長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

結局は、この世界を拒む理由が無かった

 現在、Rockstar Gamesの『Red Dead Redemption 2』をPS4でプレイしている。進行具合としてはチャプター4まで進んでおり、メインストーリーの舞台が、おそらくゲーム内で最大規模かと思われる街に移った辺りだ。プレイ時間は20時間は経過していると思われる。今回は、本作をプレイした現時点での感想と、購入に至るまでに考えていたことのまとめを書いていこうと思う。

 2018年発売予定の作品として、『Red Dead Redemption 2』は、発売前から気になっていた。しかし、きっとプレイしてもすぐに投げるかもしれないと思い、予約することなく発売日を迎えた。RDR2に充分な魅力が無いからではなく、個人的に、2017年の末辺りから、ゲームに対する熱量を高く維持できなくなっているのが直接的な理由だ。そして必然的に、その熱量は、家庭用ゲームの話題について書いていくとしているこのブログを更新する意欲と等しい。余程でもないと更新する気は起こらず、前回のPSVRとアストロボットの体験などは「余程」だったと言える。つまりは、今こうしてRDR2について書いているので、RDR2も「余程」だということになる。

 発売日から数日経過して購入に至った決め手として、コレと言ったものはなく、単に「やっぱり気になる」から購入した。ただ、購入前にTwitterにて購入を渋るぼやきなどは垂れていた。RDR2発売後、これまでロックスターが送り出してきたカジュアルに遊べるオープンワールドアクションゲームと比べ、開発者たちの独善的なエゴを感じるとも言えるような癖のある仕上がりになっているRDR2に対して、ネット上で少なくなく湧き上がった戸惑いの声は観測しており、そういった反応を受け、RDR2に対して懐疑的な意見を幾つかツイートした。RDR2のどういった部分を懐疑的に捉えたかは、これからまとめて話していく。

 

 私にとって、ロックスターが今できる全てを注ぎ込み作り上げたRDR2の世界を拒む理由は無かった。私のゲームファンとしての経歴において、ロックスターのオープンワールドゲームは常に、ビデオゲームというエンターテイメントが、画面の向こうにあるもう一つの世界を体験するものだと提示し続け、それは紛れもなく自分が求めるものだった。そして、今回もロックスターは確かに約束を守った。画面の向こうには、1899年のアメリカ西部がもう一つの世界として広がる。コントローラを握れば、その世界の何に触れ、どこに行くかの権利が……すんなりと与えられるかというと、この作品は中々にプレイヤーを拘束するというのが事実だ。

 RDR2の評判として各所でも多く触れられているが、チャプター1はラスト・オブ・アスなどのようなリニアなゲームプレイとなっており、オープンワールドゲーム的な要素はほぼ皆無である。かつて、GTAシリーズにおける登場キャラクターの感情が伝わってこないドライなストーリーは、バイオレンスなゲーム内容と噛み合ったものとして、ロックスターのオープンワールドゲーム独特の味わいなのかと思っていたが、RDR2をプレイしていると、ロックスターとしては、そこは不本意な部分もあったのだろうかと思えてくる。RDR2のストーリーは、序盤からシリアスな雰囲気が漂い、主人公アーサーが属するギャングは、確かに強盗や詐欺などの犯罪を稼業にしている無法者集団なのだが、それは、この世界で自分たちが生き抜く手段だと考えており、彼らなりの節度や理念や美学を持っているという人間味が強く描かれている。主人公たちとは異なるギャングに襲撃され、家族と家を失い悲しみに暮れている女性を保護したり、親子や兄弟のようにギャングの仲間同士が想い合っていたり、小さな子どもは皆に優しく見守られながら健やかに育っている。そこには、笑顔、悲壮な顔、葛藤する顔と、人間らしい表情が数多く描写される。こういった登場人物たちの関係性や感情を丁寧に描くため、ストーリーはシリアスな映画のようにじっくりと進行する。十数年前のGTAでは、淡々とした日常生活の最中にいる依頼主のもとに主人公が無言で現れ、買い物でも頼まれるように、始末する人物のリストを受け取り、無言で現場に向かっていたが、そんなアッサリした演出とは大違いだ。

 ロックスターにとって、RDR2のように人物を丁寧に描写するストーリーというのは、ずっとやりたかったことであり、やっとできるようになったことなのだろうと、プレイしながら思っていた。ストーリーとは関係のないフリーローミング(チャプター2から解放される)のゲームプレイにおいても、無闇に悪事を働かせるような作りにはなっておらず、悪事を働くか、人道的な行動を取るかは、プレイヤーがする "選択" であるというようにデザインされている。因みに私は、指名手配され追われる身となるのも面倒なので、基本的には大人しくしており、助けを求める人には、報酬や、その後に起こるかもしれないイベントのフラグなどを目当てに手を差し伸べたりと、まぁ善人プレイと言っていいプレイをしている。 "選択" としてデザインされていると言ったように、こういったプレイでもゲームはきちんと成立するようになっているわけだが、それと同時に、やはりお金が欲しくて魔が差す…ということも自然に起こり、プレイヤー各々の目的の延長に "適度な悪事" が入り込む余地もある。そうした "選択" の場面は、街の中や、道ですれ違う人、キャンプをしている人、人里離れた民家など、世界中に散りばめられている。登場人物の感情を丁寧に描くストーリーにせよ、NPCをただ殺されるだけの人形にはさせないゲームデザインにせよ、ロックスターのオープンワールドゲームが、こうも品性や誠実さを纏うところに辿り着いたのかというのが、私がRDR2をプレイし最も強く感じることだ。

 また、植物・動物・魚など、特に動物がそうだが、単に飾りとしてフィールドに存在しているものはほぼ皆無であり、それぞれの資源が、この世界に存在するべくして存在しているという、世界そのものを創ってしまったと言っていい力技によって、クラフト要素や食事要素が無為で単調な作業ではなく、その世界で生き抜く為にすべきこととして自然に受け入れることができる。非常に広大なマップの移動手段として、いつでもどこでも好きな場所にテレポーテーションできるようなシステムはなく、基本的には馬による移動が最も多くなる。鞍を着けている馬がメインの馬となり、馬は、プレイヤーキャラクターのアーサーと同様にライフやスタミナなどのステータスが存在し、アーサーと馬、両方のステータスを管理するため、長旅に回復・補助アイテムが必要となる。場合により、所持金を消費することで駅馬車(タクシー的な馬車)や列車によるファストトラベルに近い移動も可能ではあるものの、それも含めて、こういった要素は面倒くさいと一蹴されたりもするだろうけれど、私は、せっかく作り込まれた世界との関わりを尊重していることは好ましく思う。何より、RDR2の世界には、間違いなくそれ程深く関わるだけの価値があることに、どうしても正義がある。

 しかし、2018年にロックスターが辿り着いたその形に、それまでのロックスター製オープンワールドアクションゲームのようなカジュアルなエンターテイメント性を予想していたと思われる層から戸惑いの声が湧き上がってくることに、ロックスター側に責任はあると思っている。まず、ハッキリと言って、システムUIを含む操作系全般の設計の醜悪さは看過できない。無駄に多い長押し操作は、長押し操作である必要性に疑問を感じる操作が少なくないし、その都度長押し判定が鈍いのもストレスフルだ。

 アイテムを取得する・馬に乗る・NPCに話しかける等のインタラクション(働きかけ)操作は、一律に画面右下に当該のボタンが表示されるが、他のゲームでは、こういったインタラクション操作は画面中央下部であったり、インタラクションする対象の付近に当該のボタンを表示するのが一般的である。プレイヤーがゲーム内の対象に働きかけるとき、プレイヤーの視線は、カメラが常に中央に捉え続けるプレイヤーキャラクターや、対象そのものに向けられているのだから、他のゲームのようなUIが合理的だと思う。RDR2は、多くのインタラクションが存在するゲーム内容であるだけに、他のゲームとは異なる直感的でないUIを採用するという判断は理解に苦しむ。没入感を高めるためにUIを目立たないようにしているつもりだったりするのだろうか?そうだとして、結果的に採用されたUIはあまりに不合理で、直感的で快適なゲームプレイを著しく軽視しているのではないかと思わざるを得ない。

 釣りの操作に関しては、自分以外に不満を垂れている人は今のところ見かけていないが…繰り入れる操作が右スティック回転というのは最低なセンスだと思う。現在の私の進行時点から更に先に進めると、強化された釣り竿などが手に入ったりするのかもしれないとは思うが、大物との長い格闘でずっと右スティックを回転し続けていたら、翌日は右腕の痛みで目が覚めた。

 …と、ここまで操作系の醜悪さを厳しく指摘してきたが、仮に、ゲーム自体がキビキビとテンポよく進むものであったなら、この操作系でも、それ程厳しい指摘はしなかったかもしれない。RDR2の場合は、プレイヤーキャラクターの一つ一つの動作が、リアリティを表現するために非常に緩慢であり、ストーリー演出時においては、プレイヤーキャラクターの操作は強く拘束される。プレイヤーにとっての拠点ともなるギャングたちのキャンプでは、仲間との日常会話などが発生するため、ストーリーを進行する気がなくとも、拠点にいる限りは常にストーリーを演出しているのと同様で、拠点では強制的に歩くことしかできなくなる。この窮屈さの例えとしては、「ダークソウルで装備重量を超過した状態」を推したい。

 普段、あまり意識はしないことだが、ゲームのプレイヤーキャラクターの動きというのは、ゲームプレイの快適さのために意図的に非現実的な動きに調整されている。歩行速度なども、現実的な人間の歩行速度よりは速めに調整されている。そういった調整は、「必要な嘘」だ。MGSVやゼルダの伝説BotWなどは、視覚的に自然な表現と、優れたゲームプレイのための巧みな嘘を、極めて高いレベルで統一している作品だ。私は、RDR2をゲームとして美しいものに仕上げることは可能だったと思う。シミュレータとして心地よくあろうとするのなら、ゲームコントローラでの操作系に落とし込むのは、むしろビジョンを制限してしまっているのではないだろうか。いずれにしても綺麗にはまとまっていないので、正当化するには苦しいだろう。

 

 RDR2は、現代のゲームの答え合わせのようだと思う。5年前、GTAVをプレイしたときにも、そう感じたように。肯定も否定も、これから出てくるゲームが、いかなる部分をより研ぎ澄まし、また拡大するのかを見定める基準になる。ロックスターは、2018年のビデオゲームができることを総括した。とてつもなく巨大な質量をビデオゲームというフォーマットに詰め込んだこの作品は、私を含める世界中の数多くのゲームファンにとって、拒む理由が無かったのは確かだ。

 最後に、RDR2のスクショを幾つか貼っておこう。個人的に、ゲームにおける空の表現に執着しているところがあるのだが、RDR2の空の表現は、快晴の空も、曇った空も、夜空も、完璧だ。無論、雲はリアルタイムで動いている。素晴らしい。

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 ストーリーについては、ジャックが堅気の世界で健やかに育っていけるなら、ギャングは崩壊でもなんでもすればいいと思っている。流れゆく時代によってギャングたちが居場所を失いつつあるという背景は、色んな意味で救いがある。どうせ終わるんだから最後まで自由でいようという気持ちにもなり、せめて守るべきものを守り通して終わっていこうという気持ちにもなる。

 

2018/11/15 追記

Twitterにてエピローグクリア後の総評。スレッド化しての複数ツイート。

 

PSVRとASTRO BOTでゲームの興奮が息を吹き返した

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 先日、勢いで買ったPSVRとASTRO BOT

その楽しさにTwitterにて一人ではしゃぎ倒し、書く気力が一時的に復活したので、書く。

 ↓体験版の配信が開始されたみたい。

 

 ここ数日、PlayStation VR専用タイトル『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』をぶっ続けでプレイしていた。初見の感想ツイートを投稿したのが7日前のようだから、丁度1週間。プラチナトロフィーを獲得するまでやり込んだ感想を結論から言うと、非の打ち所がない完成度・満足度の作品だ。ASTRO BOTは、この2018年にゲーム熱が飽和して不感症に陥っている真っ最中の私に、そう言わしめた。

 今回書く内容は、これまでの記事よりはレビュー(批評)を意識している。そこで、以前から考えていた3つの指標を用いて評価してみることにする。3つの指標の1つめは、「創造性」。「新鮮味」と言い換えられる。2つめは、「ビジョン実現度」。「完成度」と言い換えられる。3つめは、「ゲームプレイ充実度」。新鮮味と完成度の度合いにも拠るが、「満足度」…或いは「ボリューム」と言い換えられる。この内、完成度と満足度は既に「非の打ち所がない」と述べてしまったが、5つ星による評価の発表と共に、より詳しく書いていく。

 批評に入る前に、作品の概要を書いておこう。

 『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』は、SIE JAPAN StudioのASOBI!チームが開発を担当。ジャンルはVRプラットフォーマーとしている。プラットフォーマーというと、日本のゲームファンにはあまり馴染みのない単語のようにも思う。ジャンプアクションと言い換えたら、イメージが幾らか鮮明になるだろうか。ジャンプ操作を駆使し、賑やかなギミックに溢れた段差や台座を飛び移りながらゴールに進んでいくジャンルであり、代表的な作品としては、スーパーマリオシリーズがある。

 この作品の口コミが私の観測範囲に漂着するまでに、マリオの名は多く呟かれたようで、私自身、9月に配信されたPS LineUp TourでASTRO BOTのトレーラーが流れたときは、「THE PLAYROOMの素材使い回してマリオみたいなの出すんだ。( ´_ゝ`)フーン」くらいに思っていたのを覚えている。平面のモニタ用の映像であるトレーラーから受ける印象と、実際のゲームプレイの印象が全く違うことを、このときはまだ知る由もなかった。

 THE PLAYROOMとは、PS4のローンチ時から提供されているPS Cameraを使ったアプリケーション『THE PLAYROOM』と、PSVRのローンチ時から提供されているアプリケーション『THE PLAYROOM VR』のことだ。

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 いずれも無料で、フルのゲームではない。これらの開発を担当しているチームがASOBI!チームという名をいつから名乗り始めたのかは把握していないのだが、JAPAN Studioのこのチームは、PS4の初期の段階からPS Camera及びPSVR向けの開発経験を積み重ねてきており、THE PLAYROOMシリーズ初のフルのゲームであるASTRO BOTの開発においても、それまでのノウハウが大いに反映されているとのこと。後でより詳しく述べるが、PS Cameraと、PS Cameraによるトラッキングに対応しているDUALSHOCK4の密接な関係性も、ASTRO BOTの体験の深度を語る上で非常に重要なファクターである。

 では、この辺りで批評に移っていこう。

 

|創造性(新鮮味) ★★★★★

 いきなりだが、スーパーマリオシリーズへの言及を避ける意味はない。少なくとも私が批評する上では。ASTRO BOTの体験の性質は、3Dマリオの感覚にかなり親しい。ゲーム内容は全く似ていない。ASTRO BOTは飽く迄もVRプラットフォーマースーパーマリオシリーズ作品がVRプラットフォーマーであったことはないので、相似し得ない。似ている(親しい)のは、ゲームメカニクスレベルデザイン、アートワークなどを含めた全体のデザインの精神性・思想だ。複数のギミックがほぼ同一であることなどは、ジャンルとして成立する上での共通項として捉えている。

 そして、スーパーマリオシリーズの中でも、特に彷彿とさせられるのは、Wiiリモコンでの操作により、マリオがいる空間へのプレイヤーの干渉の仕方を格段に有機的にしたWii専用タイトル『スーパーマリオギャラクシー』(2007)だ。3Dプラットフォーマーとしてのスーパーマリオが重んじているのが、ゲーム空間の遊び場としての楽しさ。童話やカートゥーンの世界が実体化したような、好奇心・冒険心をくすぐる世界観。プレイヤーがその世界に有機的に干渉できる程、プレイヤーの感覚はその世界に接近する。

 ASTRO BOTの世界にプレイヤーが干渉する媒体となるPSVRとDUALSHOCK4。これらは、プレイヤーをゲームの主人公「アストロ」と空間を共有する次元にまで到達させた。

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 プレイヤーはアストロと空間を共有している。そして、DUALSHOCK4はゲーム空間においても同じDUALSHOCK4だ。このDUALSHOCK4でプレイヤーはアストロを操作し、コントローラガジェットと呼ばれる水鉄砲や手裏剣などで、アストロをサポートする。敵やギミックには、プレイヤーに影響を及ぼすものもあり、例えば砲台から射出されるミサイルに激突されると、衝撃音と共に視界にヒビが入る。

 

 

  プレイヤーは基本的に無敵で、ヒビもすぐに消えるが、嫌なら避けよう。頭を動かし、ヒョイと。

 

 

 ちなみに、水中においてはアストロもプレイヤーのモニタに物理的に干渉する。

 

 

  (かわいすぎる)

 アストロは、プレイヤーを信頼し慕っている相棒のような存在だ。話が逸れるが、昔、マリオギャラクシーをプレイしていたとき、それを見ていた祖母が「マリオは(私の名前)の子分みたいでかわいい」と言っていたのを思い出す。それを聞いて、その捉え方は面白いな(子分という表現にも笑えてくる)と思ったのを今もよく覚えている。ここで全ては紹介しないが、ASTRO BOTにはPSVRとDUALSHOCK4でなければ成立し得ない仕掛けが、全てのステージ及びダイナミックなボス戦ステージに満ち溢れている。

 

 

  一つ、水の凄さは分かりやすいので触れておこう。水がマジで水なので、もう、波とか、ゴボゴボってなる感じとか水しぶきとか。凄い。昔から、水の表現はゲームの技術の進歩を分かりやすく反映する部分なのは、往年のゲームファンならば頷くところだろう。「VRゲームの水」を体験する目的でASTRO BOTをプレイするのもアリかもしれない。バカみたいに「水、スゲエエエエ!!!」ってなれると思う。

 

 

  ステージに入るときに毎回繰り返される、ステージが読み込まれ、アストロを含め救出対象のボットたちを格納する機能もあるコントローラの中から、「行こうよ!」とアストロが催促し、アストロを放つと同時に、それまで環境音だけが聞こえていた世界に音楽が流れ始めるこの一連の演出は、ASTRO BOTのゲームプレイに愛おしい印象を残す、素敵な演出だ。ワクワクする世界が徐々に視界に広がり、アストロと共に「さあ、行くか!」と出発するのである。

 ASTRO BOTは、スーパーマリオシリーズが築いてきたプラットフォーマーの設計思想を色濃く引き継いで成り立っているが、好奇心・冒険心をくすぐるゲーム空間に接近するに留まらず、共有するという次元を創造(カタチに)した。

 

|ビジョン実現度(完成度) ★★★★★

 ASTRO BOTのビジョンは、プレイヤーがゲームキャラクターとゲーム空間を共有するというコンセプトを基に、VRだからできる遊びの楽しさをプレイヤーに伝えることだと認識している。そのビジョンは、完璧に成し遂げられていると言える。

 PS4ローンチの頃…更に正確には、PS3向けのモーションコントローラとして2010年に発売されたPS Moveの頃からだろう。長い期間をかけ、モーショントラッキングを利用したゲーム開発の研究をSIE JAPAN Studioは継続してきた。ASTRO BOTの開発においては、その研究を下地に、綿密な設計・バランス調整が施され、バラエティ豊かな仕掛けが満遍なく散りばめられた全ステージをひと周りするまでの間、VRでなければ絶対になし得ない体験への興奮が常に冷めやらない仕上がりとなっている。

 スコアアタックやタイムアタックに挑戦するチャレンジステージのアンロックに必要となる各ステージに1体ずつ隠れているカメレオン探しや、救出したボットたちが収容される宇宙船アストロ号でクレーンゲームをプレイする際に必要なコイン集めなどの寄り道・やりこみ要素の条件達成・ステージクリア達成難度は、やり直しのストレスが最小限に抑えられ、適度な達成感を味わうことができる。

 

 

 

  ただ、アクションゲームに不慣れな人からの「難しくて詰みそう」という声は幾つか見かけたので、イージーモードなどの救済措置があってもよかったのかもしれない。アクションゲームにそれなりに慣れていれば、全体を通し、プレイヤーへの刺激とゲーム進行のテンポは心地よいまま崩れないだろう。

 余談だが、『THE PLAYROOM VR』には、複数あるミニゲームの内の一つとして、ロボットレスキューというミニゲームが収録されている。これは、『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』にレスキューという単語が入っていることからも推察できるように、ASTRO BOTの前進のような内容となっている。私は、ASTRO BOTのトロフィーコンプリート後、このロボットレスキューをプレイしてみたのだが、ASTRO BOTがそこからどれ程洗練されているのかはすぐに分かった。見た目はASTRO BOTとさして変わらないが、UIのレスポンス精度と速度、プレイヤーの行動に対するゲーム空間の反応の豊かさ、アストロのスムースな動きなどの磨き上げは、ASTRO BOTの没入感と快適性の底上げに絶対的に必要なものだ。

 VRゲームは、ほんの数分でさえ、退屈であったり煩わしかったりしてはいけない。そもそも、この2018年の時点においては、VRでゲームをプレイする環境が既に煩わしいのだから。ゴチャゴチャした配線が伸びるゴツい装置を頭に被り、イヤホンで耳を塞ぎ、私の場合はメガネまでしているので、拘束されている感覚が半端ない。ASTRO BOTのゲームプレイの快適さ、テンポの心地よさは、VR環境の煩わしさを、ほぼプラスマイナスゼロにできている。ただ、私はVRゲームの経験がまだ少ないので、VR空間での初めての体験の一つ一つに感動している分の加算もある。また、これは個人差もあるだろうけれど、このゲームは3D酔いがほとんど起こらない。平面のモニタでプレイする3Dゲームよりも起こらない。これは、本当に凄まじい成果だ。まさに、長年の研究の賜物なのだろう。

 ASOBI!チームの研究が、ゲームデベロッパーのカンファレンスなどで講演されることを期待したい。間違いなく、今後のVRゲーム開発の重要なヒントの数々を業界に還元できる筈だ。

 

|ゲームプレイ充実度(満足度・ボリューム) ★★★★☆

 ボリュームに関しては、総プレイ時間は把握していないが、プレイ開始から丁度1週間でトロフィーコンプリートを達成したことから推し量ってもらいたい。大半のトロフィーは、通常のステージ攻略とやりこみ要素に関連するので、特殊なトロフィーを取得しなくとも80%は越えると思われる。ASTRO BOTは、コンシューマ向けのゲームの中では、コンパクトにまとまっている方だ。実は裏ボスやら裏ステージやらがあって、それらを攻略する為に、それまでの経験と蓄えてきたゲーム内資産を全て応用して創意工夫を凝らすようなやり応えがある…とか、そういった濃密さは目指していない。

 この2018年は、小規模なスタジオによって開発されるインディーゲームが日本においても受け入れられ始め、コンパクトなゲームへの肯定的な意見は増えてきている。私の場合は、個人的な問題だ(と言いたい)が、今現在、ゲームをプレイするモチベーションのマネジメントに苦慮しており、「コンパクトなゲームだったら気構えずプレイできるな…」と思っているのは事実だ。ASTRO BOTがコンパクトであるが故に、その例に当てはまっていることは否めない。

 また、やはりVRゲームにおいては、環境の煩雑さによる身体的な疲労は拭い去れないものであり、平面のモニタでプレイする従来のゲームと比較して、単調で変化の少ないゲームプレイを許容できる時間は大幅に短縮される。地道なレベル上げとか、素材集めとか、そういったゲームプレイとの相性は厳しいものがあるだろう。

 このように、「VRゲームとしては」とか「コンパクトなゲームにも今は需要あるから」とか、そういったフォローは入るが、上述の2つの項目でも述べてきたように、ASTRO BOTのゲームプレイの構成は完璧だ。全てのボットの救出、カメレオンの発見とチャレンジステージへの挑戦、クレーンゲームで集めたフィギュアによる豪華なジオラマの完成などを経て、心地よいやり応えを感じたまま、プレイを終えることができた。

 しかし、私のゲームファンとしての性(さが)は今尚、濃密なゲームプレイの後に残る余韻を、ゲームで得られる幸福の上位に据えている。まだ公式に決定さえしていない続編では、更に大化けするだろうと勝手な期待を込め、★の置き場所を一つ空けておくことにする。

 

|技術的密度(作り込み) ★★★★★

 3つの指標と言っていたが、書きながら4つめの指標を思いついたので、加えて書いていく。

 私は、ビデオゲームにおける技術的なクリエイティブに敬意を示したい気持ちが強い。「グラフィックが美麗」、「物理演算が凄い」、「オープンワールドがめっちゃ広くてヤバい」など、そういうノリでバカ正直にはしゃげるタイプのゲームファンだ。

 ASTRO BOTのグラフィック表現の技術水準は高く、通り過ぎていく通路の岩肌や、洞窟の脇にある結晶の質感は、非常に現実味があり、思わずアストロを立ち止まらせ、まじまじと観察してしまった。草地にアストロが進入すると、草花はアストロの動きに応じてワサワサと動く。破壊された壁や、コインが入ったブロック、ボスが装着していたゴーグルの破片などが砕け散り、地面に散乱していく描写は、正確な物理演算によるリアルタイムな処理で表現されている。そして、水がマジで水という話は既にしたな。海は自然に煌めき、砂浜の波は自然に揺らめき、アストロが水面に身を投じれば、自然な波紋が広がる。プレイヤーが水中に頭を浸すとゴボゴボとなり、頭を出すとザバーっとなる。こういったゲーム空間の反応の一つ一つが不自然だったり、ぎこちなかったりしたら、没入感は大きく削がれていただろう。

 私には技術的な知識は無いので、「現実味があった」とか「自然だった」とか、そんな拙いことしか言えず、一つの項目として書くには、少々内容が薄くなってしまうが、個人的にかなり重視している部分なので、評価の指標としては外せない。

 

 批評は以上となる。

 最後に、コンシューマゲームにおけるVRの将来性について思うことを書いて、締め括るとしよう。

 PSVRは、今年で発売2周年になるらしい。「VR元年だ!」と、メディアも巻き込みざわついていた頃から、もう2年経ったのか。個人的には、そんなに経った気はしない。そんなPSVRを取り巻く世間の声は、「失敗した」、「3Dテレビなどの一過性のブームに過ぎない」といった意見が少なくないようだ。先に言うが、私は、そういった悲観的な意見には疑問を抱いている。特に、後者のような意見には。

 現状の家庭用VRシステムは初期導入費用が高額であり、とてもじゃないが気軽に楽しめるエンターテイメントとは言い難い。また、環境は非常に煩雑であり、一般家庭であれば、置き場所に困るのはほぼ確実だろう。既に日本人にとっても親しみ深いPS4やSwitchといった家庭用ゲーム機を購入するようなノリでPSVRを購入するには、乗り越えなければならない心理的な障壁が大きいのは、やむを得ない話だ。現に私も、PSVRは若干ヤケクソ気味に購入した。PS4を所有し、たくさんゲームを遊んできたものの、ここに来て何をプレイしてもモチベーションを高く維持できなくなったので、なりふり構わずに刺激を求めるという心境に至るまでは、PSVRの存在は、ほとんど気に留めていなかった。ぶっちゃけ、購入した時点から、「ある程度楽しんだら売っちゃっていいかな」と思っている。現状のPSVRへの私の期待値はその程度だ。

 しかし、VRという新たなエンターテイメントのフォーマットが、今の私のビデオゲームに対する漫然とした気持ちを内側から突き破り、興奮する気持ちを少しでも思い出させてくれる筈だという期待は本気でしていたし、ASTRO BOTは、その期待に真摯に応えてくれる素晴らしい作品だった。

 VRゲームが当たり前になる時代が必ず来ると、ゲームファンとして確信している。平面のモニタに映される3Dゲームは、飽く迄も擬似的な表現に過ぎなかったと、全てのゲーマーが理解するだろう。技術は日々進歩し続けている。家庭用として利用できるVRシステムは、順を追ってより小型化・独立化が進み、性能も向上していく筈だ。PSVRは、その確実に来る将来に先んじての取り組みであり、そこで成立するエンターテイメントを率先してカタチにするASTRO BOTを含むVRゲームの作品群は、ビデオゲームが人々に届けてくれる興奮を、この先の未来も追い求め続けていていいのだと、ビデオゲームが人の人生を豊かにしてくれるものだと信じている全ての人に示しているのである。

 PSVRとASTRO BOTが見せてくれるビデオゲームの未来の始まりを、この記事を以て保証する。

今はもう遊ぶことができないゲームが自分にとって最高のゲームの一つだった話

 SIE JAPAN Studioと京都のゲームデベロッパーのQ-Gamesによって開発され、2016年9月7日にリリースされた、ジャンルをソーシャルアクションとするPS4向けタイトル『The Tomorrow Children』(以下、TTC)は、今はもうプレイすることができない。

 このゲームは課金制を採用した基本プレイ無料のオンライン専用タイトルであり、SIEは2017年11月1日をもってサービスを終了したからだ。

 『FINAL FANTASY XIV』や『ドラゴンクエストX』などのMMOというジャンルにあたるゲームのプレイ経験が一切無く、スマートフォンのゲームを全く遊んでいない私にとって、1本のゲームがプロダクトではなくサービスであり、サービスを運営する会社が運営することをやめてしまった時点で、そのゲームに触れることすらできなくなるという事態は、言ってみれば他人事だった。

 一人のプレイヤーとしてTTCが永久に奪われてしまったことに対する納得のいかない気持ちは、私のゲームファンとしての経験とビデオゲームに対する認識が浅はかなだけとも言えるのかもしれない。

 けれど、私のようなゲームファンの視点からTTCがどう映ったのかは、ごく限られた期間の内に触れ、このゲームを理解することができた身として責任を持って語っておきたい。

 私が家庭用ゲームという場所でTTCに巡り会い、それまで愛してきたビデオゲームと同様の愛おしさをTTCに対して抱いたことは、出会うべくしての出会いだったからだと思っている。

 

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 TTCのゲームとしての目的に据えられているのは、人類の文明の復興。ある国家が秘密裏に遂行していた科学実験が失敗し、その結果、人の肉体と意識が溶けて固まった"ボイド"という真っ白な物質に地上が覆われてしまったという世界で、各プレイヤーはプロジェクションクローンと呼ばれる同じ姿をした少女を操作し、資源の採掘や施設の建設などを行い、「町」の復興条件達成を目指す。

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 「町」は、多人数同時接続型のオンラインゲームにおいて、一般的にサーバーや部屋と言われる類のもの。既定された上限に収まる1~20人ほどのプレイヤーで、町の復興条件達成というマクロな目的の下、各自が町の復興の為に必要なことを考えながら、共同作業及び、搬入済みの資源の運用を共同管理する。

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 町の周辺には見渡す限りボイドが広がっており、生身で歩くと沈んでしまうので、ホバーマシンという乗り物や、ボイドパワーなる地形を発生させる消費アイテムが必要になるが、高さ・奥行き共にシームレスに行動することができる。

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 ボイド上にて一定間隔で出現と消滅を繰り返す「島」と呼ばれる地形で、各種資源の採掘と、人形変換器という施設で人民に変換することができるマトリョーシカ人形の回収を行う。

 

 このマトリョーシカ人形の演出でニクいのが、プロジェクションクローンが持ち運ぶときに、風鈴の音のような非常に繊細な音で「コロコロコロ・・・」と、中に小さく儚い何かが入っている音がするところ。

 しかも、その音はコントローラのスピーカーからも出力される。マトリョーシカ人形は、資源と違って脆く、乱暴に取り扱うと容易く壊れてしまう。そうなってしまっては、最早人民に変換することはできない。

 プレイヤーに見つけられ、救出されることを待っていた尊い命の音が、文字通り自分の両手のひらの中で鳴るわけだ。嫌でも、無事に町まで運搬せねばと責任を感じさせられてしまう。

 TTCは、サウンドにおいても尋常ではないこだわりが込められている作品だ。開発に携わったスタッフによって、そのことが語られている記事を紹介しておく。

www.jp.playstation.com

 島は、広大なボイド上にランダムに出現するので、まれに町のすぐ近くに出現することもあるものの、大抵は町から遠く離れている。ボイド上を移動する手段としてはホバーマシンなどがあることを前述したが、島に行く手段としては、町と島を往復するバスがある。

 バスに乗って島へ赴き、採掘した各種資源や回収したマトリョーシカ人形を、バス停前のLOADING AREAと標示されている枠の中に置いておくことで、バスが発進すると同時に資源とマトリョーシカ人形がバスに積まれ、町まで運んでくれる。

 バスが町のバス停に到着すると、バス停前に資源とマトリョーシカ人形がドサッと放り出される。プレイヤーが町のSTORAGEと標示される枠の中まで運んで、資源の搬入が完了する。

 プレイしているときは意識していなくて、今この文章を書いていて気付いたのだが、これらの一連の流れは、全てシステム的に簡略化することができるだろう。

 LOADING AREAと標示された枠の中に資源やマトリョーシカ人形を「置く」という作業は、チェストのようなものを設置しておき、幾つの資源とマトリョーシカ人形をチェストに入れたのかという数値のデータのみを記録し、バスが持ち帰った資源とマトリョーシカ人形は、バスが町に到着した時点で搬入したという判定をしても、ゲームは成立する。

 だが、TTCというゲームは一貫して、資源やマトリョーシカ人形を、それそのものとしてプレイヤーが接するようにする。無機質なデータとして接することはさせない。私は、この精神が大好きだ。

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 多くのプレイヤーによって大量に集められ、積み重ねられた資源やマトリョーシカ人形の山は、何度見ても充足感を与えてくれた。TTCをプレイしたことが無くとも、わかる人にはわかる気がする。

 この何とも愛おしい「アナログ感」に関しては、他にもTTC独特の仕様がある。町で、ショップや、施設を建設する際に使用する万能工作台などを利用するとき、先に利用中のプレイヤーが居ると、「列」に並び自分の番を待つのだ。

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 TTCは多人数同時プレイのゲームだが、普段は自分以外のプレイヤーの姿は見えず、他プレイヤーが何かしらのアクションを取ったとき、一時的に画面に表示される。施設を利用することや列に並ぶことも、そのアクションに含まれる。

 プレイヤーはゲーム内で実際に列に並び、尚且つその様子は視覚的にゲーム内で描かれる。これはTTCという作品を象徴し、プレイヤーにとっては「他者とゲームプレイを共有している」というゲームデザインを直感的に理解できるビジュアルと言えるだろう。

 

 TTCのアナログ感、それはビデオゲームインタラクティブ性における「触り心地」を重んじる精神でもあり、この「触り心地」について掘り下げたい話がある。

 2017年に、任天堂は『ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド』と『スーパーマリオオデッセイ』を発売し、N64時代に『スーパーマリオ64』と『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で示した「箱庭ゲームの楽しさ」を、近代的な技術を取り込んだ上で、改めて世界中の多くのゲームファンに意識させた。

 私は、スーパーマリオオデッセイについてのある海外の翻訳記事で、スーパーマリオオデッセイに対し「サンドボックス」という表記を見かけたのだが、おそらく文脈から察するに、これは「箱庭」の英語訳ではないかと捉えている。

 しかしながら、私がビデオゲームの専門用語としてサンドボックスという言葉を知ったのは、あのマインクラフトのジャンルを指し、その言葉が用いられている記事を読んだときだった。

 世界を構成する全てに対し、物理的にインタラクションすることができる。世界そのものに有機的に触れるゲームデザインを砂場遊びに擬えて、サンドボックスと呼ぶのだと。

 だから、スーパーマリオオデッセイがサンドボックスと呼ばれているのを見たときは、「マリオオデッセイってサンドボックスなの?壁とか地面掘れないよね?」と思った。

 けれど、そもそも、3D空間で有機的に世界に触れることを志向したゲームを、スーパーマリオ64の時点で任天堂は「箱庭ゲーム」と呼んでおり、その「箱庭ゲーム」という言葉が「サンドボックス」という言葉になっているのなら、マインクラフトのようなゲームデザインに絞るまでもなく、「世界に触る」ゲームはサンドボックスと言えるのではないか。

 私にとってスーパーマリオ64は、ビデオゲームの虜になるきっかけになった作品であり、マインクラフトは、これこそが私がビデオゲームに求めていたものの現時点での到達点だと衝撃を受けた作品で、両作品とも、「私にとって最高のゲーム」である。

 『The Tomorrow Children』という作品が、私にとって最高のゲームの一つというのも、つまりはそういうこと。私は、ビデオゲームにその世界の感触を求める。

 以下は、TTCの正式サービスにて、初めて復興完了まで貢献したときに書いた当時の手記だ。

 

 "初めて復興の瞬間まで貢献した!凄く嬉しい。感動すら伴う達成感に、このゲームに感じ続けていた魅力の答えを知った。やっぱり好きだ。

 この時、本当に凄く嬉しかった。ゲームで「喜び」という感情を味わったのは初めてかもしれない。楽しいとか、爽快とか、満足とか、ゲームにおけるポジティブな感情ってそういうもので、なんていうんだろうな・・・個人的な感情というか。それは、今回の喜びという感情とは絶対的に違うもの。

 TTCスタンドアロンのゲームで、町の復興というのも、自分がどの町を復興させるのかを決めて、最初から最後まで自分の力だけでやり遂げるというものだったら、それをやり遂げたときの達成感は満足感だと思う。

 でも、TTCはソーシャルなゲームで、町の復興は他のプレイヤーと力を合わせることで目指す。その復興に自分はどれだけ貢献できたかというのが、このゲームの個人的な体験の部分。

 言ってみればただそれだけのこと。「そりゃ違うだろう」と、なると思う。でも、このゲームはプレイしているときにその割り切りを感じさせないのかな。スタンドアロンのゲームをプレイしているようなフィーリングなんだ。でも、私のプレイは確かに、皆で目指す目標への貢献。

 スタンドアロンのフィーリングの上に、マルチプレイの感覚を再現してるのが、このゲームの素敵なところなんだろう。本当に嬉しかったんだ。

 最後に、人形変換器の近くで皆でいいねし合っていた。「やり切った!」じゃなくて、「いやー、やり切ったねー!」という感じで。

 スタンドアロンオープンワールドのゲームって、どんなに広くてもマップが頭の中に入ってしまえば、文字通りそのフィールドはもう自分の庭で。「庭」なんだ。「世界」じゃなくて。

 世界って、もっと手に負えないもの。手に負えないから、その世界で自分は何をしようかと思い、その世界でできたこと、自分が遺せた痕跡に、充足感を覚える。

 そして、更に痕跡を遺したいと思う。痕跡を遺すだけの、やれることが世界にはまだまだいっぱいあると、そう思える。

 自分のものにならないからこそ、自分との繋がりを尊く思える。そんな世界に愛着が持てる。人間にとって「世界」ってそういうもの。

 TTCの世界は、とてもじゃないけど一人じゃ手に負えないようになってる。それは、そういうゲームデザインだからと言ってしまえばそれまで。ソーシャルなゲームだからと言ってしまえばそれまで。

 でも、それを自然と受け入れられるんだ。納得できる。言葉で説明するまでもなく、触った感触こそが何よりも説得力を持つ。"

 

 ただ単に、スーパーマリオ64などに匹敵する水準の触り心地があるというだけだったのなら、最高とまで言うには至らなかっただろう。ビデオゲームに世界の触り心地を求めた私に、少なくとも私の中では今までに無かった、ビデオゲームにおいて創り出すことができる「世界」の定義をTTCは示したのだ。

 この記事は、開発者自身によるTTCのプレゼンテーションを書き起こしたものだ。マルキシズムという実際の社会に適用される思想体系を、ゲームデザインの着想としていることが語られている。

 2016年の1月、発表以来ずっと興味があったTTCクローズドベータテストが実施される報せを受け抽選に応募し、当選することができた。指定の日時にTTCをプレイし始めたが、最初は、このゲームにおいてすべきことを全く理解できずに終わる。

 しかし、素材は見えている。ゲーム内の変化をアナウンスしていると思しき公共スピーカーや、ショップや家屋などの施設が立ち並び、NPCが親しげに声をかけてくる「町」。そこから「バス」が発進し、遠くにある「島」までプレイヤーを送迎する。

 ショップで購入することができるピッケルやシャベルなどの「ツール」。そのツールを使い採掘し、鞄に収納することができる「資源」。島の物陰に隠されるように置かれている、ひどく脆い謎の「人形」。そして、ふと気付くと時折足元に落ちている米ドル紙幣を思わせる緑がかった見た目の「外貨」。

 ショップの販売員からこっそりと教えられた「ブラックマーケット」にトランシーバーを使って繋ぐと、町のショップでは不許可とされ購入することができない銃火器やジェットパックを購入することができる。

 この世界において、最低限のツール以外の使用を許可されていない私は、内緒で拾って懐に収めた外貨を使い、開放的な雰囲気の爽やかな白を基調としたカラーリングで曲線的なデザインの外国製ジェットパックを背負う。

 そして思う。コレは「自由」だと。

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 自由を得た私は、この世界で何ができるのだろう。何がしたいのだろう。私は、「個人住居」を建てたかった。

 ベータテストプレイ開始時に与えられた個人住居建設許可証というアイテムがあれば、町に個人住居を建設し、その町において様々な権利が開放されるとのことだが、ほとんどの場合、町の建設上限に達しているとされ、建設することができない状態だった。他のプレイヤーが、先に個人住居を建設してしまっているということだ。

 空きのある町はないかと、町一覧を眺めながら、ある点に気付く。個人住居建設数の母数が町によってバラバラであることに。

 そこから、個人住居の枠は拡張されると推測し、「タウンホール」という施設のレベル上昇に従って拡張されることを学ぶ。

 では、そのタウンホールという施設のレベルは、何を条件に上昇するのだろう?そう考えながらタウンホールを観察していると、タウンホールの中心部に何やら投入口のような穴があり、その上にアイコンと数値が描かれている。

 そのアイコンとはメタル資源を表すアイコンで、数値は、次のレベル上昇までに必要なメタルの数だった。この時点で、とにかくメタルを集め、タウンホールにひたすら投入し続けるという目的が定まった。

 だがしかし、私一人で、貧弱な国産ツールでメタルをせっせと採掘し、バスに積み、誰かに資源として搬入されてしまう前にタウンホールまで運ぶという行動を取るのは、資源を3つしか収納できない初期のステータスからしても、極めて非効率的で限りなく不可能に近い。

 ブラックマーケットを利用すれば強力な外国製ツールを使うこともできるが、ジェットパック一つ買えば、時折落ちているものを拾って集めた外貨の残りは知れている。とにかく非力なのだ。一人のプレイヤーの力など。

 そこで私が辿り着いた答えは、町に参加するプレイヤーによって形成されている「共同体」を利用するということ。

 彼ら一人一人の目的は知る由もない。このゲームにチャットは無いから。だが、各々が目的を果たす為に、各々を利用し合うことが合理的なゲームデザインになっているので、結局皆、復興に向かって真面目に働くことになるのだ。

 誰かが資源を採掘すれば良くて、誰かが資源をバスに積んだり、町に搬入したりすれば良くて、誰かが町で必要な施設を建設すれば良くて、誰かが町に迫る脅威を迎撃したり、被害を受けた施設を修復したりすれば良い。その共同体の中で私は、タウンホールにメタルを投入する「誰か」になった。

 目的通りタウンホールのレベルを上昇することができ、晴れて個人住居を建設したときには、TTCにおける世界の定義を理解し、世界を構成する一部になっていた。

 

 ここまでで、TTCについて一通り語ってはきたが、TTCをプレイしていて、個人的に心地良く感じたことについても語っておきたい。

 TTCは、静かなゲームだ。日本の伝統的な美意識の侘び寂びにも通ずるところがある。世界の時間が止まっているかのような静けさを、私は「沈黙」と言い表す。

 見渡す限り平坦で白い景色が広がるボイドには、人の意識が融けているとされている。ボイド上にフッと現れ、フッと消えていく島々は、どれも何だか意味ありげな造形をしている。

 見覚えのある何かっぽかったり、それにしてはちょっと奇妙で、ただならぬ雰囲気を醸していて。

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 今、我々が生きる文明社会が、ボイドに覆われる前の世界だとして、忙しなく、騒々しく、雑多で、混沌としていた世界の残像を思わせながら、島はただ何も語らずにボイドの上に佇んでいる。

 BGMの流れない普段のフィールドから、島がある空間に足を踏み入れると流れ始めるアンビエント系のBGMも、開けた空間に鳴り響いて拡散していく感じではなく、空間に同化し、滞留しているような感覚だ。

 島の高所で、風も吹かず、見渡す限り何も無いボイドを眺めながら木を伐採しているときも、暗闇と危険な敵に備えながら、一層静かな島の内部で、ぼんやりと温かな光を放つ愛らしいキノコを灯りにしながら資源を採掘しているときも、沈黙する世界で単純な作業に集中していると、「自分は今、世界でたった一人」などという感覚に包まれる。

 流動し続ける世界の流れを止めて、そこに佇む一点に集中する。この効果は謂わば瞑想か。

 現実から一歩引いて、心の調子を整える時間をビデオゲームとして人々に提供することは、ビデオゲームというエンターテイメントの特性に合っていると、個人的に思っている。人によっては、これを作業ゲーと一蹴するのだろうけれど。

 私が好むTTCのこの性質と同様のものがあると言えるのは、私が人生で最も気に入っている作品である『ピクミン2』だ。

 小さな宇宙人の目線で、作品内では地球だとは語られない明らかに地球っぽい惑星で、原生生物と呼ばれる見慣れたカエルとか芋虫みたいな面影のある生き物を排除しながら、我々が普段生活している足下の世界で、我々が使っている乾電池だとか・・・あずきの缶詰だとか・・・ゲームキューブコントローラのアナログスティックにあたる部品だとかを、「お宝」としてせっせと集める。

 ピクミン達が力を合わせ、(宇宙人目線で見ると)巨大な(とても見覚えのある)物体を運搬する様は、宛らアリ。

 まだ体が小さく、自分の目線と地面が近かった頃、地を這う昆虫を眺めながら、スケールがまるごと違うのであろう昆虫の生活というものを想像していた。ピクミン2でできるのは、まさにその体験。

 これもまた、現実と地続きでありながら現実から一歩引いている感覚にさせられるもので、普段生きている現実との距離感が堪らなく心地良いのである。

 

 私がTTCについて語れることは、これで全てだろう。けれど私は、TTCにおける「共同体の中での自由」というものについて、満足には触りきれていない部分があったと、TTCのサービス終了後に思わされている。

 TTCがまだサービスを継続していた頃、私はこのゲームのインターネット上のコミュニティやSNSでの情報交換に全く目を通さずにプレイしており、復興を目指す上では無意味な町のカスタマイズなどにも関心を持っていなかった。

 マインクラフトにおいてもそういった楽しみ方があるように、TTCもそういった楽しみ方ができるように作られているのは分かっていたが、そもそも私は、そういった楽しみ方を好むプレイヤーではなかった。

 復興という目的にどうアプローチしていくかということだけを楽しむことに焦点を置いていたので、早い話、あえて人が少なく賑わっていない町に行くようなプレイばかりしていたのだ。

 TTCがとうとう終了されたとき、まだ始まったばかりで、これから多くの人に触れられなければならない素晴らしい作品が、永久に誰にも触れられずに抹消されることに納得がいかず、その意志をインターネット上で表明し、同じように残念がる意志を表明する人々に積極的に賛同を示した。

 そのときから、私のSNSのTLに、TTCで町をカスタマイズしたり、プレイヤー同士で積極的に交流したりするプレイの様子が活発に流れてくるようになった。頭では分かっていたが、やはりTTCは、ゲームを共有するプレイヤー同士が"戯れ合う"場としても、唯一無二の作品だ。

 囲いの中、非力な子どもが儚い自由を無邪気に謳歌し、互いに助け合い、時にからかい合い、皆の力で、皆の居場所を創っていく。TTCは、そんな場所、そんな時間を、人々に与えている作品だった。

 復興するときとは、皆で創った居場所を皆が去るとき。復興が盛大に祝われた後、次の町の復興に向かう為に、再び一人地下鉄に乗り、窓に映る自分の姿を眺めるプロジェクションクローン。

 最初、町にやってきたときと同じ光景が、やけに胸に隙間風を吹かせるとき。

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 ここまでTTCを語ってきた私にすら、満足に触りきれていない部分がある。まだTTCに触れていない人が数多くいる中で、このような創造性に溢れた作品が抹消されるべきではないと、多くのゲームファンが思ってくれることを強く望む。

 私は一ゲームファンとして、ビデオゲームの歴史において、The Tomorrow Childrenのような素晴らしい作品が抹消されることなどない、正しい歴史が続いてほしい。

 

 記事を書く前、スマートフォンのゲームに通ずる基本プレイ無料のゲームとしての話や、近年の日本における(マイクラのような)サンドボックスゲームのブムなども絡めて喋ろうかと考えていたが、結局はTTCというゲームが存在して、そのゲームはとても面白いゲームだったという話だけでいいと考えた。

 何かが生まれるまでには流れがあるが、生まれた何かからまた新たな流れができる。できなければならない。

 そういう意味で、既に生まれているものが生まれて"から"のことに対して、生まれるに至るまでの流れを基準に論考する意味は、特に無いだろう。

 最後に、アメリカのワシントン・ポストにて、The 10 best video games of 2017という題で、2017年に各所で絶大な称賛を浴びた『ペルソナ5』や『スーパーマリオオデッセイ』に、『The Tomorrow Children』が名を連ねていた記事を紹介して、本稿を締め括る。

www.washingtonpost.com

ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2017年の総括

2016年の総括を纏めた前回の記事に引き続き、この記事では2017年の総括をしていく。

 

2017年3月頃、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドをプレイ

 

BotWの感想と話したいことは、以前に記事にしているので、そちらを参照。

 

coretomayu.hatenadiary.jp

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2017年5月頃、ペルソナ5をプレイ

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・・・実のところ、「プレイ」などと書いておきながら、この作品は2つのステージ(作品に則した呼称ではパレス)をクリアした時点で積んでいる。再開する予定も今のところは無い。

日常的に家庭用ゲームの話題を追っている人であれば時期からして察しがつくだろうけれど、私は、国内で2016年の9月に発売された後、数ヶ月遅れて2017年に入ってから発売された海外における評判を受けて、プレイに至っている。

国内において発売された時点では関心の対象ではなかったこの作品を、私がプレイしようと思った動機はあまり純粋なものではない。2017年現在において、「JRPG」というジャンルに当てはまる作品が、国際的に大きく注目されていることに興味を抱いたのだ。

主にアクションゲームを好むゲームファンである私が、縁の薄かったJRPGについて興味を抱くより詳細な経緯については、このブログに最初に投稿した以下の記事を参照。

coretomayu.hatenadiary.jp

そして、全てがそういう動機なわけではないが、今年はJRPGの類型に当てはまる作品に多く触れており、自分なりのJRPGについての理解が深まった年だと思っている。

以下に、該当する各作品を挙げる。

 

同年同月、ブレイブリーデフォルトをプレイ

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同年8月頃、UNDERTALEをプレイ

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同年9月頃、プロジェクトオクトパストラベラーの体験版をプレイ

 

先程、参照したJRPGについての記事でも扱っているドラゴンクエストXIについても、その後、プレイした人達の感想やメディアのレビューを各所で見聞きして、益々、JRPGの復興というものを考察する上で欠かせないマスターピースなのだろうという認識を強くしている。

しかしながら、やはり私は基本的にはJRPG向きではないタイプのゲームファンだ。今回の記事のテーマでもある個人的なゲーム熱の飽和というのも理由としてあるとはいえ、ドラクエXIをプレイする意欲は無いし、上述した各作品も全て積んでいる。オクトパストラベラーは剣士の方しかクリアしていない。

「物語を読み進めるフォーマット」というのがJRPGを定義する一つの主要なファクターだという認識が、今年、JRPGの類型に当てはまる各作品を触れてきて見出している答えの一つだが、率直に言って、私はビデオゲームを遊ぶ際に、「物語」としてのエンターテイメント性は求めていない。

だがそれは、「ビデオゲームに物語は不必要」、「JRPGは物語を読み進めるフォーマットだから、私がJRPGを面白いと思うことはないだろう」というわけではない。

私はJRPGビデオゲームの一つの形として尊重できるものと捉えているので、「ゲーム」として楽しむことはできるだろう。

事実、過去にN64マリオストーリーという作品をプレイした記憶は、私にとって楽しい「ゲーム」をプレイした記憶の一つである。

ここまで少し長くなったが、私がジャンルとしてのJRPGに関心を寄せることが、ただJRPGに難癖をつけているだけの冷やかしではない明確な理由を話そう。

私はFFXVをとても気に入っているので、現行の家庭用ゲーム機向けにFFXVを出してきたスクウェア・エニックスが、次にどういうFFを出してくるのかというのは、無関係な話ではないのだ。

次に出るFFとはつまり、FINAL FANTASY VII REMAKEのことだ。FFの近代化を掲げ、JRPGのフォーマットを一度否定したFFXVの後に、同じ世代で、JRPGの金字塔的な作品をフルリメイクするなんて・・・どう落とし所を見極めるのか。

FFVIIRがどうなるのかという話については、今後一つの記事で纏めようと思っている。

 

ところで、UNDERTALEをJRPGの類型に当てはまるとして上で扱ったことに違和感を覚える人がいそうな気がするが、自分でもちょっと乱暴なような気はしているので、UNDERTALEから見るJRPGの面影について少し話そうと思う。

UNDERTALEは、どこで知ったかというのは特定できず、日々ネットでゲームの話題を追いながら、各所でUNDERTALEという名前や(UNDERTALEのものとは知らずに)ファンアートなどを見かけながら、作品自体を知るよりも、ちょっとしたブームのようになっている雰囲気に先に触れていて、後から、「ああ、あれがそうだったのか」と確認するような感じで知った海外のインディーゲームだ。

Googleで検索するとトップに出てくるニコニコ大百科のページなどは、ファンの手によって凝った編集がされている。

dic.nicovideo.jp

今年のE3でのSIEの公式配信で、PS4PSVITA向けに提供されることが発表されたという報せを受け、ダウンロードし、プレイに至った次第である。

個人的な感想としては、積んでしまっていることから察してもらいたいところだが、なんとなく、多くの人が好きだと言うことには「なるほどな」と思ったし、プレイヤーよりも開発者への関心として、やはり、JRPGというフォーマットのファンコミュニティとは、国際的に存在しているのだと思った。

UNDERTALEはJRPGではないとしても、JRPGという類型の元になってきた作品群へのリスペクトの上に成り立っている、JRPGのフォロワー的な性質を多く含んだ作品であることを否定する人はいないのではないだろうか。

 

2017年10月頃、メトロイドサムスリターンズをプレイ

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同年同月、Cupheadをプレイ

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Cupheadのゲームプレイはボスとの戦闘がメインだが、横スクロールのステージも幾つかあり、横スクのアクションゲームと言えるところもある。

それを踏まえ、メトロイドサムスリターンズと同時期にプレイしながら、こういった2Dのシューティング要素のあるクラシカルなアクションゲームについて、ここにきて改めて考察している。

私が、幼少期に所有し最も触れていたゲーム機はN64GCPS2で、これらの機種は、シューティング要素のある2Dのアクションゲームというと、そういったジャンルは少々影を潜めていたプラットフォームと言えるのではないだろうか。

けれども、私はこういったゲームを触った経験があるし、その記憶としては楽しかった記憶なのだ。つまり、私はシューティング要素のある2Dのアクションゲームは好きだ。

具体的にどのゲームを触ったかとかいう話をするとなると・・・PS2のPS1互換機能を使って、親戚から借りたボカンと一発!ドロンボーという縦型シューティングの作品を遊んでいたり、友人から借りたGBAロックマンゼロを遊んでいたり、姉が姉の友人から一時期借りパクしていたSFCで、作品名は分からないけど、横型シューティングのゲームを遊んでいたり・・・全て自分で所有したゲームではないし、クリアする前に返してしまっているので、クリアもしていない感じになる。

なので、まだ味わい尽くしていない分、比較的に燃焼する熱量の残っているジャンルでもあったりする。

私にとってのシューティング要素のある2Dアクションゲームの話はこの辺にしておくとして、話したいのは、こういったクラシカルなゲームから考える、アクションゲームの難易度の話だ。

Cupheadにしてもメトロイドサムスリターンズにしても、高難度ということで話題になったことで共通している。

近代において、高難度であるということがゲームファンの間でポジティブに話題になった例では、デモンズソウルに端を発するソウルシリーズが先駆けだろう。

いきなりシューティング要素も無く思いっきり3Dアクションのゲームを出してしまってあれだが、私がダークソウルを初めてプレイしたときのプレイ感覚は、Cupheadやメトロイドサムスリターンズと似た、クラシカルな感覚だったのだ。

「何か、昔のゲームみたいだ」、「昔、ゲームやってるときってこういう感覚だったよね」と。

ゲームを遊ぶ上で、こういった感覚というのは普遍的にあった筈なのだけれど、いつの間にか無くなっていたと、ダークソウルをプレイして思い出した。

ダークソウルにしても、Cupheadにしても、メトロイドサムスリターンズにしても、難しいと言えば難しいという表現でも合っているのだけど・・・昔、ゲームを遊んでるときってこういう緊張感あったな、という風に思う。

では、「昔のゲームが難しかった」と言うと・・・それも合っているのかもしれないけれど、やはり私は違和感があって、本来ゲームに普遍的にあった緊張感みたいなものが、どこかでぼんやりと薄れていってしまったのだと思っている。

Cupheadやメトロイドサムスリターンズの場合、ゲームデザインがクラシカルであると、本来ゲームに普遍的にあった緊張感なども含めて蘇るのだろう。

今のゲームはヌルいのではなく、今のゲームは、昔のゲームができていたような普遍的な緊張感というものを、プレイヤーに感じさせる方法論が洗練されきっていない。

となるとやはり不思議なのは、フォーマットとしては3Dアクションゲームであるダークソウルが、いかに普遍的な緊張感を再現したのかというところで・・・

一つ思ったのは、ビデオゲームのメインストリームが3Dに移行してから、ゲームデザイン上で扱える情報が空間的に増えたことによって、3Dアクションゲームという括りの中でも、2Dアクションゲームと比べ、作品ごとに持ちうるビジョンがより多様で差異が大きいことに原因があるのだろうか。

2Dアクションゲーム的な、必要な情報のみでの「適度な制限」に最適化して構成されたゲームデザインが、2Dの時代の普遍的な緊張感を再現できる。

3Dゲームだからと言って、全てが「ヌルい今のゲーム」になるわけではないのだ。なぜなら、私がN64で幼少期にプレイしていた3Dアクションゲームはヌルくはなかった。まぁ、幼少期の私がゲームがド下手だったのもあるだろうが。

 

2017年10月頃、シャドウ・オブ・ウォーをプレイ

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シャドウオブウォーは、2017年に遊んだゲームで最も面白くて、個人的に刺激があった。

私は、いわゆる「洋ゲ-」と呼ばれる分類に属するゲームには、あまり触れてきていない。

因みに、私が個人的に認識している「洋ゲ-」とは、海外の大手パブリッシャーの巨大な資本によるAAA級タイトルと言われるような作品群である。

デベロッパーの独立性が高いインディーゲームは、海外のデベロッパーの作品であっても「洋ゲ-」とは呼ばず、意図的に「インディーゲーム」と区別して呼んでいる。

N64ではレア社バンジョーとカズーイの大冒険ドンキーコング64PS2では007ナイトファイアやGTAバーンアウト3テイクダウン、PS3PS4ではSIEWWSのアンチャーテッド、ラスト・オブ・アス、インファマスなどを遊んでいるので、一応、海外製のコンシューマ向け大型タイトルを全く触っていないわけではないのだが・・・

私は、コンシューマにおける「洋ゲ-」の活況をムーブメントとして捉えていて、主にそれを主導していたのは、第6世代のコンソールに最後発で参入したMSのXboxだと考えている。

そのムーブメントが、日本においてもそれ程コアではない多くのゲームファンの目にも見えるような大きなものになり始めたのは、Xbox360からだろうか。

当時、ニコニコ動画HALO3や、オブリビオン、Fallout3、バイオショックCall of Duty 4などの動画がランキングを賑わしていたことを覚えている。そういったムーブメントには、丸々乗っかっていないと思うのだ。私は。

だから、私が「洋ゲ-」を意識するのは本当にシャドウオブウォーからで、そのシャドウオブウォーを遊んで、洋ゲ-が面白い、洋ゲ-が好きだ、みたいに言う人達が言わんとするところの、「洋ゲ-の良さ」みたいなものについて、一人で納得していた。

技術的な面とか、どういうところでプレイヤーを満足させようとしているかという方法論とか、開発体制がしっかりと整っているからこそ実現されている丁寧な作りとか、タイトルの垣根を越えて洗練されたプレイアビリティが高い次元で共有されている。

それとは逆に、なんだろうな・・・詰め込み過ぎている感じなんかもあって、開発体制が定型化され過ぎているが故に、作り方が業務的になっているというか、クリエイティブな面で見て無機質に感じるようなところがあるとも思う。

先程、洋ゲ-とインディーゲームを意図的に区別しているという話をしたが、それは、インディーゲームもまた独立したムーブメントだと認識しているからだ。

海外の大手パブリッシャーというのは、産業としてのビデオゲームの発展に第7世代から第8世代にかけて大きく寄与したが、その結果、大衆向けのビデオゲームの量産体制が築かれることになったのだと思う。

作り手の拘りや、作り手がどういうものを表現したいのかという作家性のようなものが、あまり必要とされなくなっていったから、そのカウンターとして、インディーゲームというムーブメントが生まれてきたのだろうな、と・・・。

何はともあれ、シャドウオブウォーは面白かった。

洋ゲ-とインディーゲームをそれぞれムーブメントとして捉えたときに、私はインディーゲームの方により愛着を感じるが、大衆に訴求するエンターテイメントとして、常に最前線のプロフェッショナルを募りロジカルに「確実に満足できるビデオゲーム」を追究する洋ゲ-に対し、ビデオゲーム文化の土壌の豊かさを押し上げている力強さへのリスペクトは感じている。

そして、そういう中であっても、洋ゲ-なりのビデオゲームとしての挑戦というものは確かにあり、シャドウオブウォーにおけるネメシスシステムなどがそうなのだろう。バグろうがどうしようが乗っけてくるくらいなのだから。

私はこのネメシスシステムのめちゃくちゃ複雑な仕組みであるが為に発生したであろう深刻なバグにぶち当たり、シャドウオブウォーは思いっきり足止めを食らってしまった。

 先日パッチがあてられ解消されたことは確認したが、熱が盛り上がっていた頃からはかなり時間が経ってしまっている為、再開するかは分からない。

 

2015年に各方面で最も評価され、現在も話題に挙がることがある作品であるウィッチャー3について気になっていることも、少し話そう。

現時点でのコンピュータRPGの理想型・完成形というのが、ウィッチャー3への評価の大まかな総意と受け取っている。

同じような評価を受けている作品としてSkyrimがあるが、Skyrimとウィッチャーの特筆すべき相違点は、Skyrimはゲーム開始時点で主人公をキャラメイクするのに対し、ウィッチャーは予め用意された固有のキャラクターが主人公であること。

プレイヤーがロールプレイするのはファンタジー世界における自らの物語ではなく、特定の人物の物語の追体験となるわけだ。

これは、長らく海外製のRPGに対するJRPGの特徴として語られてきた要素の一つだろう。

このことから、ウィッチャー3はSkyrim以上に、コンピュータRPGとしてのJRPGに絡めて考察する声が多いような印象を持っている。

フォーマットの違いを考慮しない単純比較には慎重になりながらも、JRPGがウィッチャー3から学べることについての議論は必要なのかもしれない。

私が関心を向けているのは、2007年にPCゲームとして始まったこのシリーズの最新作に至るまでの「正統進化」への道筋だ。

まず一つ気になるのは、ビデオゲームのウィッチャーシリーズには、魔法剣士ゲラルトというファンタジー小説の原作が存在すること。

シャドウオブウォーにも指輪物語という有名なファンタジー小説が原作として存在するが、他のメディアのコンテンツを原作としたビデオゲームが、単独でもコンテンツとして充分な求心力を持っているというのは、日本の家庭用ゲームではあまり馴染みのないことだ。

そして次に気になるのが、洋ゲ-における代表的なシリーズやそれらを手掛けるデベロッパーは、開発者のフォーラムやプレイヤーコミュニティの由来がPCゲームにあること。

早い話・・・ギークによるギークの為の界隈として一体感を持ちながら成熟しているのだと認識している。

ギークに認められるコンテンツがギークによってビデオゲーム化され、ギークが認める硬派で堅実なコンピュータRPGとしての基礎を保ちながら、近代的なプレイアビリティを取り込んだことが、「正統進化」の道筋をファンと開発者が共有できた所以なのではないかと。

日本のコアなゲームファンや開発者には、そんな環境への渇望を垣間見る。「30年かけてろくなコミュニティが築けなかった家庭用ゲームに期待するより、むしろまだ開拓の余地のあるスマホゲー」という空気が一部にあることも、そう考えると納得がいく。

私は、家庭用ゲームと接してきた時間がファミコンの時代から見てきたような人達より短いのもあり、まだ家庭用ゲームに失望するような感覚には共感できないが、「JRPGをちゃんと育てたかった」人達がいるのだろう、とは思う。

 

2017年10月頃、スーパーマリオオデッセイをプレイ

 

前回の記事の冒頭でも触れたマリオオデッセイ。ざっと感想を書こうとは思うが、マリオオデッセイをプレイしている時点で既にゲーム熱の飽和には陥っていたので、凄く面白かったわけでもないけど、まぁ面白かった。

3Dマリオとして、スーパーマリオサンシャインぶりにリッチでダイナミックなゲームプレイを押し出そうという方向性に、ピュアに挑んだ3Dマリオ最新作なのは確かだ。

スーパーマリオギャラクシースーパーマリオ3Dワールドという近代の3Dマリオで積み上げてきた触り心地の良さの集大成にもなっている。

3Dマリオの楽しさたるや何かというのを知りたい人がいたとして、マリオギャラクシーか3Dワールドかマリオオデッセイか、どれを触るといいかで言えば、マリオオデッセイを触るのがいいだろう。

最新作なだけあってゲームデザインも最適化されているマリオオデッセイは、パワームーンを集めていくというゲームプレイの主なサイクルにおいてストレスが無い。

過去作では、一度パワースターやゴールポールに辿り着くと、その都度拠点に強制的に戻されたのだが、マリオオデッセイでは一度ステージに降り立てばシームレスにパワームーンを集め続けられるし、そのテンポでの収集に耐えうるだけのパワームーンが用意されている。

後はまぁ・・・グラフィックとサウンドがリッチだ。マリオギャラクシーマリオ3Dワールドもそうだったので、3Dマリオシリーズはプラットフォームのパフォーマンスの上限を示すベンチマーク的な役割も伝統的に担っているんだろう。

グラフィックは現在Switchで出ているタイトルで最も高品質であり、マリオオデッセイを触れば、あえてタイトに判定しない限りはSwitchがPS4Xbox ONEなどの標準の機種に比べて、言う程マシンパワーが不足していると感じることは無いんじゃないだろうか。

サウンドに関しても同様に高品質で、その上、各所で驚嘆の声の上がったHD振動が、疑似サラウンドのような効果をもたらしているように思う。HD振動は最新のゲーム体験として価値のある提案だ。

また、3Dマリオチームの難易度とボリュームとの向き合い方も、任天堂がカジュアルに偏重していた時期もブレていなくて好感を持っていたが、マリオオデッセイまできても良い意味でそこは変わっていない。

 

結局、マリオオデッセイがゲームファン基準でリッチでダイナミックな3Dマリオを志したこと、それ自体が私にとっては最も喜ばしいこと。

ゼルダの伝説BotWという1本で、任天堂がゲームファン基準でリッチでダイナミックなタイトルを出してきたというだけでは、まだ任天堂を信じるには不充分だった。

それが、スーパーマリオオデッセイもそうだったわけだ。しかも、同じ年で。宛ら、N64のときのゼルダの伝説時のオカリナスーパーマリオ64のように。

マリオオデッセイをクリアした時点で、私が長らく任天堂に対して抱いてきた不穏な気持ちは、完全に払拭された。

だからこそ、しばらくゲームから離れてもいいように感じている。

私がSwitchで、それこそマリオとゼルダ以上に最も期待しているのは、どうぶつの森ピクミンなのだ。

だからもう、どうぶつの森ピクミンが出るまで、ゲームは何にもやらなくていいくらいに思うわけで。まぁ、普通にやるだろうけど。

中途半端な感じのままピクミンを迎えるのは絶対に避けたい。ピクミン、マジで好きだから。

あと、どうぶつの森と言えば、先日配信が開始され、世間で非常に盛り上がっているどうぶつの森ポケットキャンプについて、言及せずにはいられまい。

と言っても、今回の一連の記事を書いている最中にポケ森が配信されてしまった為、触るのは書き上げてからにしたくて、何か話すにしても、触ってから話したい。

触る前に言いたいこととしては、Twitterの方で少し言及したので、最後にそちらを引用して、この記事はこれにて〆とする。

 

ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2016年の総括

先日、ゼルダの伝説BotWに次ぐ、Nintendo Switchの最大注目タイトルとして発売を待ち侘びていたスーパーマリオオデッセイで、全てのパワームーンを集め終わり、プレイを締め括った。

現在、積んでいるゲームや気になっているゲームは多数あるが、正直なところ、今はゲームに対する熱が飽和している状態だ。

2016年と2017年は、個人的に注目・期待していた作品を立て続けに消化したからだ。

ゲームへの熱をリセットすることも兼ねて、書こうと思っていた話をアウトプットすることに集中しようと思う。

今回の記事では、ゲームへの熱が飽和する理由になった2016年と2017年にプレイしてきたゲームを通して、思ったことや考えたことを順番に振り返っていく。

 

2016年1月頃、The Tomorrow Childrenのクローズドβテストをプレイ

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後に同年6月頃のオープンβテストにも参加し、同年9月の正式サービス開始後もプレイしている。

今年の7月に突然サービスの終了がアナウンスされ、9月にストアでの配信が終了、11月にサービスが終了してしまった。

ごく限られた期間にしか触れることのできなかった、謂わば幻の作品と言える。

結論から言うと、私の最も好きな作品の一つとなり、ゲーム観への刺激を受けた作品だが、この作品については一つの記事で纏めようと思っているので、この場ではこの程度の言及に留めておく。

 

2016年5月頃、DownwellのPS4版をプレイ

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同年8月頃、風のクロノアアーカイブスをPSVITAでプレイ

http://j.dl.playstation.net/j/NPJJ00585/npjj00585_3.png

 

Downwellは、私がよく動画を閲覧しているYouTubeの動画投稿者が話題にしていたのをきっかけにして知った作品で、私が知った時点では、恐らくiOS版とSteam版しか配信されていなかったように記憶しているが・・・詳しくは覚えていないので誤りがあるかもしれない。

作品の存在自体を知ってからは暫く経った後、PS4版も提供されているということをどこかで知り、価格も安価だったのですぐにダウンロードした。

ガンブーツという足に装着する銃火器を攻撃手段に、敵を迎撃し掻い潜りながら、井戸の底までひたすら落ちていくというゲームで、ゲームデザインとしては画面下方向にスクロールしていく縦型シューティングアクションゲームと言えば説明できるのではないだろうか。

ゲーム全体の構成はコンパクトなボリュームでありながら、アクションゲームとしてかなり骨太なバランス調整になっていて、私はアクションゲームをメインに好むゲームファンを自負しているが、ハッキリ言ってめちゃくちゃ難しいゲームだ。

プラチナトロフィーを獲得する為に、ノーマルモードをクリアするとアンロックされるハードモードのクリアにも挑んだのだが・・・

 このような結果になっている。プラチナトロフィーは獲得できていることになっているが、私は未だにハードモードをクリアできてはいない。

あともう一歩!というところまではいけるんだ・・・でも突破できない。この絶妙なもどかしさ。だから何度も挑戦したくなる。

黒と白と赤の3色のドット絵によるローテクを感じさせるヴィジュアルも相まって、宛ら古い時代のワンコインワンプレイのアーケードゲームのよう。まぁ私はリアルタイムでそういうのを触ってはいないのだけど。

開発者はもっぴん (@moppppin) | Twitterという方で、開発当時は現役の大学生でありながら、ほぼ一人でDownwellを開発したとのことで、国際的に注目を集めたそうだ。

 今年の6月頃に見た、このBranching Pathsという日本のインディーゲームシーンのドキュメンタリーにも出演していた。

 

風のクロノアは、ゲームの概要と感想については今更紹介することもないだろう。Wikipediaによると、1997年にPlayStation向けにnamcoから発売されたアクションゲームとのこと。丁度20年前か。

私個人にとっては、PSプラットフォームで購入して手元に置いた最初のゲームだったりするので、古くから愛着のある作品であり、今でも楽しんでプレイできるシンプルで良質な2Dアクションゲームといったところ。

話したいのは、この風のクロノアアーカイブスをプレイしたプラットフォームであるPSVITAについてだ。

2016年の夏頃は個人的に目ぼしい新作が無かった時期で、何かプレイしようと思い、風のクロノアアーカイブスに至った次第なのだが、最初はPS4でプレイしようと思っていた。

ところが、PS4アーカイブスに対応しておらず、では久々にPS3を起動するしかないのか・・・と思ったところ、そういえばVITAは対応していなかったっけ?と。

結果、VITAはアーカイブスに対応しており、PS1のゲームは今となってはコンパクトなゲームだし、VITAでも構わないだろうと思い、ここから、むしろコンパクトなゲームはハンドヘルドでプレイするのが丁度いいという気持ちが強まっていった。

以前の記事でも言及したけれど、コンパクトなインディーゲームもアーカイブス同様にハンドヘルドと相性が良いと考えており、この記事を執筆する前に、先述したDownwellもクロスバイを利用してVITAの方にもダウンロードし、プレイしてみたが、やはり相性が良いと感じた。

現在SIEは、ハンドヘルドのコンソールの展開には消極的な姿勢を見せていて、主に国内のPSP3DSのような市場の盛り上がりを望むゲームファンから失意の念を向けられているところをよく目にする。

SIEがPSP3DSのような市場の維持にフォーカスしていないことに関しては、個人的には特に問題無いと思っているが、SIEのハンドヘルドへの取り組み自体は必要以上に悲観しなくてもいいのではないだろうか。

Nintendo Switchのようなハイブリッドスタイルは家庭用ゲームコンソールとして最も合理的な帰結だと私は思うし、Switchの販売が好調ということもSIEへの刺激になるであろうことを考えると、PSフォーマットの一つのモデルとして、ハイブリッドモデルが提供されるのはありえないことではないと思うというのは、以前にも話した通りだ。

ただ、PS4のOSはおそらくそのような展開は想定していないと思われるので・・・SIEがそういったアプローチを仕掛けてくるとしたら、次世代以降ということになるだろうか。

将来の話についてはどこまで考えても憶測の域は出ないので、この辺にしておこう。

 

2016年11月頃、FINAL FANTASY XVをプレイ

 

同年12月頃、人喰いの大鷲トリコをプレイ

 

この2作品は、PS3のときから待っていた最大注目タイトル。

発表から発売までに10年かかったという話をよくされる2作品で、私としては流石に発表されたときからは待っていなかったが、それでもPS3を購入する前の年の2010年くらいには既に存在を知り、注目していた。

元々PS3向けだった筈が結局PS3で発売に至ることはなく、PS4で発売するということになった後も、世代が一つ上がり、よりリッチなゲームプレイになるのだろうと純粋に楽しみにしていた。両作品とも、PS4で最も期待していたタイトルと言っていいだろう。

私は、主にこの2作品の為にPS4を購入したし、この2本を待ちながら色んなゲームをプレイしていた。

両作品とも世間では色々と言われたようだが、この2作品のゲームプレイは私としては待った甲斐があり、ここに辿り着いたことが感慨深く、ゲームへの熱はこの辺りで燃え尽きた感じがある。

感想は・・・ここで書いてしまうと長くなってしまうので簡潔にだけ書くと、FFXVは、FFXIIIにもあった、FF開発チームの創り出すあのなんともいえない繊細で雄大で幻想的な、心しか踊らない世界を、極めて美麗で尚且つリアルな質量を感じるフィーリングでゲームプレイとして実現されていることが、まずその時点で最高。

そんな世界の大自然の中を、ドライブしてサバイバルしてキャンプして、幻想的なのだけど、まるで現実の世界で旅をしているような現実味のある各地のロケーションに癒やされながら、思う存分浸れる。

FFというシリーズ自体は長い歴史もあり知名度も非常に高く、FFXVから採用されたオープンワールドの技術は、2010年代の後半ともなってしまうと目新しいものではないので、「オープンワールドのFF」と言葉で言ってしまうと雑なイメージしか浮かばないような気がするが、FFXVという作品は極めてユニークで、そのゲームプレイは唯一無二と言える。

個人的に特に好きなロケーションは、カーテスの大皿・・・カエムの岬・・・その近くの岩礁もいいな・・・ラバティオ火山も凄いし、地味な山間の道とかも好きだし・・・うん、全部好き。

ドライブとキャンプの要素は、FFXVIでも引き続き打ち出してほしいな。あれは大事にした方がいい。

人喰いの大鷲トリコは、ワンダと巨像のときと同様に、技術的な部分とレベルデザインが完全に一体感を持っていて、どこまでを技術として称賛すべきで、どこからを職人芸として称賛すべきなのか分からない、上田文人氏の3Dゲームネイティブなクリエイティビティが最高。

水かさを使った謎解きに感動したのが特に印象に残ってる。

多分この先も、この人が創ったゲームなら触ってるだけで幸せになれると思う。だからまた、コンシューマー向けに間を置かずに新作を出してほしいな。

 

この記事は一旦ここで〆て、2017年の総括は別の記事にて纏める。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・下

前の記事からの続き

 

さて、ここまでBotWの感想を書いてきたけれど、これはいわゆるレビューというような、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドという作品に評価や判定をくだすものではない。

ゲーム内容の特定の部分に集中しているから、いずれにせよ未プレイの人の参考になるようなものではないだろうけど。

個人的な感想は充分に語れたので、ここからは俯瞰的なことについて話していく。

 

最近、ゲームに対して「モダン」という言葉が用いられているところをよく目にする。

「今風」くらいのニュアンスに捉えていればいいのだろうけど、辞書に載っている意味としては、「現代的」や「近代的」と説明されている。

私が日本語でそういった表現がされているのを最初に見たのは、FINAL FANTASY XVだった。

FFXVゼルダの伝説BotW同様に、開発体制が大規模に刷新され、過去作から続くある程度定型化されたゲームデザインが大きく転換された作品だ。

単純に解釈して、オープンワールドになった最新作のFFやゼルダがモダン、つまり現代的・近代的ということは、オープンワールドになる前のFFやゼルダは現代的・近代的ではなかったということになる。

スタンドアロンのFFとしてFFXVの1つ前の作品であるFINAL FANTASY XIIIが発売されたのは2009年で、ゼルダの伝説BotWの1つ作品の作品であるゼルダの伝説スカイウォードソードが発売されたのは2012年。

その時期には既に、オープンワールドという言葉はある程度ゲームの話題を追っている人には浸透していたように記憶している。

アサシンクリードGrand Theft AutoオブリビオンFalloutなどの海外製のゲームの認知度と共に。

私はゲーム開発者ではないし、そういった知識に詳しい自負も無いので、ほとんど聞きかじった話と印象に依った話にはなってしまうけれど、00年代に、自社プラットフォームに向けて開発する任天堂SCE(現SIE)も含めた日本のソフトメーカー各社が、家庭用ゲーム機のハードウェアとしての性能向上に伴うゲーム開発における技術水準の高度化や複雑化への対応に倦ねていた頃、同時期に家庭用ゲーム市場に新規参入したマイクロソフトは、PC向けOSであるWindowsでの経験を活かし、PC向けに開発されたゲームの家庭用ゲーム機への移植の容易さを、他のプラットフォームに対する優位性に据えていたと認識している。

私は、その頃起こったこととは、PCゲームの開発現場における技術の家庭用ゲーム業界への流入なのだと思っている。

家庭用ゲーム機を主軸に開発してきた国内のソフトメーカーにとって、00年代後半から10年代前半は、家庭用ゲームの開発現場に新たにもたらされた技術体系を学び、取り入れる期間だったのではないか。

現在開発されるゲームは、近代において定着した技術体系に基づいている程、近代的・モダンなのだと思う。

BotWのオープンワールドは、見えているところはどこまでもシームレスに行くことができ、世界のどこにいても、同じ物理法則がプレイヤーを含む世界に存在する全ての物体に働く。

そのプレイ感覚はまさにモダンな体験であり、2017年現在のビデオゲームが到達した最も発展的で豊かな体験に、衝撃や感動を味わう人もいるのだろう。

純粋な家庭用ゲームが近代的技術体系をものにし、時代の到達点たる完成形を産み出したことは、家庭用ゲームが真に発展し、新たな段階に訪れたことを意味するように思う。

34年前に家庭用ゲームというエンターテイメント産業の基礎をハードウェア・ソフトウェアの両面において完成させ、日本を含む世界に定着させた任天堂が、2017年現在、主にいわゆるコアゲーマーと呼ばれる層に向けて、オープンワールドというフォーマットに今発揮できるクリエイティビティの全てを注ぎ込み、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドを作り上げたこと。

そして、それが世界中の多くのゲームファンから熱烈に称えられ、歓迎されたこと。

このことは、私自身の人生の半分以上の時間を通して追い続けてきた家庭用ゲームの現在地の測位が改められるような出来事であり、自らの感覚でBotWを咀嚼し、飲み込まなくては話をまとめるには至れなかった。

私は、任天堂が今、BotWを世に送り出してきたことを受け止めたい。

正直個人的には、BotWは大満足かというと微妙だけど、満足だろうと微妙だろうと、受け止めたい。

その為にはちゃんと整理しなきゃいけない。BotWすごい!Switchいいんじゃない?では駄目だ。

任天堂が、ひいては家庭用ゲームが、BotWに至る道程はどういった道程だったのか。ちゃんと整理しないと、私は飲み込めない。

Nintendo Switchは、コンソールの縦軸の可能性ではなく、横軸の可能性にアプローチをかけた。

私はそれを受け入れられる筈だけど、やはり性能の追求という縦軸へのナチュラルな欲望もある。

欲しがる自分と受け入れられる自分と、ちゃんと折り合いをつけておきたい。

Switchは据置機であり携帯機でもあるハイブリッドなコンソールである為、人によって、Switchが基本的には据置機であるか、携帯機であるかの判断は分かれるだろう。

私は、ゼルダの伝説BotWは据置機水準のコンテンツであり、据置機モードでプレイして然るべきだと思っているので、携帯機モードでのプレイは選択肢として捉えている。

ハードウェアの技術革新がその選択肢をプレイヤーに開放した。

飽く迄、ベースは据置型コンソールが提供する体験の文脈だ。

 

Switchに関する話については、個人的には据置機の水準を満たすコンソールであると認めるに相応しいと考えていることだけ言えれば充分ではあるのだけど・・・携帯型家庭用ゲーム機について思ってきたことなどと話し出すとキリがないし。

まぁ、DSの時期にはまだ据置機の代替論などは受け入れられなかったが、3DSとびだせどうぶつの森を遊んだことで、携帯機に対する意識に変化があったということは軽く触れておく。

どうぶつの森シリーズは、今でもGCどうぶつの森+が最も思い入れのある作品で、おいでよどうぶつの森から「携帯機のゲーム」のような印象が付いていったことには、ずっと抵抗があった。

とびだせどうぶつの森は、3DSまできたら性能的にも据置機での体験と遜色ないところまできたのも確かだと思い、抵抗を感じつつもプレイしてみたら、ゲームとしてもちゃんと進化していて、どうぶつの森シリーズの特徴である時間の流れを実社会と共有しているところと、外出中に村の様子を軽く確認できたりする携帯機の優位性は実際に相性が抜群で、悔しながらにとび森には一時期ドハマリしていたのだった・・・。

とはいっても、どうぶつの森シリーズが今後新作を出すにあたり意識してほしいのは、マインクラフトがもたらした日本におけるサンドボックスゲームの波だと思っていて、どうぶつの森の世界で時間を忘れてずっとハニワを掘り当てたりしたいわけだけど・・・

スマホ版はどんなものになるんだろうか・・・手のひらに収まるコンパクトなどうぶつの森が人々の望んだどうぶつの森という答えを任天堂が出さないことを私は願っているが、Switchの存在が、任天堂を信じられる根拠になる気がしているのである。

Switchがハイブリッド機であることは、これから任天堂が家庭用ゲーム機向けにゲームを作る場合、据置機に出すことと携帯機に出すことの両方を意味する。

このゲームは据置機向けで、このゲームは携帯機向けとか、そういう振り分けはもう意味を持たない。

最近のSwitchに関連するニュースでは、Switchでのインディーゲームの売れ行きが好調というものがある。

VITAでもそうであったように、インディーゲームの品揃えが最も豊富であるPC向けプラットフォームのSteamを差し置いて家庭用ゲーム機でインディーゲームをプレイすることのプレミアとは、ハンドヘルドのスタイルで遊べることにあるのではないか。

私は、家庭用ゲーム機が今後向き合っていかなければならないのはSteamだと思っている。

Steamがあればゲーム機はもう要らない、という意見を耳にすることは年々増えていて、PCの汎用性と拡張性が、ハードメーカーによって環境が固定された家庭用ゲーム機の課題を浮き彫りにしているのは確かだ。

そのような不利な状況において、Steamではなくあえて家庭用ゲーム機でインディーゲームが購入されるという事例は、今後の家庭用ゲームの立ち回りのヒントになるように思う。

現時点では完全に私個人の妄想に過ぎない話として、SIEがSwitchのようなPS4のハイブリッドモデルを展開する可能性もありそうな気がしている。というかアリだろう。

 

・・・あと、書くタイミングを逃してしまったので取ってつけたようになってしまうけど、Switchのプロコンはめちゃくちゃいい。

バッテリーの持ちが凄まじいし、HD振動は技術屋としての任天堂を評価してもいい部分な気がする。

ゲームパッドは家庭用ゲーム機を定義付けるファクターだと思うから、そこが強いのはSwitchのコンソールとしての完成度をかなり底上げするんじゃないだろうか。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・上

8月頃から、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドのマスターモードをプレイしていた。

歴史的大作といえるこの作品のプレイを経て、自分が見てきた家庭用ゲームの変遷について今思う諸々のことを整理する機会にもなりそうなので、私個人のBotWの感想と交えつつ、気が済むまで書いていこうと思う。

尚、前半となるBotWの感想は、BotWをプレイしていないとちんぷんかんぷんな話だと思うので、後半は別の記事として分けることにする。

 

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総プレイ時間はおよそ305時間

 

BotWが発売したのは今年、2017年の3月。

半年以上経ってからまとまった感想を書くのも今更ではあるが、率直に言って、ノーマルモードのBotWはヌル過ぎて全く手応えがなかったことは、まず触れておく。

ゼルダの伝説シリーズにおいて難易度について議論がなされる場合、謎解き要素の難解さにフォーカスされる場合があるが、今回は、主にアクションゲームとしての難易度にフォーカスして話していく。

まぁ、そうとは言っても、8月にマスターモードのプレイに取り掛かり始めて、現在は10月なので、2ヶ月近く間が空いているのは、いずれにしても遅すぎるだろう。

言い訳としては、PSVITAでUNDERTALEを並行してプレイしていたことと、マスターモードを結果的に2周することになったことが理由である。

マスターモードの1周目では、通常のメインルートの全ての神獣を解放した後ガノンを討伐するオーソドックスな攻略と、剣の試練という、過去作からお馴染みである、回復アイテムや消費アイテムの補給を制限されながら、段階的に熾烈さを増していく戦闘を最下層まで続けていくコンテンツの攻略に着手。

剣の試練は、今回、新規コンテンツとして追加されたものなので、ノーマルモードを既にクリアしていながら、マスターモードでまた初めからプレイするにあたっての主目的として据えていた。

その剣の試練の感想はというと・・・及第点・・・といったところか。

序位の攻略に取り掛かり始めたときは、思った以上に手こずりそうな感触で、これは舐めてかかってはいけないと腹を括ったのだけど、このゲームの仕様上、結局のところ、装備が貧弱である程状況が厳しく、装備が豊富である程・・・どうとでもなってしまう。

これは、始まりの台地や、無人島の祠チャレンジでも同じように感じるところであり、剣の試練が特にそうだったかもしれない。

なんやかんやで強力な武器が普通に集まっていってしまうから・・・。

最もミスが多かったのは序位の中盤までで、中位、極位ではほとんどミスすることはなかった。

ガッツ素材やマックス素材は1つの素材からの調理でも完全回復の効果は得られるので、調理法次第で素材活用の効率が良くなるとか、古代兵装・矢は敵を一撃で消滅させるので、ライネルのような最上級の攻撃力とHPを持つ敵に対処する為に備えておけば、危険な敵はローリスクで回避でき、但し敵がドロップする強力な武器は諦めることになるなどといった、プレイヤーの知恵と機転を試す要素があるのは、このゲームの仕様において適切な設計になっていたとは思うけれど・・・

プレイヤーの装備が豊富になってきたところで、備えを全て出し尽くすことも厭わなくなるような、プレイヤーをぶちのめすことしか考えてない階層が幾つかあっても良かった。

メインルートの攻略については最後にまとめて言及するとして、2周目ではどういったプレイをしたかというと、防具を全て完全強化するやりこみプレイに着手した。

ノーマルモードをプレイしているときも、防具強化の要素が1つのやり込み要素なのだろうとは思っていたが、ひたすら素材を集めるのはどう考えても単調な作業になると断じて手を付けなかった。

マスターモードは、全体的なゲームプレイがある程度は手応えのあるものになり単純に楽しかったので、BotWの世界と付き合えるだけ付き合おうという意欲も湧いて、着手することに決めた。

結論から言うと、全防具完全強化のやり込みプレイには満足できた。

個人的に、オープンワールドのゲームプレイにおいて、この世界に付き合えるだけ付き合っていたいとか、この世界の中で振り回されたいという感覚が、最も求めているものかもしれない。

実のところ、私はPS3PS4も所有していながら、近代のオープンワールドのゲームはほとんどプレイしておらず、自分の中でオープンワールドでの有意義な体験として模範となっている体験は、Grand Theft Auto Vice City (PS2)まで遡る。

我ながら原始的過ぎる気もするが、近代のオープンワールドのほんの一地域程度の広さにも満たないかもしれないヴァイス・シティで、ピザ屋のスクーターを乗り回しフリスビーのように客にピザを放り投げ、軍用ヘリを飛ばして一般車両の巻き添えも意に介さず犯罪者の車両を上空からミサイルで吹き飛ばし、攻略サイトを見て主にテキストで在り処が説明される各地の隠しアイテムを見つけては宝探しのような無垢な喜びを感じたりしながら、クリア率100%を目指して東奔西走していた原体験が、今も、シームレスに往来できる立体的なフィールドで自分が時間を過ごす意味として、最も有効に作用するのだ。

また、そういったプレイにおいて重要なのは、やり込みの過程で、その先のやり込みに役立つ報酬があること。

GTAVCではHPの上限が増えたり、炎によるダメージを受けなくなったり、強力な武器や車両がアジトに配備されたりというのが該当する。

BotWでは、防具にセットボーナスというものがあり、頭・胴体・脚部の3種に分かれた防具をそれぞれ一定の段階まで強化することでアンロックされる。

そのセットボーナスが、定量的な効果ではないユニークなものが結構あって、それぞれ適した場面で活用したくなるのだ。

ノーマルモードではほとんど使っていなかったクライムシリーズは、崖登り中ジャンプのスタミナ消費量が少なくなるというセットボーナスで、スタミナ縛りをしていたのもあり、かなり魅力的だった。

後で書こうと思っていたが、2周目ではハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限して攻略していた。

その為、息吹の勇者シリーズマスターソードのビーム強化というセットボーナスは、ハートが3つしかないので必然的にマスターソードは未所持であり、この効果については未確認・・・少々惜しまれる。

他にも、炎無効、雷無効、凍結無効などの若干チート的なセットボーナスは、全体を通してのゲームプレイで、それ程多くはないが厄介な特定のシチュエーションで強気になれる解放感がある上、ドラゴン系の素材集めの際にも作業を非常に捗らせてくれる。

何より、緻密に作り込まれたドラゴンの動き、物量感や躍動感を間近で感じられることは、BotWの世界において純粋にプレミアムな価値があるのだがら、ゲーム的なルールを遵守しているかなど、言ってしまえばどうでもいいのだ。

そもそも私は、3Dの広大なフィールドで、プレイヤーの遊び心が赴くままに遊ばせることを標榜するオープンワールドにおいて、チート・・・ゲームシステム上の制約を逸脱してしまうことに、むしろ肯定的でさえいる。

「できないことが、できるって、最高だ。」という某キャッチコピーなんかはまさにそんなことを言っているように思えて、評価している。少々話が逸れた。

ただ、そういったことが無条件にできてしまうのではなく、報酬としてアンロックされることに個人的には満足感が得られるというのは付け加えておきたい。

メインルートの攻略については、先述したように、2周目でハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限したことからも窺えるだろうが、1周目ではマスターモードでもヌルいと感じた。

というか、ノーマルモードがイージーモードで、マスターモードがノーマルモードなんじゃないかという・・・

たらればの話はしたくないのだけれど、初見時からマスターモードでプレイしていたら、素直にマゾゲーマー心に火が点いていたかもしれない。マスターモードは発売時から実装しておいてほしかった。

その上でハードモードを用意するとしたら、敵の攻撃力やHPを調整するのではなく、属性付きの武器や矢を使用する敵が一層増えるなど、ギミックの面でゲーム性の幅を広げたり・・・この辺にしておこう。

BotWに限らず、近代のビデオゲームにおける難易度について思うことは、今後1つの記事にまとめてもいいかもしれない。

話を戻して、ハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限した場合ではどうだったかというと、それなりに丁度良くなったと思っている。

ハートとスタミナに関しては、マックス素材やガッツ素材のマネジメントがゲームの進行度によって変わっていく楽しさがあると思ったので、最終的には制限する意味はあまり無かったと判断したけれど、ポーチは初期状態のままにしておいたことで緊張感が増して良かった。

BotWは、戦闘時のリアルタイムな武器のマネジメントが非常に有機的で、武器ごとの強さや壊れやすさを常に意識しながら、廃棄のタイミングを見定めつつ高所にいる弓兵などに対する投擲物としての使用、雷属性の武器や矢がある場合はHPの多い上級の敵から強力な武器を強制的に奪えたり、武器を使い切ってしまったとしても必ずしも窮地ではなく、ガードや回避の不自由さと引き換えに、高所から飛び降りながら狙いを定めることで発動するスローモーションの状態で、弱点への連撃が狙えたりなど、場合によっては武器よりも遥かに強力な弓もある。

こうしたリアルタイムのゲーム性を考えれば、武器は常にフィールドとポーチの間を循環するべきであると思った。

この、武器を敵から奪ったり、投げつけたり、取り返されたりする仕様は、初見時からゼルダの伝説風のタクトを彷彿とさせられている。

私はゼルダの伝説シリーズの中で、風のタクトにおけるプレイヤーとフィールドの有機的な関係性が気に入っていて、BotWではその思想が拡張されているように感じている。風タクでやりたかったことに再挑戦しているんだろうなぁ、と。

ブーメラン型の武器や盾サーフィンにもそんなマインドを感じていて、この二つの要素はBotWの中で大好きな要素である。

 

 

次の記事へ続く