴の音のような非常に繊細な音で「コロコロコロ・・・」と、中に小さく儚い何かが入っている音がするところ。

 しかも、その音はコントローラのスピーカーからも出力される。マトリョーシカ人形は、資源と違って脆く、乱暴に取り扱うと容易く壊れてしまう。そうなってしまっては、最早人民に変換することはできない。

 プレイヤーに見つけられ、救出されることを待っていた尊い命の音が、文字通り自分の両手のひらの中で鳴るわけだ。嫌でも、無事に町まで運搬せねばと責任を感じさせられてしまう。

 TTCは、サウンドにおいても尋常ではないこだわりが込められている作品だ。開発に携わったスタッフによって、そのことが語られている記事を紹介しておく。

www.jp.playstation.com

 島は、広大なボイド上にランダムに出現するので、まれに町のすぐ近くに出現することもあるものの、大抵は町から遠く離れている。ボイド上を移動する手段としてはホバーマシンなどがあることを前述したが、島に行く手段としては、町と島を往復するバスがある。

 バスに乗って島へ赴き、採掘した各種資源や回収したマトリョーシカ人形を、バス停前のLOADING AREAと標示されている枠の中に置いておくことで、バスが発進すると同時に資源とマトリョーシカ人形がバスに積まれ、町まで運んでくれる。

 バスが町のバス停に到着すると、バス停前に資源とマトリョーシカ人形がドサッと放り出される。プレイヤーが町のSTORAGEと標示される枠の中まで運んで、資源の搬入が完了する。

 プレイしているときは意識していなくて、今この文章を書いていて気付いたのだが、これらの一連の流れは、全てシステム的に簡略化することができるだろう。

 LOADING AREAと標示された枠の中に資源やマトリョーシカ人形を「置く」という作業は、チェストのようなものを設置しておき、幾つの資源とマトリョーシカ人形をチェストに入れたのかという数値のデータのみを記録し、バスが持ち帰った資源とマトリョーシカ人形は、バスが町に到着した時点で搬入したという判定をしても、ゲームは成立する。

 だが、TTCというゲームは一貫して、資源やマトリョーシカ人形を、それそのものとしてプレイヤーが接するようにする。無機質なデータとして接することはさせない。私は、この精神が大好きだ。

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 多くのプレイヤーによって大量に集められ、積み重ねられた資源やマトリョーシカ人形の山は、何度見ても充足感を与えてくれた。TTCをプレイしたことが無くとも、わかる人にはわかる気がする。

 この何とも愛おしい「アナログ感」に関しては、他にもTTC独特の仕様がある。町で、ショップや、施設を建設する際に使用する万能工作台などを利用するとき、先に利用中のプレイヤーが居ると、「列」に並び自分の番を待つのだ。

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 TTCは多人数同時プレイのゲームだが、普段は自分以外のプレイヤーの姿は見えず、他プレイヤーが何かしらのアクションを取ったとき、一時的に画面に表示される。施設を利用することや列に並ぶことも、そのアクションに含まれる。

 プレイヤーはゲーム内で実際に列に並び、尚且つその様子は視覚的にゲーム内で描かれる。これはTTCという作品を象徴し、プレイヤーにとっては「他者とゲームプレイを共有している」というゲームデザインを直感的に理解できるビジュアルと言えるだろう。

 

 TTCのアナログ感、それはビデオゲームインタラクティブ性における「触り心地」を重んじる精神でもあり、この「触り心地」について掘り下げたい話がある。

 2017年に、任天堂は『ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド』と『スーパーマリオオデッセイ』を発売し、N64時代に『スーパーマリオ64』と『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で示した「箱庭ゲームの楽しさ」を、近代的な技術を取り込んだ上で、改めて世界中の多くのゲームファンに意識させた。

 私は、スーパーマリオオデッセイについてのある海外の翻訳記事で、スーパーマリオオデッセイに対し「サンドボックス」という表記を見かけたのだが、おそらく文脈から察するに、これは「箱庭」の英語訳ではないかと捉えている。

 しかしながら、私がビデオゲームの専門用語としてサンドボックスという言葉を知ったのは、あのマインクラフトのジャンルを指し、その言葉が用いられている記事を読んだときだった。

 世界を構成する全てに対し、物理的にインタラクションすることができる。世界そのものに有機的に触れるゲームデザインを砂場遊びに擬えて、サンドボックスと呼ぶのだと。

 だから、スーパーマリオオデッセイがサンドボックスと呼ばれているのを見たときは、「マリオオデッセイってサンドボックスなの?壁とか地面掘れないよね?」と思った。

 けれど、そもそも、3D空間で有機的に世界に触れることを志向したゲームを、スーパーマリオ64の時点で任天堂は「箱庭ゲーム」と呼んでおり、その「箱庭ゲーム」という言葉が「サンドボックス」という言葉になっているのなら、マインクラフトのようなゲームデザインに絞るまでもなく、「世界に触る」ゲームはサンドボックスと言えるのではないか。

 私にとってスーパーマリオ64は、ビデオゲームの虜になるきっかけになった作品であり、マインクラフトは、これこそが私がビデオゲームに求めていたものの現時点での到達点だと衝撃を受けた作品で、両作品とも、「私にとって最高のゲーム」である。

 『The Tomorrow Children』という作品が、私にとって最高のゲームの一つというのも、つまりはそういうこと。私は、ビデオゲームにその世界の感触を求める。

 以下は、TTCの正式サービスにて、初めて復興完了まで貢献したときに書いた当時の手記だ。

 

 "初めて復興の瞬間まで貢献した!凄く嬉しい。感動すら伴う達成感に、このゲームに感じ続けていた魅力の答えを知った。やっぱり好きだ。

 この時、本当に凄く嬉しかった。ゲームで「喜び」という感情を味わったのは初めてかもしれない。楽しいとか、爽快とか、満足とか、ゲームにおけるポジティブな感情ってそういうもので、なんていうんだろうな・・・個人的な感情というか。それは、今回の喜びという感情とは絶対的に違うもの。

 TTCスタンドアロンのゲームで、町の復興というのも、自分がどの町を復興させるのかを決めて、最初から最後まで自分の力だけでやり遂げるというものだったら、それをやり遂げたときの達成感は満足感だと思う。

 でも、TTCはソーシャルなゲームで、町の復興は他のプレイヤーと力を合わせることで目指す。その復興に自分はどれだけ貢献できたかというのが、このゲームの個人的な体験の部分。

 言ってみればただそれだけのこと。「そりゃ違うだろう」と、なると思う。でも、このゲームはプレイしているときにその割り切りを感じさせないのかな。スタンドアロンのゲームをプレイしているようなフィーリングなんだ。でも、私のプレイは確かに、皆で目指す目標への貢献。

 スタンドアロンのフィーリングの上に、マルチプレイの感覚を再現してるのが、このゲームの素敵なところなんだろう。本当に嬉しかったんだ。

 最後に、人形変換器の近くで皆でいいねし合っていた。「やり切った!」じゃなくて、「いやー、やり切ったねー!」という感じで。

 スタンドアロンオープンワールドのゲームって、どんなに広くてもマップが頭の中に入ってしまえば、文字通りそのフィールドはもう自分の庭で。「庭」なんだ。「世界」じゃなくて。

 世界って、もっと手に負えないもの。手に負えないから、その世界で自分は何をしようかと思い、その世界でできたこと、自分が遺せた痕跡に、充足感を覚える。

 そして、更に痕跡を遺したいと思う。痕跡を遺すだけの、やれることが世界にはまだまだいっぱいあると、そう思える。

 自分のものにならないからこそ、自分との繋がりを尊く思える。そんな世界に愛着が持てる。人間にとって「世界」ってそういうもの。

 TTCの世界は、とてもじゃないけど一人じゃ手に負えないようになってる。それは、そういうゲームデザインだからと言ってしまえばそれまで。ソーシャルなゲームだからと言ってしまえばそれまで。

 でも、それを自然と受け入れられるんだ。納得できる。言葉で説明するまでもなく、触った感触こそが何よりも説得力を持つ。"

 

 ただ単に、スーパーマリオ64などに匹敵する水準の触り心地があるというだけだったのなら、最高とまで言うには至らなかっただろう。ビデオゲームに世界の触り心地を求めた私に、少なくとも私の中では今までに無かった、ビデオゲームにおいて創り出すことができる「世界」の定義をTTCは示したのだ。

 この記事は、開発者自身によるTTCのプレゼンテーションを書き起こしたものだ。マルキシズムという実際の社会に適用される思想体系を、ゲームデザインの着想としていることが語られている。

 2016年の1月、発表以来ずっと興味があったTTCクローズドベータテストが実施される報せを受け抽選に応募し、当選することができた。指定の日時にTTCをプレイし始めたが、最初は、このゲームにおいてすべきことを全く理解できずに終わる。

 しかし、素材は見えている。ゲーム内の変化をアナウンスしていると思しき公共スピーカーや、ショップや家屋などの施設が立ち並び、NPCが親しげに声をかけてくる「町」。そこから「バス」が発進し、遠くにある「島」までプレイヤーを送迎する。

 ショップで購入することができるピッケルやシャベルなどの「ツール」。そのツールを使い採掘し、鞄に収納することができる「資源」。島の物陰に隠されるように置かれている、ひどく脆い謎の「人形」。そして、ふと気付くと時折足元に落ちている米ドル紙幣を思わせる緑がかった見た目の「外貨」。

 ショップの販売員からこっそりと教えられた「ブラックマーケット」にトランシーバーを使って繋ぐと、町のショップでは不許可とされ購入することができない銃火器やジェットパックを購入することができる。

 この世界において、最低限のツール以外の使用を許可されていない私は、内緒で拾って懐に収めた外貨を使い、開放的な雰囲気の爽やかな白を基調としたカラーリングで曲線的なデザインの外国製ジェットパックを背負う。

 そして思う。コレは「自由」だと。

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 自由を得た私は、この世界で何ができるのだろう。何がしたいのだろう。私は、「個人住居」を建てたかった。

 ベータテストプレイ開始時に与えられた個人住居建設許可証というアイテムがあれば、町に個人住居を建設し、その町において様々な権利が開放されるとのことだが、ほとんどの場合、町の建設上限に達しているとされ、建設することができない状態だった。他のプレイヤーが、先に個人住居を建設してしまっているということだ。

 空きのある町はないかと、町一覧を眺めながら、ある点に気付く。個人住居建設数の母数が町によってバラバラであることに。

 そこから、個人住居の枠は拡張されると推測し、「タウンホール」という施設のレベル上昇に従って拡張されることを学ぶ。

 では、そのタウンホールという施設のレベルは、何を条件に上昇するのだろう?そう考えながらタウンホールを観察していると、タウンホールの中心部に何やら投入口のような穴があり、その上にアイコンと数値が描かれている。

 そのアイコンとはメタル資源を表すアイコンで、数値は、次のレベル上昇までに必要なメタルの数だった。この時点で、とにかくメタルを集め、タウンホールにひたすら投入し続けるという目的が定まった。

 だがしかし、私一人で、貧弱な国産ツールでメタルをせっせと採掘し、バスに積み、誰かに資源として搬入されてしまう前にタウンホールまで運ぶという行動を取るのは、資源を3つしか収納できない初期のステータスからしても、極めて非効率的で限りなく不可能に近い。

 ブラックマーケットを利用すれば強力な外国製ツールを使うこともできるが、ジェットパック一つ買えば、時折落ちているものを拾って集めた外貨の残りは知れている。とにかく非力なのだ。一人のプレイヤーの力など。

 そこで私が辿り着いた答えは、町に参加するプレイヤーによって形成されている「共同体」を利用するということ。

 彼ら一人一人の目的は知る由もない。このゲームにチャットは無いから。だが、各々が目的を果たす為に、各々を利用し合うことが合理的なゲームデザインになっているので、結局皆、復興に向かって真面目に働くことになるのだ。

 誰かが資源を採掘すれば良くて、誰かが資源をバスに積んだり、町に搬入したりすれば良くて、誰かが町で必要な施設を建設すれば良くて、誰かが町に迫る脅威を迎撃したり、被害を受けた施設を修復したりすれば良い。その共同体の中で私は、タウンホールにメタルを投入する「誰か」になった。

 目的通りタウンホールのレベルを上昇することができ、晴れて個人住居を建設したときには、TTCにおける世界の定義を理解し、世界を構成する一部になっていた。

 

 ここまでで、TTCについて一通り語ってはきたが、TTCをプレイしていて、個人的に心地良く感じたことについても語っておきたい。

 TTCは、静かなゲームだ。日本の伝統的な美意識の侘び寂びにも通ずるところがある。世界の時間が止まっているかのような静けさを、私は「沈黙」と言い表す。

 見渡す限り平坦で白い景色が広がるボイドには、人の意識が融けているとされている。ボイド上にフッと現れ、フッと消えていく島々は、どれも何だか意味ありげな造形をしている。

 見覚えのある何かっぽかったり、それにしてはちょっと奇妙で、ただならぬ雰囲気を醸していて。

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 今、我々が生きる文明社会が、ボイドに覆われる前の世界だとして、忙しなく、騒々しく、雑多で、混沌としていた世界の残像を思わせながら、島はただ何も語らずにボイドの上に佇んでいる。

 BGMの流れない普段のフィールドから、島がある空間に足を踏み入れると流れ始めるアンビエント系のBGMも、開けた空間に鳴り響いて拡散していく感じではなく、空間に同化し、滞留しているような感覚だ。

 島の高所で、風も吹かず、見渡す限り何も無いボイドを眺めながら木を伐採しているときも、暗闇と危険な敵に備えながら、一層静かな島の内部で、ぼんやりと温かな光を放つ愛らしいキノコを灯りにしながら資源を採掘しているときも、沈黙する世界で単純な作業に集中していると、「自分は今、世界でたった一人」などという感覚に包まれる。

 流動し続ける世界の流れを止めて、そこに佇む一点に集中する。この効果は謂わば瞑想か。

 現実から一歩引いて、心の調子を整える時間をビデオゲームとして人々に提供することは、ビデオゲームというエンターテイメントの特性に合っていると、個人的に思っている。人によっては、これを作業ゲーと一蹴するのだろうけれど。

 私が好むTTCのこの性質と同様のものがあると言えるのは、私が人生で最も気に入っている作品である『ピクミン2』だ。

 小さな宇宙人の目線で、作品内では地球だとは語られない明らかに地球っぽい惑星で、原生生物と呼ばれる見慣れたカエルとか芋虫みたいな面影のある生き物を排除しながら、我々が普段生活している足下の世界で、我々が使っている乾電池だとか・・・あずきの缶詰だとか・・・ゲームキューブコントローラのアナログスティックにあたる部品だとかを、「お宝」としてせっせと集める。

 ピクミン達が力を合わせ、(宇宙人目線で見ると)巨大な(とても見覚えのある)物体を運搬する様は、宛らアリ。

 まだ体が小さく、自分の目線と地面が近かった頃、地を這う昆虫を眺めながら、スケールがまるごと違うのであろう昆虫の生活というものを想像していた。ピクミン2でできるのは、まさにその体験。

 これもまた、現実と地続きでありながら現実から一歩引いている感覚にさせられるもので、普段生きている現実との距離感が堪らなく心地良いのである。

 

 私がTTCについて語れることは、これで全てだろう。けれど私は、TTCにおける「共同体の中での自由」というものについて、満足には触りきれていない部分があったと、TTCのサービス終了後に思わされている。

 TTCがまだサービスを継続していた頃、私はこのゲームのインターネット上のコミュニティやSNSでの情報交換に全く目を通さずにプレイしており、復興を目指す上では無意味な町のカスタマイズなどにも関心を持っていなかった。

 マインクラフトにおいてもそういった楽しみ方があるように、TTCもそういった楽しみ方ができるように作られているのは分かっていたが、そもそも私は、そういった楽しみ方を好むプレイヤーではなかった。

 復興という目的にどうアプローチしていくかということだけを楽しむことに焦点を置いていたので、早い話、あえて人が少なく賑わっていない町に行くようなプレイばかりしていたのだ。

 TTCがとうとう終了されたとき、まだ始まったばかりで、これから多くの人に触れられなければならない素晴らしい作品が、永久に誰にも触れられずに抹消されることに納得がいかず、その意志をインターネット上で表明し、同じように残念がる意志を表明する人々に積極的に賛同を示した。

 そのときから、私のSNSのTLに、TTCで町をカスタマイズしたり、プレイヤー同士で積極的に交流したりするプレイの様子が活発に流れてくるようになった。頭では分かっていたが、やはりTTCは、ゲームを共有するプレイヤー同士が"戯れ合う"場としても、唯一無二の作品だ。

 囲いの中、非力な子どもが儚い自由を無邪気に謳歌し、互いに助け合い、時にからかい合い、皆の力で、皆の居場所を創っていく。TTCは、そんな場所、そんな時間を、人々に与えている作品だった。

 復興するときとは、皆で創った居場所を皆が去るとき。復興が盛大に祝われた後、次の町の復興に向かう為に、再び一人地下鉄に乗り、窓に映る自分の姿を眺めるプロジェクションクローン。

 最初、町にやってきたときと同じ光景が、やけに胸に隙間風を吹かせるとき。

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 ここまでTTCを語ってきた私にすら、満足に触りきれていない部分がある。まだTTCに触れていない人が数多くいる中で、このような創造性に溢れた作品が抹消されるべきではないと、多くのゲームファンが思ってくれることを強く望む。

 私は一ゲームファンとして、ビデオゲームの歴史において、The Tomorrow Childrenのような素晴らしい作品が抹消されることなどない、正しい歴史が続いてほしい。

 

 記事を書く前、スマートフォンのゲームに通ずる基本プレイ無料のゲームとしての話や、近年の日本における(マイクラのような)サンドボックスゲームのブムなども絡めて喋ろうかと考えていたが、結局はTTCというゲームが存在して、そのゲームはとても面白いゲームだったという話だけでいいと考えた。

 何かが生まれるまでには流れがあるが、生まれた何かからまた新たな流れができる。できなければならない。

 そういう意味で、既に生まれているものが生まれて"から"のことに対して、生まれるに至るまでの流れを基準に論考する意味は、特に無いだろう。

 最後に、アメリカのワシントン・ポストにて、The 10 best video games of 2017という題で、2017年に各所で絶大な称賛を浴びた『ペルソナ5』や『スーパーマリオオデッセイ』に、『The Tomorrow Children』が名を連ねていた記事を紹介して、本稿を締め括る。

www.washingtonpost.com