長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

今はもう遊ぶことができないゲームが自分にとって最高のゲームの一つだった話

 SIE JAPAN Studioと京都のゲームデベロッパーのQ-Gamesによって開発され、2016年9月7日にリリースされた、ジャンルをソーシャルアクションとするPS4向けタイトル『The Tomorrow Children』(以下、TTC)は、今はもうプレイすることができない。

 このゲームは課金制を採用した基本プレイ無料のオンライン専用タイトルであり、SIEは2017年11月1日をもってサービスを終了したからだ。

 『FINAL FANTASY XIV』や『ドラゴンクエストX』などのMMOというジャンルにあたるゲームのプレイ経験が一切無く、スマートフォンのゲームを全く遊んでいない私にとって、1本のゲームがプロダクトではなくサービスであり、サービスを運営する会社が運営することをやめてしまった時点で、そのゲームに触れることすらできなくなるという事態は、言ってみれば他人事だった。

 一人のプレイヤーとしてTTCが永久に奪われてしまったことに対する納得のいかない気持ちは、私のゲームファンとしての経験とビデオゲームに対する認識が浅はかなだけとも言えるのかもしれない。

 けれど、私のようなゲームファンの視点からTTCがどう映ったのかは、ごく限られた期間の内に触れ、このゲームを理解することができた身として責任を持って語っておきたい。

 私が家庭用ゲームという場所でTTCに巡り会い、それまで愛してきたビデオゲームと同様の愛おしさをTTCに対して抱いたことは、出会うべくしての出会いだったからだと思っている。

 

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 TTCのゲームとしての目的に据えられているのは、人類の文明の復興。ある国家が秘密裏に遂行していた科学実験が失敗し、その結果、人の肉体と意識が溶けて固まった"ボイド"という真っ白な物質に地上が覆われてしまったという世界で、各プレイヤーはプロジェクションクローンと呼ばれる同じ姿をした少女を操作し、資源の採掘や施設の建設などを行い、「町」の復興条件達成を目指す。

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 「町」は、多人数同時接続型のオンラインゲームにおいて、一般的にサーバーや部屋と言われる類のもの。既定された上限に収まる1~20人ほどのプレイヤーで、町の復興条件達成というマクロな目的の下、各自が町の復興の為に必要なことを考えながら、共同作業及び、搬入済みの資源の運用を共同管理する。

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 町の周辺には見渡す限りボイドが広がっており、生身で歩くと沈んでしまうので、ホバーマシンという乗り物や、ボイドパワーなる地形を発生させる消費アイテムが必要になるが、高さ・奥行き共にシームレスに行動することができる。

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 ボイド上にて一定間隔で出現と消滅を繰り返す「島」と呼ばれる地形で、各種資源の採掘と、人形変換器という施設で人民に変換することができるマトリョーシカ人形の回収を行う。

 

 このマトリョーシカ人形の演出でニクいのが、プロジェクションクローンが持ち運ぶときに、風鈴の音のような非常に繊細な音で「コロコロコロ・・・」と、中に小さく儚い何かが入っている音がするところ。

 しかも、その音はコントローラのスピーカーからも出力される。マトリョーシカ人形は、資源と違って脆く、乱暴に取り扱うと容易く壊れてしまう。そうなってしまっては、最早人民に変換することはできない。

 プレイヤーに見つけられ、救出されることを待っていた尊い命の音が、文字通り自分の両手のひらの中で鳴るわけだ。嫌でも、無事に町まで運搬せねばと責任を感じさせられてしまう。

 TTCは、サウンドにおいても尋常ではないこだわりが込められている作品だ。開発に携わったスタッフによって、そのことが語られている記事を紹介しておく。

www.jp.playstation.com

 島は、広大なボイド上にランダムに出現するので、まれに町のすぐ近くに出現することもあるものの、大抵は町から遠く離れている。ボイド上を移動する手段としてはホバーマシンなどがあることを前述したが、島に行く手段としては、町と島を往復するバスがある。

 バスに乗って島へ赴き、採掘した各種資源や回収したマトリョーシカ人形を、バス停前のLOADING AREAと標示されている枠の中に置いておくことで、バスが発進すると同時に資源とマトリョーシカ人形がバスに積まれ、町まで運んでくれる。

 バスが町のバス停に到着すると、バス停前に資源とマトリョーシカ人形がドサッと放り出される。プレイヤーが町のSTORAGEと標示される枠の中まで運んで、資源の搬入が完了する。

 プレイしているときは意識していなくて、今この文章を書いていて気付いたのだが、これらの一連の流れは、全てシステム的に簡略化することができるだろう。

 LOADING AREAと標示された枠の中に資源やマトリョーシカ人形を「置く」という作業は、チェストのようなものを設置しておき、幾つの資源とマトリョーシカ人形をチェストに入れたのかという数値のデータのみを記録し、バスが持ち帰った資源とマトリョーシカ人形は、バスが町に到着した時点で搬入したという判定をしても、ゲームは成立する。

 だが、TTCというゲームは一貫して、資源やマトリョーシカ人形を、それそのものとしてプレイヤーが接するようにする。無機質なデータとして接することはさせない。私は、この精神が大好きだ。

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 多くのプレイヤーによって大量に集められ、積み重ねられた資源やマトリョーシカ人形の山は、何度見ても充足感を与えてくれた。TTCをプレイしたことが無くとも、わかる人にはわかる気がする。

 この何とも愛おしい「アナログ感」に関しては、他にもTTC独特の仕様がある。町で、ショップや、施設を建設する際に使用する万能工作台などを利用するとき、先に利用中のプレイヤーが居ると、「列」に並び自分の番を待つのだ。

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 TTCは多人数同時プレイのゲームだが、普段は自分以外のプレイヤーの姿は見えず、他プレイヤーが何かしらのアクションを取ったとき、一時的に画面に表示される。施設を利用することや列に並ぶことも、そのアクションに含まれる。

 プレイヤーはゲーム内で実際に列に並び、尚且つその様子は視覚的にゲーム内で描かれる。これはTTCという作品を象徴し、プレイヤーにとっては「他者とゲームプレイを共有している」というゲームデザインを直感的に理解できるビジュアルと言えるだろう。

 

 TTCのアナログ感、それはビデオゲームインタラクティブ性における「触り心地」を重んじる精神でもあり、この「触り心地」について掘り下げたい話がある。

 2017年に、任天堂は『ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド』と『スーパーマリオオデッセイ』を発売し、N64時代に『スーパーマリオ64』と『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で示した「箱庭ゲームの楽しさ」を、近代的な技術を取り込んだ上で、改めて世界中の多くのゲームファンに意識させた。

 私は、スーパーマリオオデッセイについてのある海外の翻訳記事で、スーパーマリオオデッセイに対し「サンドボックス」という表記を見かけたのだが、おそらく文脈から察するに、これは「箱庭」の英語訳ではないかと捉えている。

 しかしながら、私がビデオゲームの専門用語としてサンドボックスという言葉を知ったのは、あのマインクラフトのジャンルを指し、その言葉が用いられている記事を読んだときだった。

 世界を構成する全てに対し、物理的にインタラクションすることができる。世界そのものに有機的に触れるゲームデザインを砂場遊びに擬えて、サンドボックスと呼ぶのだと。

 だから、スーパーマリオオデッセイがサンドボックスと呼ばれているのを見たときは、「マリオオデッセイってサンドボックスなの?壁とか地面掘れないよね?」と思った。

 けれど、そもそも、3D空間で有機的に世界に触れることを志向したゲームを、スーパーマリオ64の時点で任天堂は「箱庭ゲーム」と呼んでおり、その「箱庭ゲーム」という言葉が「サンドボックス」という言葉になっているのなら、マインクラフトのようなゲームデザインに絞るまでもなく、「世界に触る」ゲームはサンドボックスと言えるのではないか。

 私にとってスーパーマリオ64は、ビデオゲームの虜になるきっかけになった作品であり、マインクラフトは、これこそが私がビデオゲームに求めていたものの現時点での到達点だと衝撃を受けた作品で、両作品とも、「私にとって最高のゲーム」である。

 『The Tomorrow Children』という作品が、私にとって最高のゲームの一つというのも、つまりはそういうこと。私は、ビデオゲームにその世界の感触を求める。

 以下は、TTCの正式サービスにて、初めて復興完了まで貢献したときに書いた当時の手記だ。

 

 "初めて復興の瞬間まで貢献した!凄く嬉しい。感動すら伴う達成感に、このゲームに感じ続けていた魅力の答えを知った。やっぱり好きだ。

 この時、本当に凄く嬉しかった。ゲームで「喜び」という感情を味わったのは初めてかもしれない。楽しいとか、爽快とか、満足とか、ゲームにおけるポジティブな感情ってそういうもので、なんていうんだろうな・・・個人的な感情というか。それは、今回の喜びという感情とは絶対的に違うもの。

 TTCスタンドアロンのゲームで、町の復興というのも、自分がどの町を復興させるのかを決めて、最初から最後まで自分の力だけでやり遂げるというものだったら、それをやり遂げたときの達成感は満足感だと思う。

 でも、TTCはソーシャルなゲームで、町の復興は他のプレイヤーと力を合わせることで目指す。その復興に自分はどれだけ貢献できたかというのが、このゲームの個人的な体験の部分。

 言ってみればただそれだけのこと。「そりゃ違うだろう」と、なると思う。でも、このゲームはプレイしているときにその割り切りを感じさせないのかな。スタンドアロンのゲームをプレイしているようなフィーリングなんだ。でも、私のプレイは確かに、皆で目指す目標への貢献。

 スタンドアロンのフィーリングの上に、マルチプレイの感覚を再現してるのが、このゲームの素敵なところなんだろう。本当に嬉しかったんだ。

 最後に、人形変換器の近くで皆でいいねし合っていた。「やり切った!」じゃなくて、「いやー、やり切ったねー!」という感じで。

 スタンドアロンオープンワールドのゲームって、どんなに広くてもマップが頭の中に入ってしまえば、文字通りそのフィールドはもう自分の庭で。「庭」なんだ。「世界」じゃなくて。

 世界って、もっと手に負えないもの。手に負えないから、その世界で自分は何をしようかと思い、その世界でできたこと、自分が遺せた痕跡に、充足感を覚える。

 そして、更に痕跡を遺したいと思う。痕跡を遺すだけの、やれることが世界にはまだまだいっぱいあると、そう思える。

 自分のものにならないからこそ、自分との繋がりを尊く思える。そんな世界に愛着が持てる。人間にとって「世界」ってそういうもの。

 TTCの世界は、とてもじゃないけど一人じゃ手に負えないようになってる。それは、そういうゲームデザインだからと言ってしまえばそれまで。ソーシャルなゲームだからと言ってしまえばそれまで。

 でも、それを自然と受け入れられるんだ。納得できる。言葉で説明するまでもなく、触った感触こそが何よりも説得力を持つ。"

 

 ただ単に、スーパーマリオ64などに匹敵する水準の触り心地があるというだけだったのなら、最高とまで言うには至らなかっただろう。ビデオゲームに世界の触り心地を求めた私に、少なくとも私の中では今までに無かった、ビデオゲームにおいて創り出すことができる「世界」の定義をTTCは示したのだ。

 この記事は、開発者自身によるTTCのプレゼンテーションを書き起こしたものだ。マルキシズムという実際の社会に適用される思想体系を、ゲームデザインの着想としていることが語られている。

 2016年の1月、発表以来ずっと興味があったTTCクローズドベータテストが実施される報せを受け抽選に応募し、当選することができた。指定の日時にTTCをプレイし始めたが、最初は、このゲームにおいてすべきことを全く理解できずに終わる。

 しかし、素材は見えている。ゲーム内の変化をアナウンスしていると思しき公共スピーカーや、ショップや家屋などの施設が立ち並び、NPCが親しげに声をかけてくる「町」。そこから「バス」が発進し、遠くにある「島」までプレイヤーを送迎する。

 ショップで購入することができるピッケルやシャベルなどの「ツール」。そのツールを使い採掘し、鞄に収納することができる「資源」。島の物陰に隠されるように置かれている、ひどく脆い謎の「人形」。そして、ふと気付くと時折足元に落ちている米ドル紙幣を思わせる緑がかった見た目の「外貨」。

 ショップの販売員からこっそりと教えられた「ブラックマーケット」にトランシーバーを使って繋ぐと、町のショップでは不許可とされ購入することができない銃火器やジェットパックを購入することができる。

 この世界において、最低限のツール以外の使用を許可されていない私は、内緒で拾って懐に収めた外貨を使い、開放的な雰囲気の爽やかな白を基調としたカラーリングで曲線的なデザインの外国製ジェットパックを背負う。

 そして思う。コレは「自由」だと。

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 自由を得た私は、この世界で何ができるのだろう。何がしたいのだろう。私は、「個人住居」を建てたかった。

 ベータテストプレイ開始時に与えられた個人住居建設許可証というアイテムがあれば、町に個人住居を建設し、その町において様々な権利が開放されるとのことだが、ほとんどの場合、町の建設上限に達しているとされ、建設することができない状態だった。他のプレイヤーが、先に個人住居を建設してしまっているということだ。

 空きのある町はないかと、町一覧を眺めながら、ある点に気付く。個人住居建設数の母数が町によってバラバラであることに。

 そこから、個人住居の枠は拡張されると推測し、「タウンホール」という施設のレベル上昇に従って拡張されることを学ぶ。

 では、そのタウンホールという施設のレベルは、何を条件に上昇するのだろう?そう考えながらタウンホールを観察していると、タウンホールの中心部に何やら投入口のような穴があり、その上にアイコンと数値が描かれている。

 そのアイコンとはメタル資源を表すアイコンで、数値は、次のレベル上昇までに必要なメタルの数だった。この時点で、とにかくメタルを集め、タウンホールにひたすら投入し続けるという目的が定まった。

 だがしかし、私一人で、貧弱な国産ツールでメタルをせっせと採掘し、バスに積み、誰かに資源として搬入されてしまう前にタウンホールまで運ぶという行動を取るのは、資源を3つしか収納できない初期のステータスからしても、極めて非効率的で限りなく不可能に近い。

 ブラックマーケットを利用すれば強力な外国製ツールを使うこともできるが、ジェットパック一つ買えば、時折落ちているものを拾って集めた外貨の残りは知れている。とにかく非力なのだ。一人のプレイヤーの力など。

 そこで私が辿り着いた答えは、町に参加するプレイヤーによって形成されている「共同体」を利用するということ。

 彼ら一人一人の目的は知る由もない。このゲームにチャットは無いから。だが、各々が目的を果たす為に、各々を利用し合うことが合理的なゲームデザインになっているので、結局皆、復興に向かって真面目に働くことになるのだ。

 誰かが資源を採掘すれば良くて、誰かが資源をバスに積んだり、町に搬入したりすれば良くて、誰かが町で必要な施設を建設すれば良くて、誰かが町に迫る脅威を迎撃したり、被害を受けた施設を修復したりすれば良い。その共同体の中で私は、タウンホールにメタルを投入する「誰か」になった。

 目的通りタウンホールのレベルを上昇することができ、晴れて個人住居を建設したときには、TTCにおける世界の定義を理解し、世界を構成する一部になっていた。

 

 ここまでで、TTCについて一通り語ってはきたが、TTCをプレイしていて、個人的に心地良く感じたことについても語っておきたい。

 TTCは、静かなゲームだ。日本の伝統的な美意識の侘び寂びにも通ずるところがある。世界の時間が止まっているかのような静けさを、私は「沈黙」と言い表す。

 見渡す限り平坦で白い景色が広がるボイドには、人の意識が融けているとされている。ボイド上にフッと現れ、フッと消えていく島々は、どれも何だか意味ありげな造形をしている。

 見覚えのある何かっぽかったり、それにしてはちょっと奇妙で、ただならぬ雰囲気を醸していて。

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 今、我々が生きる文明社会が、ボイドに覆われる前の世界だとして、忙しなく、騒々しく、雑多で、混沌としていた世界の残像を思わせながら、島はただ何も語らずにボイドの上に佇んでいる。

 BGMの流れない普段のフィールドから、島がある空間に足を踏み入れると流れ始めるアンビエント系のBGMも、開けた空間に鳴り響いて拡散していく感じではなく、空間に同化し、滞留しているような感覚だ。

 島の高所で、風も吹かず、見渡す限り何も無いボイドを眺めながら木を伐採しているときも、暗闇と危険な敵に備えながら、一層静かな島の内部で、ぼんやりと温かな光を放つ愛らしいキノコを灯りにしながら資源を採掘しているときも、沈黙する世界で単純な作業に集中していると、「自分は今、世界でたった一人」などという感覚に包まれる。

 流動し続ける世界の流れを止めて、そこに佇む一点に集中する。この効果は謂わば瞑想か。

 現実から一歩引いて、心の調子を整える時間をビデオゲームとして人々に提供することは、ビデオゲームというエンターテイメントの特性に合っていると、個人的に思っている。人によっては、これを作業ゲーと一蹴するのだろうけれど。

 私が好むTTCのこの性質と同様のものがあると言えるのは、私が人生で最も気に入っている作品である『ピクミン2』だ。

 小さな宇宙人の目線で、作品内では地球だとは語られない明らかに地球っぽい惑星で、原生生物と呼ばれる見慣れたカエルとか芋虫みたいな面影のある生き物を排除しながら、我々が普段生活している足下の世界で、我々が使っている乾電池だとか・・・あずきの缶詰だとか・・・ゲームキューブコントローラのアナログスティックにあたる部品だとかを、「お宝」としてせっせと集める。

 ピクミン達が力を合わせ、(宇宙人目線で見ると)巨大な(とても見覚えのある)物体を運搬する様は、宛らアリ。

 まだ体が小さく、自分の目線と地面が近かった頃、地を這う昆虫を眺めながら、スケールがまるごと違うのであろう昆虫の生活というものを想像していた。ピクミン2でできるのは、まさにその体験。

 これもまた、現実と地続きでありながら現実から一歩引いている感覚にさせられるもので、普段生きている現実との距離感が堪らなく心地良いのである。

 

 私がTTCについて語れることは、これで全てだろう。けれど私は、TTCにおける「共同体の中での自由」というものについて、満足には触りきれていない部分があったと、TTCのサービス終了後に思わされている。

 TTCがまだサービスを継続していた頃、私はこのゲームのインターネット上のコミュニティやSNSでの情報交換に全く目を通さずにプレイしており、復興を目指す上では無意味な町のカスタマイズなどにも関心を持っていなかった。

 マインクラフトにおいてもそういった楽しみ方があるように、TTCもそういった楽しみ方ができるように作られているのは分かっていたが、そもそも私は、そういった楽しみ方を好むプレイヤーではなかった。

 復興という目的にどうアプローチしていくかということだけを楽しむことに焦点を置いていたので、早い話、あえて人が少なく賑わっていない町に行くようなプレイばかりしていたのだ。

 TTCがとうとう終了されたとき、まだ始まったばかりで、これから多くの人に触れられなければならない素晴らしい作品が、永久に誰にも触れられずに抹消されることに納得がいかず、その意志をインターネット上で表明し、同じように残念がる意志を表明する人々に積極的に賛同を示した。

 そのときから、私のSNSのTLに、TTCで町をカスタマイズしたり、プレイヤー同士で積極的に交流したりするプレイの様子が活発に流れてくるようになった。頭では分かっていたが、やはりTTCは、ゲームを共有するプレイヤー同士が"戯れ合う"場としても、唯一無二の作品だ。

 囲いの中、非力な子どもが儚い自由を無邪気に謳歌し、互いに助け合い、時にからかい合い、皆の力で、皆の居場所を創っていく。TTCは、そんな場所、そんな時間を、人々に与えている作品だった。

 復興するときとは、皆で創った居場所を皆が去るとき。復興が盛大に祝われた後、次の町の復興に向かう為に、再び一人地下鉄に乗り、窓に映る自分の姿を眺めるプロジェクションクローン。

 最初、町にやってきたときと同じ光景が、やけに胸に隙間風を吹かせるとき。

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 ここまでTTCを語ってきた私にすら、満足に触りきれていない部分がある。まだTTCに触れていない人が数多くいる中で、このような創造性に溢れた作品が抹消されるべきではないと、多くのゲームファンが思ってくれることを強く望む。

 私は一ゲームファンとして、ビデオゲームの歴史において、The Tomorrow Childrenのような素晴らしい作品が抹消されることなどない、正しい歴史が続いてほしい。

 

 記事を書く前、スマートフォンのゲームに通ずる基本プレイ無料のゲームとしての話や、近年の日本における(マイクラのような)サンドボックスゲームのブムなども絡めて喋ろうかと考えていたが、結局はTTCというゲームが存在して、そのゲームはとても面白いゲームだったという話だけでいいと考えた。

 何かが生まれるまでには流れがあるが、生まれた何かからまた新たな流れができる。できなければならない。

 そういう意味で、既に生まれているものが生まれて"から"のことに対して、生まれるに至るまでの流れを基準に論考する意味は、特に無いだろう。

 最後に、アメリカのワシントン・ポストにて、The 10 best video games of 2017という題で、2017年に各所で絶大な称賛を浴びた『ペルソナ5』や『スーパーマリオオデッセイ』に、『The Tomorrow Children』が名を連ねていた記事を紹介して、本稿を締め括る。

www.washingtonpost.com

ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2017年の総括

2016年の総括を纏めた前回の記事に引き続き、この記事では2017年の総括をしていく。

 

2017年3月頃、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドをプレイ

 

BotWの感想と話したいことは、以前に記事にしているので、そちらを参照。

 

coretomayu.hatenadiary.jp

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2017年5月頃、ペルソナ5をプレイ

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・・・実のところ、「プレイ」などと書いておきながら、この作品は2つのステージ(作品に則した呼称ではパレス)をクリアした時点で積んでいる。再開する予定も今のところは無い。

日常的に家庭用ゲームの話題を追っている人であれば時期からして察しがつくだろうけれど、私は、国内で2016年の9月に発売された後、数ヶ月遅れて2017年に入ってから発売された海外における評判を受けて、プレイに至っている。

国内において発売された時点では関心の対象ではなかったこの作品を、私がプレイしようと思った動機はあまり純粋なものではない。2017年現在において、「JRPG」というジャンルに当てはまる作品が、国際的に大きく注目されていることに興味を抱いたのだ。

主にアクションゲームを好むゲームファンである私が、縁の薄かったJRPGについて興味を抱くより詳細な経緯については、このブログに最初に投稿した以下の記事を参照。

coretomayu.hatenadiary.jp

そして、全てがそういう動機なわけではないが、今年はJRPGの類型に当てはまる作品に多く触れており、自分なりのJRPGについての理解が深まった年だと思っている。

以下に、該当する各作品を挙げる。

 

同年同月、ブレイブリーデフォルトをプレイ

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同年8月頃、UNDERTALEをプレイ

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同年9月頃、プロジェクトオクトパストラベラーの体験版をプレイ

 

先程、参照したJRPGについての記事でも扱っているドラゴンクエストXIについても、その後、プレイした人達の感想やメディアのレビューを各所で見聞きして、益々、JRPGの復興というものを考察する上で欠かせないマスターピースなのだろうという認識を強くしている。

しかしながら、やはり私は基本的にはJRPG向きではないタイプのゲームファンだ。今回の記事のテーマでもある個人的なゲーム熱の飽和というのも理由としてあるとはいえ、ドラクエXIをプレイする意欲は無いし、上述した各作品も全て積んでいる。オクトパストラベラーは剣士の方しかクリアしていない。

「物語を読み進めるフォーマット」というのがJRPGを定義する一つの主要なファクターだという認識が、今年、JRPGの類型に当てはまる各作品を触れてきて見出している答えの一つだが、率直に言って、私はビデオゲームを遊ぶ際に、「物語」としてのエンターテイメント性は求めていない。

だがそれは、「ビデオゲームに物語は不必要」、「JRPGは物語を読み進めるフォーマットだから、私がJRPGを面白いと思うことはないだろう」というわけではない。

私はJRPGビデオゲームの一つの形として尊重できるものと捉えているので、「ゲーム」として楽しむことはできるだろう。

事実、過去にN64マリオストーリーという作品をプレイした記憶は、私にとって楽しい「ゲーム」をプレイした記憶の一つである。

ここまで少し長くなったが、私がジャンルとしてのJRPGに関心を寄せることが、ただJRPGに難癖をつけているだけの冷やかしではない明確な理由を話そう。

私はFFXVをとても気に入っているので、現行の家庭用ゲーム機向けにFFXVを出してきたスクウェア・エニックスが、次にどういうFFを出してくるのかというのは、無関係な話ではないのだ。

次に出るFFとはつまり、FINAL FANTASY VII REMAKEのことだ。FFの近代化を掲げ、JRPGのフォーマットを一度否定したFFXVの後に、同じ世代で、JRPGの金字塔的な作品をフルリメイクするなんて・・・どう落とし所を見極めるのか。

FFVIIRがどうなるのかという話については、今後一つの記事で纏めようと思っている。

 

ところで、UNDERTALEをJRPGの類型に当てはまるとして上で扱ったことに違和感を覚える人がいそうな気がするが、自分でもちょっと乱暴なような気はしているので、UNDERTALEから見るJRPGの面影について少し話そうと思う。

UNDERTALEは、どこで知ったかというのは特定できず、日々ネットでゲームの話題を追いながら、各所でUNDERTALEという名前や(UNDERTALEのものとは知らずに)ファンアートなどを見かけながら、作品自体を知るよりも、ちょっとしたブームのようになっている雰囲気に先に触れていて、後から、「ああ、あれがそうだったのか」と確認するような感じで知った海外のインディーゲームだ。

Googleで検索するとトップに出てくるニコニコ大百科のページなどは、ファンの手によって凝った編集がされている。

dic.nicovideo.jp

今年のE3でのSIEの公式配信で、PS4PSVITA向けに提供されることが発表されたという報せを受け、ダウンロードし、プレイに至った次第である。

個人的な感想としては、積んでしまっていることから察してもらいたいところだが、なんとなく、多くの人が好きだと言うことには「なるほどな」と思ったし、プレイヤーよりも開発者への関心として、やはり、JRPGというフォーマットのファンコミュニティとは、国際的に存在しているのだと思った。

UNDERTALEはJRPGではないとしても、JRPGという類型の元になってきた作品群へのリスペクトの上に成り立っている、JRPGのフォロワー的な性質を多く含んだ作品であることを否定する人はいないのではないだろうか。

 

2017年10月頃、メトロイドサムスリターンズをプレイ

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同年同月、Cupheadをプレイ

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Cupheadのゲームプレイはボスとの戦闘がメインだが、横スクロールのステージも幾つかあり、横スクのアクションゲームと言えるところもある。

それを踏まえ、メトロイドサムスリターンズと同時期にプレイしながら、こういった2Dのシューティング要素のあるクラシカルなアクションゲームについて、ここにきて改めて考察している。

私が、幼少期に所有し最も触れていたゲーム機はN64GCPS2で、これらの機種は、シューティング要素のある2Dのアクションゲームというと、そういったジャンルは少々影を潜めていたプラットフォームと言えるのではないだろうか。

けれども、私はこういったゲームを触った経験があるし、その記憶としては楽しかった記憶なのだ。つまり、私はシューティング要素のある2Dのアクションゲームは好きだ。

具体的にどのゲームを触ったかとかいう話をするとなると・・・PS2のPS1互換機能を使って、親戚から借りたボカンと一発!ドロンボーという縦型シューティングの作品を遊んでいたり、友人から借りたGBAロックマンゼロを遊んでいたり、姉が姉の友人から一時期借りパクしていたSFCで、作品名は分からないけど、横型シューティングのゲームを遊んでいたり・・・全て自分で所有したゲームではないし、クリアする前に返してしまっているので、クリアもしていない感じになる。

なので、まだ味わい尽くしていない分、比較的に燃焼する熱量の残っているジャンルでもあったりする。

私にとってのシューティング要素のある2Dアクションゲームの話はこの辺にしておくとして、話したいのは、こういったクラシカルなゲームから考える、アクションゲームの難易度の話だ。

Cupheadにしてもメトロイドサムスリターンズにしても、高難度ということで話題になったことで共通している。

近代において、高難度であるということがゲームファンの間でポジティブに話題になった例では、デモンズソウルに端を発するソウルシリーズが先駆けだろう。

いきなりシューティング要素も無く思いっきり3Dアクションのゲームを出してしまってあれだが、私がダークソウルを初めてプレイしたときのプレイ感覚は、Cupheadやメトロイドサムスリターンズと似た、クラシカルな感覚だったのだ。

「何か、昔のゲームみたいだ」、「昔、ゲームやってるときってこういう感覚だったよね」と。

ゲームを遊ぶ上で、こういった感覚というのは普遍的にあった筈なのだけれど、いつの間にか無くなっていたと、ダークソウルをプレイして思い出した。

ダークソウルにしても、Cupheadにしても、メトロイドサムスリターンズにしても、難しいと言えば難しいという表現でも合っているのだけど・・・昔、ゲームを遊んでるときってこういう緊張感あったな、という風に思う。

では、「昔のゲームが難しかった」と言うと・・・それも合っているのかもしれないけれど、やはり私は違和感があって、本来ゲームに普遍的にあった緊張感みたいなものが、どこかでぼんやりと薄れていってしまったのだと思っている。

Cupheadやメトロイドサムスリターンズの場合、ゲームデザインがクラシカルであると、本来ゲームに普遍的にあった緊張感なども含めて蘇るのだろう。

今のゲームはヌルいのではなく、今のゲームは、昔のゲームができていたような普遍的な緊張感というものを、プレイヤーに感じさせる方法論が洗練されきっていない。

となるとやはり不思議なのは、フォーマットとしては3Dアクションゲームであるダークソウルが、いかに普遍的な緊張感を再現したのかというところで・・・

一つ思ったのは、ビデオゲームのメインストリームが3Dに移行してから、ゲームデザイン上で扱える情報が空間的に増えたことによって、3Dアクションゲームという括りの中でも、2Dアクションゲームと比べ、作品ごとに持ちうるビジョンがより多様で差異が大きいことに原因があるのだろうか。

2Dアクションゲーム的な、必要な情報のみでの「適度な制限」に最適化して構成されたゲームデザインが、2Dの時代の普遍的な緊張感を再現できる。

3Dゲームだからと言って、全てが「ヌルい今のゲーム」になるわけではないのだ。なぜなら、私がN64で幼少期にプレイしていた3Dアクションゲームはヌルくはなかった。まぁ、幼少期の私がゲームがド下手だったのもあるだろうが。

 

2017年10月頃、シャドウ・オブ・ウォーをプレイ

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シャドウオブウォーは、2017年に遊んだゲームで最も面白くて、個人的に刺激があった。

私は、いわゆる「洋ゲ-」と呼ばれる分類に属するゲームには、あまり触れてきていない。

因みに、私が個人的に認識している「洋ゲ-」とは、海外の大手パブリッシャーの巨大な資本によるAAA級タイトルと言われるような作品群である。

デベロッパーの独立性が高いインディーゲームは、海外のデベロッパーの作品であっても「洋ゲ-」とは呼ばず、意図的に「インディーゲーム」と区別して呼んでいる。

N64ではレア社バンジョーとカズーイの大冒険ドンキーコング64PS2では007ナイトファイアやGTAバーンアウト3テイクダウン、PS3PS4ではSIEWWSのアンチャーテッド、ラスト・オブ・アス、インファマスなどを遊んでいるので、一応、海外製のコンシューマ向け大型タイトルを全く触っていないわけではないのだが・・・

私は、コンシューマにおける「洋ゲ-」の活況をムーブメントとして捉えていて、主にそれを主導していたのは、第6世代のコンソールに最後発で参入したMSのXboxだと考えている。

そのムーブメントが、日本においてもそれ程コアではない多くのゲームファンの目にも見えるような大きなものになり始めたのは、Xbox360からだろうか。

当時、ニコニコ動画HALO3や、オブリビオン、Fallout3、バイオショックCall of Duty 4などの動画がランキングを賑わしていたことを覚えている。そういったムーブメントには、丸々乗っかっていないと思うのだ。私は。

だから、私が「洋ゲ-」を意識するのは本当にシャドウオブウォーからで、そのシャドウオブウォーを遊んで、洋ゲ-が面白い、洋ゲ-が好きだ、みたいに言う人達が言わんとするところの、「洋ゲ-の良さ」みたいなものについて、一人で納得していた。

技術的な面とか、どういうところでプレイヤーを満足させようとしているかという方法論とか、開発体制がしっかりと整っているからこそ実現されている丁寧な作りとか、タイトルの垣根を越えて洗練されたプレイアビリティが高い次元で共有されている。

それとは逆に、なんだろうな・・・詰め込み過ぎている感じなんかもあって、開発体制が定型化され過ぎているが故に、作り方が業務的になっているというか、クリエイティブな面で見て無機質に感じるようなところがあるとも思う。

先程、洋ゲ-とインディーゲームを意図的に区別しているという話をしたが、それは、インディーゲームもまた独立したムーブメントだと認識しているからだ。

海外の大手パブリッシャーというのは、産業としてのビデオゲームの発展に第7世代から第8世代にかけて大きく寄与したが、その結果、大衆向けのビデオゲームの量産体制が築かれることになったのだと思う。

作り手の拘りや、作り手がどういうものを表現したいのかという作家性のようなものが、あまり必要とされなくなっていったから、そのカウンターとして、インディーゲームというムーブメントが生まれてきたのだろうな、と・・・。

何はともあれ、シャドウオブウォーは面白かった。

洋ゲ-とインディーゲームをそれぞれムーブメントとして捉えたときに、私はインディーゲームの方により愛着を感じるが、大衆に訴求するエンターテイメントとして、常に最前線のプロフェッショナルを募りロジカルに「確実に満足できるビデオゲーム」を追究する洋ゲ-に対し、ビデオゲーム文化の土壌の豊かさを押し上げている力強さへのリスペクトは感じている。

そして、そういう中であっても、洋ゲ-なりのビデオゲームとしての挑戦というものは確かにあり、シャドウオブウォーにおけるネメシスシステムなどがそうなのだろう。バグろうがどうしようが乗っけてくるくらいなのだから。

私はこのネメシスシステムのめちゃくちゃ複雑な仕組みであるが為に発生したであろう深刻なバグにぶち当たり、シャドウオブウォーは思いっきり足止めを食らってしまった。

 先日パッチがあてられ解消されたことは確認したが、熱が盛り上がっていた頃からはかなり時間が経ってしまっている為、再開するかは分からない。

 

2015年に各方面で最も評価され、現在も話題に挙がることがある作品であるウィッチャー3について気になっていることも、少し話そう。

現時点でのコンピュータRPGの理想型・完成形というのが、ウィッチャー3への評価の大まかな総意と受け取っている。

同じような評価を受けている作品としてSkyrimがあるが、Skyrimとウィッチャーの特筆すべき相違点は、Skyrimはゲーム開始時点で主人公をキャラメイクするのに対し、ウィッチャーは予め用意された固有のキャラクターが主人公であること。

プレイヤーがロールプレイするのはファンタジー世界における自らの物語ではなく、特定の人物の物語の追体験となるわけだ。

これは、長らく海外製のRPGに対するJRPGの特徴として語られてきた要素の一つだろう。

このことから、ウィッチャー3はSkyrim以上に、コンピュータRPGとしてのJRPGに絡めて考察する声が多いような印象を持っている。

フォーマットの違いを考慮しない単純比較には慎重になりながらも、JRPGがウィッチャー3から学べることについての議論は必要なのかもしれない。

私が関心を向けているのは、2007年にPCゲームとして始まったこのシリーズの最新作に至るまでの「正統進化」への道筋だ。

まず一つ気になるのは、ビデオゲームのウィッチャーシリーズには、魔法剣士ゲラルトというファンタジー小説の原作が存在すること。

シャドウオブウォーにも指輪物語という有名なファンタジー小説が原作として存在するが、他のメディアのコンテンツを原作としたビデオゲームが、単独でもコンテンツとして充分な求心力を持っているというのは、日本の家庭用ゲームではあまり馴染みのないことだ。

そして次に気になるのが、洋ゲ-における代表的なシリーズやそれらを手掛けるデベロッパーは、開発者のフォーラムやプレイヤーコミュニティの由来がPCゲームにあること。

早い話・・・ギークによるギークの為の界隈として一体感を持ちながら成熟しているのだと認識している。

ギークに認められるコンテンツがギークによってビデオゲーム化され、ギークが認める硬派で堅実なコンピュータRPGとしての基礎を保ちながら、近代的なプレイアビリティを取り込んだことが、「正統進化」の道筋をファンと開発者が共有できた所以なのではないかと。

日本のコアなゲームファンや開発者には、そんな環境への渇望を垣間見る。「30年かけてろくなコミュニティが築けなかった家庭用ゲームに期待するより、むしろまだ開拓の余地のあるスマホゲー」という空気が一部にあることも、そう考えると納得がいく。

私は、家庭用ゲームと接してきた時間がファミコンの時代から見てきたような人達より短いのもあり、まだ家庭用ゲームに失望するような感覚には共感できないが、「JRPGをちゃんと育てたかった」人達がいるのだろう、とは思う。

 

2017年10月頃、スーパーマリオオデッセイをプレイ

 

前回の記事の冒頭でも触れたマリオオデッセイ。ざっと感想を書こうとは思うが、マリオオデッセイをプレイしている時点で既にゲーム熱の飽和には陥っていたので、凄く面白かったわけでもないけど、まぁ面白かった。

3Dマリオとして、スーパーマリオサンシャインぶりにリッチでダイナミックなゲームプレイを押し出そうという方向性に、ピュアに挑んだ3Dマリオ最新作なのは確かだ。

スーパーマリオギャラクシースーパーマリオ3Dワールドという近代の3Dマリオで積み上げてきた触り心地の良さの集大成にもなっている。

3Dマリオの楽しさたるや何かというのを知りたい人がいたとして、マリオギャラクシーか3Dワールドかマリオオデッセイか、どれを触るといいかで言えば、マリオオデッセイを触るのがいいだろう。

最新作なだけあってゲームデザインも最適化されているマリオオデッセイは、パワームーンを集めていくというゲームプレイの主なサイクルにおいてストレスが無い。

過去作では、一度パワースターやゴールポールに辿り着くと、その都度拠点に強制的に戻されたのだが、マリオオデッセイでは一度ステージに降り立てばシームレスにパワームーンを集め続けられるし、そのテンポでの収集に耐えうるだけのパワームーンが用意されている。

後はまぁ・・・グラフィックとサウンドがリッチだ。マリオギャラクシーマリオ3Dワールドもそうだったので、3Dマリオシリーズはプラットフォームのパフォーマンスの上限を示すベンチマーク的な役割も伝統的に担っているんだろう。

グラフィックは現在Switchで出ているタイトルで最も高品質であり、マリオオデッセイを触れば、あえてタイトに判定しない限りはSwitchがPS4Xbox ONEなどの標準の機種に比べて、言う程マシンパワーが不足していると感じることは無いんじゃないだろうか。

サウンドに関しても同様に高品質で、その上、各所で驚嘆の声の上がったHD振動が、疑似サラウンドのような効果をもたらしているように思う。HD振動は最新のゲーム体験として価値のある提案だ。

また、3Dマリオチームの難易度とボリュームとの向き合い方も、任天堂がカジュアルに偏重していた時期もブレていなくて好感を持っていたが、マリオオデッセイまできても良い意味でそこは変わっていない。

 

結局、マリオオデッセイがゲームファン基準でリッチでダイナミックな3Dマリオを志したこと、それ自体が私にとっては最も喜ばしいこと。

ゼルダの伝説BotWという1本で、任天堂がゲームファン基準でリッチでダイナミックなタイトルを出してきたというだけでは、まだ任天堂を信じるには不充分だった。

それが、スーパーマリオオデッセイもそうだったわけだ。しかも、同じ年で。宛ら、N64のときのゼルダの伝説時のオカリナスーパーマリオ64のように。

マリオオデッセイをクリアした時点で、私が長らく任天堂に対して抱いてきた不穏な気持ちは、完全に払拭された。

だからこそ、しばらくゲームから離れてもいいように感じている。

私がSwitchで、それこそマリオとゼルダ以上に最も期待しているのは、どうぶつの森ピクミンなのだ。

だからもう、どうぶつの森ピクミンが出るまで、ゲームは何にもやらなくていいくらいに思うわけで。まぁ、普通にやるだろうけど。

中途半端な感じのままピクミンを迎えるのは絶対に避けたい。ピクミン、マジで好きだから。

あと、どうぶつの森と言えば、先日配信が開始され、世間で非常に盛り上がっているどうぶつの森ポケットキャンプについて、言及せずにはいられまい。

と言っても、今回の一連の記事を書いている最中にポケ森が配信されてしまった為、触るのは書き上げてからにしたくて、何か話すにしても、触ってから話したい。

触る前に言いたいこととしては、Twitterの方で少し言及したので、最後にそちらを引用して、この記事はこれにて〆とする。

 

ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2016年の総括

先日、ゼルダの伝説BotWに次ぐ、Nintendo Switchの最大注目タイトルとして発売を待ち侘びていたスーパーマリオオデッセイで、全てのパワームーンを集め終わり、プレイを締め括った。

現在、積んでいるゲームや気になっているゲームは多数あるが、正直なところ、今はゲームに対する熱が飽和している状態だ。

2016年と2017年は、個人的に注目・期待していた作品を立て続けに消化したからだ。

ゲームへの熱をリセットすることも兼ねて、書こうと思っていた話をアウトプットすることに集中しようと思う。

今回の記事では、ゲームへの熱が飽和する理由になった2016年と2017年にプレイしてきたゲームを通して、思ったことや考えたことを順番に振り返っていく。

 

2016年1月頃、The Tomorrow Childrenのクローズドβテストをプレイ

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後に同年6月頃のオープンβテストにも参加し、同年9月の正式サービス開始後もプレイしている。

今年の7月に突然サービスの終了がアナウンスされ、9月にストアでの配信が終了、11月にサービスが終了してしまった。

ごく限られた期間にしか触れることのできなかった、謂わば幻の作品と言える。

結論から言うと、私の最も好きな作品の一つとなり、ゲーム観への刺激を受けた作品だが、この作品については一つの記事で纏めようと思っているので、この場ではこの程度の言及に留めておく。

 

2016年5月頃、DownwellのPS4版をプレイ

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同年8月頃、風のクロノアアーカイブスをPSVITAでプレイ

http://j.dl.playstation.net/j/NPJJ00585/npjj00585_3.png

 

Downwellは、私がよく動画を閲覧しているYouTubeの動画投稿者が話題にしていたのをきっかけにして知った作品で、私が知った時点では、恐らくiOS版とSteam版しか配信されていなかったように記憶しているが・・・詳しくは覚えていないので誤りがあるかもしれない。

作品の存在自体を知ってからは暫く経った後、PS4版も提供されているということをどこかで知り、価格も安価だったのですぐにダウンロードした。

ガンブーツという足に装着する銃火器を攻撃手段に、敵を迎撃し掻い潜りながら、井戸の底までひたすら落ちていくというゲームで、ゲームデザインとしては画面下方向にスクロールしていく縦型シューティングアクションゲームと言えば説明できるのではないだろうか。

ゲーム全体の構成はコンパクトなボリュームでありながら、アクションゲームとしてかなり骨太なバランス調整になっていて、私はアクションゲームをメインに好むゲームファンを自負しているが、ハッキリ言ってめちゃくちゃ難しいゲームだ。

プラチナトロフィーを獲得する為に、ノーマルモードをクリアするとアンロックされるハードモードのクリアにも挑んだのだが・・・

 このような結果になっている。プラチナトロフィーは獲得できていることになっているが、私は未だにハードモードをクリアできてはいない。

あともう一歩!というところまではいけるんだ・・・でも突破できない。この絶妙なもどかしさ。だから何度も挑戦したくなる。

黒と白と赤の3色のドット絵によるローテクを感じさせるヴィジュアルも相まって、宛ら古い時代のワンコインワンプレイのアーケードゲームのよう。まぁ私はリアルタイムでそういうのを触ってはいないのだけど。

開発者はもっぴん (@moppppin) | Twitterという方で、開発当時は現役の大学生でありながら、ほぼ一人でDownwellを開発したとのことで、国際的に注目を集めたそうだ。

 今年の6月頃に見た、このBranching Pathsという日本のインディーゲームシーンのドキュメンタリーにも出演していた。

 

風のクロノアは、ゲームの概要と感想については今更紹介することもないだろう。Wikipediaによると、1997年にPlayStation向けにnamcoから発売されたアクションゲームとのこと。丁度20年前か。

私個人にとっては、PSプラットフォームで購入して手元に置いた最初のゲームだったりするので、古くから愛着のある作品であり、今でも楽しんでプレイできるシンプルで良質な2Dアクションゲームといったところ。

話したいのは、この風のクロノアアーカイブスをプレイしたプラットフォームであるPSVITAについてだ。

2016年の夏頃は個人的に目ぼしい新作が無かった時期で、何かプレイしようと思い、風のクロノアアーカイブスに至った次第なのだが、最初はPS4でプレイしようと思っていた。

ところが、PS4アーカイブスに対応しておらず、では久々にPS3を起動するしかないのか・・・と思ったところ、そういえばVITAは対応していなかったっけ?と。

結果、VITAはアーカイブスに対応しており、PS1のゲームは今となってはコンパクトなゲームだし、VITAでも構わないだろうと思い、ここから、むしろコンパクトなゲームはハンドヘルドでプレイするのが丁度いいという気持ちが強まっていった。

以前の記事でも言及したけれど、コンパクトなインディーゲームもアーカイブス同様にハンドヘルドと相性が良いと考えており、この記事を執筆する前に、先述したDownwellもクロスバイを利用してVITAの方にもダウンロードし、プレイしてみたが、やはり相性が良いと感じた。

現在SIEは、ハンドヘルドのコンソールの展開には消極的な姿勢を見せていて、主に国内のPSP3DSのような市場の盛り上がりを望むゲームファンから失意の念を向けられているところをよく目にする。

SIEがPSP3DSのような市場の維持にフォーカスしていないことに関しては、個人的には特に問題無いと思っているが、SIEのハンドヘルドへの取り組み自体は必要以上に悲観しなくてもいいのではないだろうか。

Nintendo Switchのようなハイブリッドスタイルは家庭用ゲームコンソールとして最も合理的な帰結だと私は思うし、Switchの販売が好調ということもSIEへの刺激になるであろうことを考えると、PSフォーマットの一つのモデルとして、ハイブリッドモデルが提供されるのはありえないことではないと思うというのは、以前にも話した通りだ。

ただ、PS4のOSはおそらくそのような展開は想定していないと思われるので・・・SIEがそういったアプローチを仕掛けてくるとしたら、次世代以降ということになるだろうか。

将来の話についてはどこまで考えても憶測の域は出ないので、この辺にしておこう。

 

2016年11月頃、FINAL FANTASY XVをプレイ

 

同年12月頃、人喰いの大鷲トリコをプレイ

 

この2作品は、PS3のときから待っていた最大注目タイトル。

発表から発売までに10年かかったという話をよくされる2作品で、私としては流石に発表されたときからは待っていなかったが、それでもPS3を購入する前の年の2010年くらいには既に存在を知り、注目していた。

元々PS3向けだった筈が結局PS3で発売に至ることはなく、PS4で発売するということになった後も、世代が一つ上がり、よりリッチなゲームプレイになるのだろうと純粋に楽しみにしていた。両作品とも、PS4で最も期待していたタイトルと言っていいだろう。

私は、主にこの2作品の為にPS4を購入したし、この2本を待ちながら色んなゲームをプレイしていた。

両作品とも世間では色々と言われたようだが、この2作品のゲームプレイは私としては待った甲斐があり、ここに辿り着いたことが感慨深く、ゲームへの熱はこの辺りで燃え尽きた感じがある。

感想は・・・ここで書いてしまうと長くなってしまうので簡潔にだけ書くと、FFXVは、FFXIIIにもあった、FF開発チームの創り出すあのなんともいえない繊細で雄大で幻想的な、心しか踊らない世界を、極めて美麗で尚且つリアルな質量を感じるフィーリングでゲームプレイとして実現されていることが、まずその時点で最高。

そんな世界の大自然の中を、ドライブしてサバイバルしてキャンプして、幻想的なのだけど、まるで現実の世界で旅をしているような現実味のある各地のロケーションに癒やされながら、思う存分浸れる。

FFというシリーズ自体は長い歴史もあり知名度も非常に高く、FFXVから採用されたオープンワールドの技術は、2010年代の後半ともなってしまうと目新しいものではないので、「オープンワールドのFF」と言葉で言ってしまうと雑なイメージしか浮かばないような気がするが、FFXVという作品は極めてユニークで、そのゲームプレイは唯一無二と言える。

個人的に特に好きなロケーションは、カーテスの大皿・・・カエムの岬・・・その近くの岩礁もいいな・・・ラバティオ火山も凄いし、地味な山間の道とかも好きだし・・・うん、全部好き。

ドライブとキャンプの要素は、FFXVIでも引き続き打ち出してほしいな。あれは大事にした方がいい。

人喰いの大鷲トリコは、ワンダと巨像のときと同様に、技術的な部分とレベルデザインが完全に一体感を持っていて、どこまでを技術として称賛すべきで、どこからを職人芸として称賛すべきなのか分からない、上田文人氏の3Dゲームネイティブなクリエイティビティが最高。

水かさを使った謎解きに感動したのが特に印象に残ってる。

多分この先も、この人が創ったゲームなら触ってるだけで幸せになれると思う。だからまた、コンシューマー向けに間を置かずに新作を出してほしいな。

 

この記事は一旦ここで〆て、2017年の総括は別の記事にて纏める。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・下

前の記事からの続き

 

さて、ここまでBotWの感想を書いてきたけれど、これはいわゆるレビューというような、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドという作品に評価や判定をくだすものではない。

ゲーム内容の特定の部分に集中しているから、いずれにせよ未プレイの人の参考になるようなものではないだろうけど。

個人的な感想は充分に語れたので、ここからは俯瞰的なことについて話していく。

 

最近、ゲームに対して「モダン」という言葉が用いられているところをよく目にする。

「今風」くらいのニュアンスに捉えていればいいのだろうけど、辞書に載っている意味としては、「現代的」や「近代的」と説明されている。

私が日本語でそういった表現がされているのを最初に見たのは、FINAL FANTASY XVだった。

FFXVゼルダの伝説BotW同様に、開発体制が大規模に刷新され、過去作から続くある程度定型化されたゲームデザインが大きく転換された作品だ。

単純に解釈して、オープンワールドになった最新作のFFやゼルダがモダン、つまり現代的・近代的ということは、オープンワールドになる前のFFやゼルダは現代的・近代的ではなかったということになる。

スタンドアロンのFFとしてFFXVの1つ前の作品であるFINAL FANTASY XIIIが発売されたのは2009年で、ゼルダの伝説BotWの1つ作品の作品であるゼルダの伝説スカイウォードソードが発売されたのは2012年。

その時期には既に、オープンワールドという言葉はある程度ゲームの話題を追っている人には浸透していたように記憶している。

アサシンクリードGrand Theft AutoオブリビオンFalloutなどの海外製のゲームの認知度と共に。

私はゲーム開発者ではないし、そういった知識に詳しい自負も無いので、ほとんど聞きかじった話と印象に依った話にはなってしまうけれど、00年代に、自社プラットフォームに向けて開発する任天堂SCE(現SIE)も含めた日本のソフトメーカー各社が、家庭用ゲーム機のハードウェアとしての性能向上に伴うゲーム開発における技術水準の高度化や複雑化への対応に倦ねていた頃、同時期に家庭用ゲーム市場に新規参入したマイクロソフトは、PC向けOSであるWindowsでの経験を活かし、PC向けに開発されたゲームの家庭用ゲーム機への移植の容易さを、他のプラットフォームに対する優位性に据えていたと認識している。

私は、その頃起こったこととは、PCゲームの開発現場における技術の家庭用ゲーム業界への流入なのだと思っている。

家庭用ゲーム機を主軸に開発してきた国内のソフトメーカーにとって、00年代後半から10年代前半は、家庭用ゲームの開発現場に新たにもたらされた技術体系を学び、取り入れる期間だったのではないか。

現在開発されるゲームは、近代において定着した技術体系に基づいている程、近代的・モダンなのだと思う。

BotWのオープンワールドは、見えているところはどこまでもシームレスに行くことができ、世界のどこにいても、同じ物理法則がプレイヤーを含む世界に存在する全ての物体に働く。

そのプレイ感覚はまさにモダンな体験であり、2017年現在のビデオゲームが到達した最も発展的で豊かな体験に、衝撃や感動を味わう人もいるのだろう。

純粋な家庭用ゲームが近代的技術体系をものにし、時代の到達点たる完成形を産み出したことは、家庭用ゲームが真に発展し、新たな段階に訪れたことを意味するように思う。

34年前に家庭用ゲームというエンターテイメント産業の基礎をハードウェア・ソフトウェアの両面において完成させ、日本を含む世界に定着させた任天堂が、2017年現在、主にいわゆるコアゲーマーと呼ばれる層に向けて、オープンワールドというフォーマットに今発揮できるクリエイティビティの全てを注ぎ込み、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドを作り上げたこと。

そして、それが世界中の多くのゲームファンから熱烈に称えられ、歓迎されたこと。

このことは、私自身の人生の半分以上の時間を通して追い続けてきた家庭用ゲームの現在地の測位が改められるような出来事であり、自らの感覚でBotWを咀嚼し、飲み込まなくては話をまとめるには至れなかった。

私は、任天堂が今、BotWを世に送り出してきたことを受け止めたい。

正直個人的には、BotWは大満足かというと微妙だけど、満足だろうと微妙だろうと、受け止めたい。

その為にはちゃんと整理しなきゃいけない。BotWすごい!Switchいいんじゃない?では駄目だ。

任天堂が、ひいては家庭用ゲームが、BotWに至る道程はどういった道程だったのか。ちゃんと整理しないと、私は飲み込めない。

Nintendo Switchは、コンソールの縦軸の可能性ではなく、横軸の可能性にアプローチをかけた。

私はそれを受け入れられる筈だけど、やはり性能の追求という縦軸へのナチュラルな欲望もある。

欲しがる自分と受け入れられる自分と、ちゃんと折り合いをつけておきたい。

Switchは据置機であり携帯機でもあるハイブリッドなコンソールである為、人によって、Switchが基本的には据置機であるか、携帯機であるかの判断は分かれるだろう。

私は、ゼルダの伝説BotWは据置機水準のコンテンツであり、据置機モードでプレイして然るべきだと思っているので、携帯機モードでのプレイは選択肢として捉えている。

ハードウェアの技術革新がその選択肢をプレイヤーに開放した。

飽く迄、ベースは据置型コンソールが提供する体験の文脈だ。

 

Switchに関する話については、個人的には据置機の水準を満たすコンソールであると認めるに相応しいと考えていることだけ言えれば充分ではあるのだけど・・・携帯型家庭用ゲーム機について思ってきたことなどと話し出すとキリがないし。

まぁ、DSの時期にはまだ据置機の代替論などは受け入れられなかったが、3DSとびだせどうぶつの森を遊んだことで、携帯機に対する意識に変化があったということは軽く触れておく。

どうぶつの森シリーズは、今でもGCどうぶつの森+が最も思い入れのある作品で、おいでよどうぶつの森から「携帯機のゲーム」のような印象が付いていったことには、ずっと抵抗があった。

とびだせどうぶつの森は、3DSまできたら性能的にも据置機での体験と遜色ないところまできたのも確かだと思い、抵抗を感じつつもプレイしてみたら、ゲームとしてもちゃんと進化していて、どうぶつの森シリーズの特徴である時間の流れを実社会と共有しているところと、外出中に村の様子を軽く確認できたりする携帯機の優位性は実際に相性が抜群で、悔しながらにとび森には一時期ドハマリしていたのだった・・・。

とはいっても、どうぶつの森シリーズが今後新作を出すにあたり意識してほしいのは、マインクラフトがもたらした日本におけるサンドボックスゲームの波だと思っていて、どうぶつの森の世界で時間を忘れてずっとハニワを掘り当てたりしたいわけだけど・・・

スマホ版はどんなものになるんだろうか・・・手のひらに収まるコンパクトなどうぶつの森が人々の望んだどうぶつの森という答えを任天堂が出さないことを私は願っているが、Switchの存在が、任天堂を信じられる根拠になる気がしているのである。

Switchがハイブリッド機であることは、これから任天堂が家庭用ゲーム機向けにゲームを作る場合、据置機に出すことと携帯機に出すことの両方を意味する。

このゲームは据置機向けで、このゲームは携帯機向けとか、そういう振り分けはもう意味を持たない。

最近のSwitchに関連するニュースでは、Switchでのインディーゲームの売れ行きが好調というものがある。

VITAでもそうであったように、インディーゲームの品揃えが最も豊富であるPC向けプラットフォームのSteamを差し置いて家庭用ゲーム機でインディーゲームをプレイすることのプレミアとは、ハンドヘルドのスタイルで遊べることにあるのではないか。

私は、家庭用ゲーム機が今後向き合っていかなければならないのはSteamだと思っている。

Steamがあればゲーム機はもう要らない、という意見を耳にすることは年々増えていて、PCの汎用性と拡張性が、ハードメーカーによって環境が固定された家庭用ゲーム機の課題を浮き彫りにしているのは確かだ。

そのような不利な状況において、Steamではなくあえて家庭用ゲーム機でインディーゲームが購入されるという事例は、今後の家庭用ゲームの立ち回りのヒントになるように思う。

現時点では完全に私個人の妄想に過ぎない話として、SIEがSwitchのようなPS4のハイブリッドモデルを展開する可能性もありそうな気がしている。というかアリだろう。

 

・・・あと、書くタイミングを逃してしまったので取ってつけたようになってしまうけど、Switchのプロコンはめちゃくちゃいい。

バッテリーの持ちが凄まじいし、HD振動は技術屋としての任天堂を評価してもいい部分な気がする。

ゲームパッドは家庭用ゲーム機を定義付けるファクターだと思うから、そこが強いのはSwitchのコンソールとしての完成度をかなり底上げするんじゃないだろうか。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・上

8月頃から、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドのマスターモードをプレイしていた。

歴史的大作といえるこの作品のプレイを経て、自分が見てきた家庭用ゲームの変遷について今思う諸々のことを整理する機会にもなりそうなので、私個人のBotWの感想と交えつつ、気が済むまで書いていこうと思う。

尚、前半となるBotWの感想は、BotWをプレイしていないとちんぷんかんぷんな話だと思うので、後半は別の記事として分けることにする。

 

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総プレイ時間はおよそ305時間

 

BotWが発売したのは今年、2017年の3月。

半年以上経ってからまとまった感想を書くのも今更ではあるが、率直に言って、ノーマルモードのBotWはヌル過ぎて全く手応えがなかったことは、まず触れておく。

ゼルダの伝説シリーズにおいて難易度について議論がなされる場合、謎解き要素の難解さにフォーカスされる場合があるが、今回は、主にアクションゲームとしての難易度にフォーカスして話していく。

まぁ、そうとは言っても、8月にマスターモードのプレイに取り掛かり始めて、現在は10月なので、2ヶ月近く間が空いているのは、いずれにしても遅すぎるだろう。

言い訳としては、PSVITAでUNDERTALEを並行してプレイしていたことと、マスターモードを結果的に2周することになったことが理由である。

マスターモードの1周目では、通常のメインルートの全ての神獣を解放した後ガノンを討伐するオーソドックスな攻略と、剣の試練という、過去作からお馴染みである、回復アイテムや消費アイテムの補給を制限されながら、段階的に熾烈さを増していく戦闘を最下層まで続けていくコンテンツの攻略に着手。

剣の試練は、今回、新規コンテンツとして追加されたものなので、ノーマルモードを既にクリアしていながら、マスターモードでまた初めからプレイするにあたっての主目的として据えていた。

その剣の試練の感想はというと・・・及第点・・・といったところか。

序位の攻略に取り掛かり始めたときは、思った以上に手こずりそうな感触で、これは舐めてかかってはいけないと腹を括ったのだけど、このゲームの仕様上、結局のところ、装備が貧弱である程状況が厳しく、装備が豊富である程・・・どうとでもなってしまう。

これは、始まりの台地や、無人島の祠チャレンジでも同じように感じるところであり、剣の試練が特にそうだったかもしれない。

なんやかんやで強力な武器が普通に集まっていってしまうから・・・。

最もミスが多かったのは序位の中盤までで、中位、極位ではほとんどミスすることはなかった。

ガッツ素材やマックス素材は1つの素材からの調理でも完全回復の効果は得られるので、調理法次第で素材活用の効率が良くなるとか、古代兵装・矢は敵を一撃で消滅させるので、ライネルのような最上級の攻撃力とHPを持つ敵に対処する為に備えておけば、危険な敵はローリスクで回避でき、但し敵がドロップする強力な武器は諦めることになるなどといった、プレイヤーの知恵と機転を試す要素があるのは、このゲームの仕様において適切な設計になっていたとは思うけれど・・・

プレイヤーの装備が豊富になってきたところで、備えを全て出し尽くすことも厭わなくなるような、プレイヤーをぶちのめすことしか考えてない階層が幾つかあっても良かった。

メインルートの攻略については最後にまとめて言及するとして、2周目ではどういったプレイをしたかというと、防具を全て完全強化するやりこみプレイに着手した。

ノーマルモードをプレイしているときも、防具強化の要素が1つのやり込み要素なのだろうとは思っていたが、ひたすら素材を集めるのはどう考えても単調な作業になると断じて手を付けなかった。

マスターモードは、全体的なゲームプレイがある程度は手応えのあるものになり単純に楽しかったので、BotWの世界と付き合えるだけ付き合おうという意欲も湧いて、着手することに決めた。

結論から言うと、全防具完全強化のやり込みプレイには満足できた。

個人的に、オープンワールドのゲームプレイにおいて、この世界に付き合えるだけ付き合っていたいとか、この世界の中で振り回されたいという感覚が、最も求めているものかもしれない。

実のところ、私はPS3PS4も所有していながら、近代のオープンワールドのゲームはほとんどプレイしておらず、自分の中でオープンワールドでの有意義な体験として模範となっている体験は、Grand Theft Auto Vice City (PS2)まで遡る。

我ながら原始的過ぎる気もするが、近代のオープンワールドのほんの一地域程度の広さにも満たないかもしれないヴァイス・シティで、ピザ屋のスクーターを乗り回しフリスビーのように客にピザを放り投げ、軍用ヘリを飛ばして一般車両の巻き添えも意に介さず犯罪者の車両を上空からミサイルで吹き飛ばし、攻略サイトを見て主にテキストで在り処が説明される各地の隠しアイテムを見つけては宝探しのような無垢な喜びを感じたりしながら、クリア率100%を目指して東奔西走していた原体験が、今も、シームレスに往来できる立体的なフィールドで自分が時間を過ごす意味として、最も有効に作用するのだ。

また、そういったプレイにおいて重要なのは、やり込みの過程で、その先のやり込みに役立つ報酬があること。

GTAVCではHPの上限が増えたり、炎によるダメージを受けなくなったり、強力な武器や車両がアジトに配備されたりというのが該当する。

BotWでは、防具にセットボーナスというものがあり、頭・胴体・脚部の3種に分かれた防具をそれぞれ一定の段階まで強化することでアンロックされる。

そのセットボーナスが、定量的な効果ではないユニークなものが結構あって、それぞれ適した場面で活用したくなるのだ。

ノーマルモードではほとんど使っていなかったクライムシリーズは、崖登り中ジャンプのスタミナ消費量が少なくなるというセットボーナスで、スタミナ縛りをしていたのもあり、かなり魅力的だった。

後で書こうと思っていたが、2周目ではハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限して攻略していた。

その為、息吹の勇者シリーズマスターソードのビーム強化というセットボーナスは、ハートが3つしかないので必然的にマスターソードは未所持であり、この効果については未確認・・・少々惜しまれる。

他にも、炎無効、雷無効、凍結無効などの若干チート的なセットボーナスは、全体を通してのゲームプレイで、それ程多くはないが厄介な特定のシチュエーションで強気になれる解放感がある上、ドラゴン系の素材集めの際にも作業を非常に捗らせてくれる。

何より、緻密に作り込まれたドラゴンの動き、物量感や躍動感を間近で感じられることは、BotWの世界において純粋にプレミアムな価値があるのだがら、ゲーム的なルールを遵守しているかなど、言ってしまえばどうでもいいのだ。

そもそも私は、3Dの広大なフィールドで、プレイヤーの遊び心が赴くままに遊ばせることを標榜するオープンワールドにおいて、チート・・・ゲームシステム上の制約を逸脱してしまうことに、むしろ肯定的でさえいる。

「できないことが、できるって、最高だ。」という某キャッチコピーなんかはまさにそんなことを言っているように思えて、評価している。少々話が逸れた。

ただ、そういったことが無条件にできてしまうのではなく、報酬としてアンロックされることに個人的には満足感が得られるというのは付け加えておきたい。

メインルートの攻略については、先述したように、2周目でハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限したことからも窺えるだろうが、1周目ではマスターモードでもヌルいと感じた。

というか、ノーマルモードがイージーモードで、マスターモードがノーマルモードなんじゃないかという・・・

たらればの話はしたくないのだけれど、初見時からマスターモードでプレイしていたら、素直にマゾゲーマー心に火が点いていたかもしれない。マスターモードは発売時から実装しておいてほしかった。

その上でハードモードを用意するとしたら、敵の攻撃力やHPを調整するのではなく、属性付きの武器や矢を使用する敵が一層増えるなど、ギミックの面でゲーム性の幅を広げたり・・・この辺にしておこう。

BotWに限らず、近代のビデオゲームにおける難易度について思うことは、今後1つの記事にまとめてもいいかもしれない。

話を戻して、ハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限した場合ではどうだったかというと、それなりに丁度良くなったと思っている。

ハートとスタミナに関しては、マックス素材やガッツ素材のマネジメントがゲームの進行度によって変わっていく楽しさがあると思ったので、最終的には制限する意味はあまり無かったと判断したけれど、ポーチは初期状態のままにしておいたことで緊張感が増して良かった。

BotWは、戦闘時のリアルタイムな武器のマネジメントが非常に有機的で、武器ごとの強さや壊れやすさを常に意識しながら、廃棄のタイミングを見定めつつ高所にいる弓兵などに対する投擲物としての使用、雷属性の武器や矢がある場合はHPの多い上級の敵から強力な武器を強制的に奪えたり、武器を使い切ってしまったとしても必ずしも窮地ではなく、ガードや回避の不自由さと引き換えに、高所から飛び降りながら狙いを定めることで発動するスローモーションの状態で、弱点への連撃が狙えたりなど、場合によっては武器よりも遥かに強力な弓もある。

こうしたリアルタイムのゲーム性を考えれば、武器は常にフィールドとポーチの間を循環するべきであると思った。

この、武器を敵から奪ったり、投げつけたり、取り返されたりする仕様は、初見時からゼルダの伝説風のタクトを彷彿とさせられている。

私はゼルダの伝説シリーズの中で、風のタクトにおけるプレイヤーとフィールドの有機的な関係性が気に入っていて、BotWではその思想が拡張されているように感じている。風タクでやりたかったことに再挑戦しているんだろうなぁ、と。

ブーメラン型の武器や盾サーフィンにもそんなマインドを感じていて、この二つの要素はBotWの中で大好きな要素である。

 

 

次の記事へ続く

かつて家庭用ゲームにおける定番ジャンルとされたJRPGについて

 

個人的な引っ掛かりを解消したいだけの完全な自己満足の内容である為、無遠慮な分析や詮索については、もしこの記事が目について気分を害された方がいたとしたら、予めお詫びしておく。戯言としてスルーしてもらえたらありがたい。

以下、JRPGに縁のないゲームファンとしての、家庭用ゲームとJRPGの関係についての考察及び所感

 

ドラゴンクエストⅪが、初週販売200万本という、近年の家庭用ゲームの国内市場では稀に見る驚異的な好セールスを記録。

ドラクエが名実ともに国民的な老舗シリーズであったからこその結果なのもあるが、まだ大衆は積極的に家庭用ゲームで娯楽を消費し得ると、家庭用ゲーム産業を前向きに評価できる好材料になるのが、今回の結果が業界全体にとって明るい話題になるところ。

 

ゲームファンとしての視点では、求められたものを、求められた形で、求められる場所へ、正しく提供したことが功を奏したのだろうと思っている。

大人になり、ゲームにまとまった時間とコストをかけることが難しい人や、技術的な進歩よりも、変わらないドラクエのセオリーに心を寄せる人には、2Dのドットモードが用意された携帯機の3DS

ゲームはやはり大画面で腰を据えて遊びたいという拘りがある人や、最新の技術の恩恵を受け、今体験できる最もリッチなドラクエを求める人には、最新のゲームエンジンで作り込まれた据置機のPS4

幅広い層をターゲットにしたシリーズとして、現在の家庭用ゲームの状況への包括的な対応は英断と言える。

尚且つ、「いつものドラクエ」の形にもしっかり落とし込んでいる様子。

この正しさが、市場の素直な結果としても表れたのだと思う。

 

ここまで書いておいて、少し言いにくいことだけれど、自分自身はドラゴンクエストというシリーズをⅠ作もプレイした経験はなく、最新作も含めプレイする意志は今のところは持ち合わせていない。

語るべき立場ではないことを承知した上で、この話題について触れるのは、去年辺りからジャンルとしてのJRPGを個人的に観察・研究しているから。

JRPGという呼称に拒否反応を示す声もあるが、誤解を恐れずこの呼称を用いる。

ここで扱う大まかな定義としては、個別のフィールドにアクセスするプラットフォームとしてのワールドマップ

エンカウント制、ターン制バトルなどを基礎的なシステムとしており、その体系的な構造の中で発展・変質したものまでを含める。

 

これまで私は、JRPGに類する作品をプレイした経験はほとんど無いのだが、リアルタイムに家庭用ゲームをプレイしてきたN64からPS2の時代まで、JRPGは家庭用ゲームにおいて主要なジャンルであったことを後に見聞きする。

その流れは私が知らないFCの時代まで遡り、日本における家庭用ゲームの在り方を考える上で、JRPGの文脈は避けて通れないのだと認識した。

また、このジャンルは、PS2の後期以降、評価とセールスいずれの面においても、めぼしい結果を出す作品の不足が指摘されることが多かった印象を持つ。

PS3の時代には、Skyrimなどのオープンワールドの技術を採用した海外製RPG作品の先進的な体験を称える国内外のゲームファンにより、JRPGの様式が引き合いに出され、批判的な論調で語られているのをよく目にした。

個人的にJRPGに対して抱いていた印象としては、「なぜこのジャンルが定番と言われるのだろう」という率直な疑問。

私がビデオゲームという媒体に惹かれるきっかけになった作品はN64スーパーマリオ64だった。

私にとって、ビデオゲームという媒体において、個人の時間を費やす家庭用ゲームのスタンダードな様式は、スーパーマリオ64のような箱庭型の3Dアクションゲームであり、それから7年の月日が経ち、国内のPS2Grand Theft Auto Ⅲが発売されプレイするまでの間にも、自分の認識に齟齬を感じることはなかった。

GTAといえば、今であればオープンワールドのゲームを象徴する代表的な作品に数えられると思うが、オープンワールドという言葉は、それから数年後にインターネットで知る。

当時、日本のメーカーと比べてこの分野の技術開発に積極的であった海外のゲームメーカーが、オープンワールドの技術を採用した作品を相次いで投入し、そのような状況の中で、オープンワールドの技術とは断絶されたジャンルの作品が、ニッチ或いはクラシックとして認識されるのは、当然のこととして受け取っていた。

PS4の時代に入ってからはオープンワールドの技術は一般的になり、国内のメーカーからは、ゼノブレイドクロス,MGSV,FFXVなどが投入され、いずれの作品も海外のメディアやゲームファンからの高い関心を集めた。

今年の初頭に世界中のゲームファンの期待の中、満を持して発売を迎えたゼルダの伝説BotWが、ワールドワイドで大ヒットしたことは記憶に新しく、オープンワールドのゲームとしての完成度は極めて高い評価を受けている。

BotWは、2010年代以降の定番を国内メーカーが提供できることを、日本を含む世界中のゲームファンに知らしめた作品と言える。

 

そんな熱狂の裏で、ペルソナ5という作品が、BotWに匹敵する程の絶大な評価を受けていた。

ペルソナシリーズは王道のJRPGではないのかもしれないが、ゲームデザインの性質は凡そJRPGの文脈で語られるように捉えている。

ここにきて、JRPGが評価され、ゲームファンから熱い視線を集めるということが非常に興味深かった。

ペルソナ5に関しては、クリアには至っていないけれど自分自身もプレイしている。

JRPGのセオリーに則った洗練された様式と、独特な仕組みが上手く調和されたゲームデザインは、自分にとっても新鮮なゲーム体験であり、定番ではないが人々に愛されるJRPGの在り様を見たように思う。

ドラゴンクエストに話を戻す。

ドラクエ11の発売日に、SNSの反応に目を通していて思ったのは、このシリーズには、今現在の国内の一般的なゲームファンとしては高い年齢層のファンが取り分け多く、また、同世代同士で、家庭用ゲームに纏わる思い出を普遍的に共有しているということ。

今では、普段は家庭用ゲームをプレイしなくなっているけれど、ドラクエだけはゲームハードと同時に購入してプレイする・・・

そういった心理を、自分なりに読み取るならば、彼らにとって、個人の時間を費やすに相応する家庭用ゲームの重厚長大なエンターテイメント体験は、ドラクエの様式によってできるゲーム体験そのもの、なのではないかと。

それは更新されるものではなく、何らかが付け加えられるものでもない。

つまり、JRPGの様式は遥か昔に既に完成している、という答えに行き着いた。

現在のオープンワールドの源流たる箱庭型の3Dアクションゲームが家庭用ゲームに登場したとき、それはJRPGとは異なる文脈として始まっていたのだろう。

今現在において定番となったその文脈がまだ存在しない時代、個人の時間を費やすエンターテイメントとしての家庭用ゲームを、JRPGの様式が定義した。

だから、ドラクエと共にその時代のゲームファンが帰ってきて、彼らの知る「家庭用ゲームでできる体験」に一斉に身を投じる。

ドラゴンクエストと並ぶ“国産RPG”シリーズとして、ドラゴンクエストと同等の知名度と歴史を持つFINAL FANTASYシリーズに関しても、家庭用ゲームとJRPGの関係を考察する上で言及すべきだと思うのだが・・・

シリーズの立ち位置を問う条件が複雑な為、いかに言及すべきか少々迷う。

個人的に思う要点にのみ触れると、このシリーズはFINAL FANTASY Xを最後に、JRPGの類型から徐々に離脱していく道を選択しているように見受けられる。

JRPGが家庭用ゲームで定番として成立した境界線も、その時代と重なる。

その選択は、シリーズを通してのファンの望みとは裏腹なわけであるが、飽く迄も、どの時代においても定番として認識される在り方に重きを置いたのだろう。

最新作であるFINAL FANTASY XVにおいては、常に挑戦するFFシリーズとしての矜持を以って、JRPGの類型を完全に捨て去ることを明確に正当化した。

私自身は、国内メーカーが今の時代の定番と言える作品を送り出すことが単純に喜ばしく、FFシリーズの選択を、FFXVの発売前から現在に至るまで支持する立場だが、ペルソナ5ドラクエ11に纏わる反響を見ていて、セオリーを守る正しさも目の当たりにした。

 

いずれにしても

ここ最近は、家庭用ゲームに関する前向きなニュースを聞くことが多くなってきている。

それぞれが、見据えた正しさに向かって滞りなく力を尽くせるようになってきているのだろう。

定番であろうと、クラシックであろうと、何であろうと、それが今正しくあることで、家庭用ゲーム全体があるべき正しい姿に近付いていっている。

そう思う。