長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

ピクミンというゲームが真実であり永遠であることの証明

https://www.nintendo.co.jp/nintendo_news/sp/140718/pikmin/img/main_visual_img02.jpg

 

人生で一番好きなゲーム、ピクミンの話をする。

遠い昔、ショッピングサイトに投稿した拙いレビューの内容を、今も朧げに憶えている。「可愛らしさの皮を被りながら、自然界の残酷さを突きつけてもいる!」みたいな内容だった。その頃の自分に今の自分が同調するには、もう少し深い言及が欲しいけれど、着眼点には深く頷いてやりたい。

「ゲーム熱が飽和した」と言ってからも、このブログの更新は緩やかに継続している。どの記事も、情熱があってこそ書くことができている。しかし、「飽和した」と言ったときの気持ちは変わっていない。ゲームに対する考え方や向き合い方が、今の自分に合わせて変わってきている。

最初に見出した価値への執着心は、「ピクミン4を待っている自分」にだけ残っている。とっくに、ピクミン4さえプレイできたなら、もう何も触らなくたっていいと思っている。この気持ちを書き記すことができるのは、ピクミン4を待っている間だけだ。

 

現在、ピクミンシリーズは、2001年『ピクミン』(GC, Wii),2004年『ピクミン2』(GC, Wii),2013年『ピクミン3』(WiiU),2017年『Hey! ピクミン』(3DS)の4作品が出ている。作品単位での体験として私が執着しているのは『ピクミン2』での体験になるが、シリーズを追うごとに着実に肉付けされていっている世界観とゲームメカニクスについて語り尽くすつもりなので、シリーズ単位で語りながら各作品に言及していく。ヘイピクのことは喋らないかも。

はじめに、ピクミンシリーズの基礎的なゲームメカニクスについて書こうと思うが、『ピクミン』を初めてプレイしたときのことを話していくのがちょうどいい。シリーズ1作目がゲームキューブ向けに発売されたときのあの有名なCMソングが歌う、「運ぶ~戦う~増える~そして食べられる~♪」というのは、シリーズを通して変わらない。それにしても、このCMソングはキャッチーでありつつピクミンのゲームプレイを的確にプレゼンできていて、改めて感心する。

 

 

ピクミンというキャラクターの儚さや切なさも表現しているのが秀逸だ。当時、この曲のCDはやたらとヒットしたが、良いものだと感じる人が多いのは分かる。しかし、大衆向けのCMで流れることを想定しているこの曲は、店頭に並べられたときの顔となるパッケージのデザインなどと同じく、ゲームキューブの電源を入れてコントローラを握ったときに見せる本当の顔を隠す仮面のようなもの。ゲーム中繰り広げられるピクミンと原生生物たちの生々しい命のやり取りの中で、このような優しいメロディも歌声も聞こえはしない。

N64をきっかけにビデオゲームの魅力に取り憑かれた私にとって、その次世代機であり、スマブラどうぶつの森の新作が発売することを知っていたゲームキューブを購入することは、必然的な選択だった。けれど、子ども心に「もっと他にも面白いゲームないかな?」と、マストバイだと思えるソフトが不足しているという感覚からくる飢えを感じていた。多くのゲームファンが新しいハードを購入したり、購入を検討している際に経験しているであろうこういった感覚というのは、2019年現在のハードであるPS4やSwitchに対してもSNSで呟かれていたりするものだが、これは結局のところ、自分の最初の経験を引きずり、視野が狭くなっている状態だと個人的に思っている。

ゲームキューブ向けの新規IPとして生まれた『ピクミン』は例のCMで知り、特に興味は抱いていなかった。興味の無かった『ピクミン』に触ることになったのは、友人の家でのことだった。初めてN64に触ったのも、その友人の家に遊びに訪れたときだったので、彼は私の身近にいるビデオゲームに関するアーリーアダプターとしての役割を担ってくれていたわけだ。彼が友人で良かったと思う。

ゲームコンソールの性能面での競争において、任天堂が最後に積極的に臨んだマシンであるゲームキューブ。その性能を活かすことを想定し、複数のキャラクターの動きを同時に制御するアイデアから一つの作品へとまとめ上げられた『ピクミン』は、純粋に技術的な挑戦に向き合うゲーム会社任天堂を象徴しているシリーズだ。そういった点も、幾つかあるお気に入りの任天堂製作品の中で、私がピクミンシリーズを特別視している理由だと言える。

ピクミン』に初めて触ったときの第一印象は、「これは…蟻だ」だった。原生生物を集団で叩きのめし、仕留めた原生生物の骸を巣であるオニヨンまで集団で運搬し、原生生物の骸がオニヨンに吸収されると、新たなピクミンの芽がオニヨンの頭の先から放出される。原生生物の骸は、ピクミンが繁殖する際の養分となるエサだ。この時点で、だいぶエグいと思った。

まだ自分の目線が地面に近かった頃、地面に空いた小さな穴から続く黒い一筋の列を観察し辿っていくと、腹を天に向けしおらしく脚を畳んだセミがもぞもぞと不自然に動いている。少し遅れて、その動きは既に息絶えているセミ自身によるものではなく、自分たちよりもずっと大きなセミの骸を、複数の蟻が力を合わせて巣まで運んでいるのだと気づく。このセミの骸は蟻のエサになるのだと理解する。

子どもは、昆虫を観察することにより、命の摂理への畏れを知るものだと思う。『ピクミン』のゲームプレイは、全てを受け入れる無垢な意識に深く根ざしたその畏れを、ありのままに呼び起こす。ピクミンは実在しない創作のキャラクターで、原生生物も皆そうだ。ゲームとしてプレイされるために構築された非現実の行為と光景による命の摂理の直喩は、プレイヤーの意識を一直線に核心へ至らせる。

スーパーマリオシリーズとゼルダの伝説シリーズの生みの親として世界的に名を知られるゲームクリエイター宮本茂が、今よりも積極的に開発の前線に立っていた頃に生まれた『ピクミン』には、ゲーム開発において、ゲームメカニクスなどの骨組みを作ってから物語やキャラクター設定を肉付けしていくという氏の思想が色濃く表れている。インタラクティブメディアとして必然的で強固なデザインが、触れる者に必然的な感情を生む。

ゲームメカニクスについてのざっくりとした話はこんなものにしようと思うが、充分なイメージを与える文章になったのだろうか。蟻の話しかしていないのでは…?しかし、それでいい筈。そう、「蟻ゲー」とでも思えばいい。今作った言葉だ。ピクミンが原生生物の骸を運搬しているスクショを貼っておこう。

 

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天敵であるチャッピーの亡骸を10匹の赤ピクミンが運んでいる様子

 

そんな蟻ゲーの『ピクミン』の次作は、3年後の2004年に発売。『ピクミン』から『ピクミン2』になって何が変わったかといったら、ゲームクリアの条件を達成するまでのタイムリミットが廃止されただとか、赤青黄の3種のピクミンに紫ピクミンと白ピクミンが新たに加わっただとか、前作に引き続きストロベリフラワーが担当したCMソングは、ただ各ピクミンの特徴を淡々と述べるだけの面白みのないものになり、あんまりヒットしなかっただとか、そんなことは大して興味は無くて…

私がこれから話そうと思うのは、ピクミンの世界観のこと。ピクミンの世界観については、過去にこのブログでも「我々が普段生活している足下の世界である」と説明しているが、そのように捉えられる描写は、『ピクミン2』以降から積極的に現れている。

第1作目『ピクミン』では、ピクミンシリーズの主人公であるホコタテ星人のキャプテン・オリマーの宇宙船が事故に遭遇し、未知の惑星に不時着。その際に大破し散らばった宇宙船ドルフィン号のパーツを、ピクミンの力を借りて回収していく。『ピクミン2』は、無事に宇宙船の修理に成功し故郷のホコタテ星に帰還したオリマーが、色々あってまたしても未知の惑星にトンボ返りする羽目になるところから始まる。事故に遭って不時着するでもなく、能動的に未知の惑星へと降り立つ『ピクミン2』で回収することになるのは、ホコタテ星において高い価値を持つ「お宝」とされる未知の惑星に存在する様々なモノで…そのモノというのが

 

 

こういったモノなわけである。

このツイート、これをする為だけに買い物中に見かけたこの井村屋ゆであずきの缶詰を買い、ゆであずきが食べたい気分でもないのに結構な内容量で、食べ切るのに一苦労してしまった。

その他の「お宝」も幾つかスクショで紹介しよう。

 

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空になったコーヒーフレッシュの容器

 

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使いかけのクレヨン

 

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ゲームキューブのコントローラのアナログスティック

 

作中で、未知の惑星は「未知の惑星」としてしか言及されず、公式に身長4cm(宇宙服のアンテナ含む)とされているオリマーが遭遇する原生生物は、昆虫 "のような" 生物だけ。「お宝」などは、一貫して我々という存在の「匂わせ」としてのみ登場し、土台は飽くまでも創作から逸脱することはない。

メタな表現に知的なカッコよさを感じて惹かれる捻くれた嗜好だと我ながら思ったりもするが、今現在の技術的な限界の範囲内での写実的な表現や正確な物理演算などにより、現実をそのまま模写することを志向したものよりも、現実ではないが現実と地続きのような錯覚を起こさせるクリエイティブに、私の脳はより核心に迫るリアリティを感じ取る。

誤解を招きそうな流れになったので釘を刺しておくが、ピクミンシリーズの表現は技術的な面においても高水準である。私は、「ハイエンド志向の大作ゲームが追求するフォトリアルな表現がビデオゲームの魅力の本質ではない」だとか、そんな話をしたいのではない。そんな窮屈な話をしても楽しくない。私がビデオゲームに興奮するとき、技術によって夢が拡張している実感は常にある。

VRという完全に新しいエンターテイメントの形として興奮させられた『アストロボット』を除き、既存のビデオゲームの枠組みの中で、そうした実感が伴う興奮を与えられた直近の作品が、以前にこのブログで語っている『The Tomorrow Children』と『ピクミン3』だ。

ピクミン3』は、2013年にWiiU専用タイトルとして発売された。2019年現在はSwitchへと現役の座を明け渡しているWiiUは、一応PS4Xbox Oneと同じ第8世代のコンソールである。2013年は、年末にPS4Xbox Oneが発売され(※日本では翌年に発売)、旧世代向けのタイトルとしても『The Last of US』,『Grand Theft Auto V』という、後に第8世代のコンソール向けに移植されて更に売上を伸ばす作品が発売されたりと、第8世代水準のビデオゲームが一斉に市場に姿を現した時期である。

非常に刺激的で楽しい空気が満ちていたその時期、私にとって『ピクミン3』は紛れもなくその空気の中心にいた。『ピクミン3』は、衝撃的に、感動的に、見たくて堪らなかった美しいビデオゲームの世界を見せてくれた。

 

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ピザが…ピザが完全にピザでしかない。

何らかの甲殻類、その美味しそうなピザに巣食うのやめて~!!!!!ってなる。ちなみにヤツの名前はデメジャコだ。ピザの圧倒的ピザ感に勝るとも劣らない圧倒的何らかの甲殻類感を纏っている。息絶えてひっくり返ると、更に生々しい何らかの甲殻類感を放つ。ていうかまず息絶えてひっくり返るのが生々しい。死に方がそれっぽ過ぎる。それっぽいだけで実在はしないのが、良い…。

このように、ピザは完全にピザだし、何らかの甲殻類は完全に何らかの甲殻類だし、何らかのタコ的な生物が噴き出す泡は周りの風景をそれっぽく写し込んで超綺麗だし、花は花で、雑草は雑草で、アスファルトアスファルトで、水たまりは水たまりで、植木鉢の破片は植木鉢の破片で、理科の授業のときに使う電池と電球が連結された実験セットとか、洗い場のタイルとか、工事現場にある警告色のロープとか、空洞が3つあるコンクリートのブロックとか、マンホールの蓋とか…

挙げた内の幾つかは、実際はピクミンの作中では登場していないものも紛れているかもしれない。多分、全部出てきてたと思うけど。記憶があやふやになるくらい、子どもの頃に目線が近かった足下の世界がそのままあるのだ。宮本茂自身が絵コンテを手がけたピクミンのショートムービーは「足下の世界」のイメージが存分に描かれており、丁度良いので紹介しておこう。非公式なアップロードだと思われるので、削除済みだった場合はWiiUニンテンドーeショップでダウンロードすることで見られる。

 

youtu.be

 

とは言っても、これはゲームを先に触っている立場であるが故の意見だろうけれど、このショートムービーよりもゲームとして触ることができる『ピクミン3』の世界の方が、一層活きた説得力を感じる。ゲームとして創られたピクミンの世界は、ゲームとして触られる必然性と切り離されることはない。

ショートムービーで描かれるピクミンと原生生物のコミカルなやり取りも、CMソングと同様に本当の顔を隠す仮面だ。ゲームとしてのピクミンの世界での命のやり取りは、無感情にそれぞれが生存する為の行動を行使するのみ。ショートムービーはよくできている。しかし、これによってピクミンの世界観を補完させる迄もなく、『ピクミン3』が描くピクミンの世界観は美しく完結されているのである。

ではここから、それほど素晴らしい『ピクミン3』の体験がなぜ、私の中で『ピクミン2』の体験を越えることがなかったのか…という話をしていこう。ここからは、ピクミンのゲームメカニクスについて語れることを全て全て語り尽くす。ピクミンシリーズは、各作品ごとに回収するモノが毎回異なっているわけだが、『ピクミン』が宇宙船のパーツ、『ピクミン2』が未知の惑星に由来するお宝ときて、『ピクミン3』で回収することになるのは…

 

 

こういった果実、フルーツである。

このツイートをする為にこの立派なマンゴーを買ったりとかは、別にしていない。貰ったやつだと思う。特にマンゴーを食べたい気分ではなかったけど、美味しかった。ていうか、ゆであずきのツイートのときにも傍らに添えてるピクミンamiiboのデザイン気に入ってるんだけど、ヘイピクはこのamiiboを販売するきっかけになったところだけ評価できるな。

その他の果実も幾つかスクショで紹介しよう。

 

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キウイフルーツ

 

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ドラゴンフルーツ

 

ピクミン3』では、前2作で主人公だったオリマーに代わり、コッパイ星人のアルフ、ブリトニー、チャーリーの3人が主人公となる。食糧危機に瀕する故郷に栽培可能な果実の種を持ち帰るべく、未知の惑星の果実を回収できるだけ回収するのが3人の任務。そして、ゲームメカニクスの面においても、回収した果実は3人が生き延びるための食糧としての役割を持つ。未知の惑星に降り立つ際に、故郷に帰るのに必要なワープドライブキーというものを紛失してしまい、回収した果実の種を持ち帰るにしても、ワープドライブキーを見つけるまでの間はサバイバルをしなければならない。

この食糧システムにより、『ピクミン2』で一度撤廃された、クリア条件達成までの日数を制限するタイムリミットの要素が復活した。1作目『ピクミン』におけるタイムリミットの要素と異なる点としては、『ピクミン』では30日間と固定されていたのに対し、『ピクミン3』では食糧の備蓄に応じて変動する。備蓄が僅かであるときは早急に果実を回収しなければならないし、備蓄が充分であれば余裕を持って1日ごとの計画を立てることができる。1日に行動できるのは、現実の時間で20分。20分が経過するとピクミンの世界は日没を迎え、夜間は原生生物が活発になり危険なため、翌朝まで上空で待機。そしてまた日没まで行動する…というルーティーンだ。

プレイヤーの計画的な行動を促す、クリア条件達成までのタイムリミットの要素。その有無でいうと、シリーズの中で異端である『ピクミン2』が引き換えに持っていたのは、ダンジョン攻略の要素だ。日没まで行動し、夜間は上空で待機するというルーティーンは『ピクミン2』においても他2作と共通しているが、各フィールドには数多くのお宝が眠る地下洞窟へと侵入できる穴が幾つか存在しており、地下洞窟に入ると時間が経過しなくなる。

お宝を求めて地下洞窟に侵入するということが何を意味するかというと、夜間になると地上に出てくる原生生物たちのねぐらに危険を顧みずに赴くということなので、日没までの地上が安全な内に…も何もないってことだろう。作中では、洞窟の中は時空が歪んでおりどうのこうのと何だか適当な理由付けがされている。この理由付けは、時間が経過しないことの理由付けだけではなく、時空、つまり時間と空間のことを言っていて、洞窟内は空間も変化する。入る度に構造が変化するっていう…要するによくあるランダム生成ダンジョンというやつだ。ランダムに生成されるのはダンジョンの構造と敵の位置で、各ダンジョンの各階層で手に入るお宝は固定されている。

危険を冒してでもとにかくたくさんのお宝を手に入れることが主目的である『ピクミン2』のゲームプレイは、受動的なサバイバルにあたっての計画性ではなく、能動的な探検にあたっての挑戦を促している。地下洞窟の攻略は極めて過酷だ。些細な油断で一瞬でピクミンが大量死する。損害が出ればピクミンを再び繁殖しなければならないが、オニヨンは地下洞窟にはついてこないため、繁殖は時間が経過する地上で行う。しかし、クリア条件達成までの日数の制限はない。リカバリーするための猶予は無限にある。

公平な意見を言うと、このダンジョンの要素は、本来のピクミンのゲームプレイにおいて後付け感があるのは否めなかったりする。『ピクミン3』の制作にあたっては、ピクミンのゲームプレイとしての必然性が重視され、解説動画などでは「段取り」という言葉がキーワードになっている。発売後にDLCによって多数追加されたミッションモードは、本編以上に段取りを突き詰めるゲームプレイにフォーカスしたコンテンツになっている。ていうか…『ピクミン3』は本編よりもミッションモードがメインのコンテンツなんじゃないかと言っていいくらいにミッションモードが充実しているのに対して、本編はその…感じ方は人それぞれなのだけれども、個人的にはボリューム不足だと感じてしまったのだ。

ピクミン3』の追加コンテンツがミッションモードだけで、ストーリーモードの追加要素はもう来ないのだと悟った当時の私はかなり荒れていて、Miiverse宮本茂の投稿にクソリプを付けたり、Twitterでもしばらくの間は宮本茂に対して強い拒否意識を示していた。しかし、そのような態度は公平ではないので、ここで同じことを繰り返すわけにはいかない。

まず、『ピクミン3』の本編が本当にボリューム不足なのかどうかについて考えていくとしよう。私は、ゲームの「完成度」というものを「ビジョンの実現度」だと考えている。それで言うと、『ピクミン3』の完成度は優れた水準にあると思っている。『ピクミン3』という作品がプレイヤーに体験させようとしていることの為に必要な要素は、それぞれが美しく噛み合う形できちんと揃っているということだ。

うん…やはり、他のピクミンシリーズの作品と比べても、ゲームメカニクスの規模はむしろ大きくなっている。各ステージの広さ、役割を分担する操作キャラクターの数、各種ピクミンの差別化など。問題は、不足しているように感じさせてしまう何かがあるということ。

見当はついている。それは、ゲームプレイが快適過ぎることだ。これは難しい問題だ…。『ピクミン3』のゲームプレイはめちゃくちゃ快適である。リモコン+ヌンチャクによるポインティング操作は、あまりにもピクミンの操作に適している。第1作目発売当時よりも発達したAIによってピクミンの隊列は自然にプレイヤーに追従し、事故に遭うピクミンが出ても、すぐさま適切に救出の行動を取ることができる。WiiUゲームパッドに表示されているマップから、3人の操作キャラクターのうち、操作していないキャラクターをオートで移動させることができる。そして、いつでも操作キャラクターを切り替えることができる。至れり尽くせりだ。

こういったことに関する議論は既に海外のフォーラムなどでされていそうだし、ここで下手くそな感じで喋り散らかすのもどうなんだろうと思うが…うーん、ゲームってアプリケーションでもあるというか。例えば、スマホのアプリストアで、電卓のアプリだとか時計のアプリだとかと並んで「ゲームアプリ」が提供されている。アプリは常にアップデートされていて、アップデートの目的は主にそのアプリの「機能」を、より快適に利用できるようにすること。

ゲームアプリも、例に漏れずアップデートされる。でも、ゲームが提供していることって「機能」なのか?と。ゲームが提供しているのは「体験」であって、「機能」の最適化と同じ意味で、何かが無駄だとされて取り除かれたりするのって…どうなんだろう?と。ある種の煩わしさもそのゲームを構成する要素として捉えたら、煩わしさを解消することも、そのゲームの体験を形作る要素の一つが無駄だとされて取り除かれてしまっているとも言える。

当然、ゲームとそれ以外のアプリの分別くらいついていると誰しもが答えるであろう。ゲームにはゲームとして必要なアップデートがあるということを否定しているわけではない。拒絶した覚えもない。しかし、曖昧になってはならない境界が曖昧になってしまうことを、境界を意識することでしか防げない実は危うい状況の認識が、それとなくなおざりにされているんじゃないか?という気がしている。

幸い、この2019年には、こうしたジレンマに打ち克っていると思える作品が出ている。『バイオハザードRE:2』だ。この作品は、ゲームプレイの「ままならなさ」を実現すべきビジョンに意識的に組み込んでいた。原作であるPlayStation専用タイトル『バイオハザード2』のクラシカルな体験を再現したものとだけ言って片付けることもできるけれど、数多くの「不正解」とされている形の上に成り立つ「正解」の形が行き渡っている2019年現在、形としては不格好だとも言えてしまうかもしれない「ままならなさ」あってこそのゲームプレイが、計算された上で美しく実現されていることには、希望の光を見出してしまう。

繰り返すが、『ピクミン3』の完成度、ビジョンの実現度は優れた水準にあると考えている。『ピクミン3』からピクミンシリーズに触れる人であれば、その体験に何かしらの不足を感じるようなことはないだろう。過去作を経験している私の立場では、必然的にシリーズの文脈の中での最適化として捉えることになってしまい、結果として、それが張り合いの無さとして作用してしまった。つまり、相対的な要因なのである。そして、『ピクミン3』を相対的にボリューム不足だと感じる大きな要因は、もう一つある。

ピクミン3』 66個

ピクミン2』 201個

それぞれ、ゲーム中に回収できるモノの合計数である。原生生物の骸も回収物としてカウントしたとすれば、『ピクミン2』では『ピクミン3』の倍近くの原生生物が登場するため更に差が開く。この数字のみを単純に比較するのは決して公平ではない。シリーズの中での異端である『ピクミン2』のゲームプレイと、シリーズの本来の思想に則った『ピクミン3』のゲームプレイでは、回収するモノへのアプローチの意味合いに差がある。

ランダム生成ダンジョンに配置される『ピクミン2』のお宝は、ランダムとは言ってもその法則性は知れている。それに対し、『ピクミン3』のフィールド上に配置されている果実は、全て全く異なる方法で回収することになる。レベルデザインの観点で見れば、手が込んでいるのは『ピクミン3』の方だ。レベルデザインが半自動化されていると、職人的なクリエイティブは弱まってしまう。だが、あえて先に数字を並べた。幾ら公平性を慮り理屈を語ったところで、私の気持ちは『ピクミン2』の圧倒的質量が生んだ深淵に収束される。私にとってはそっちが真実。語りたいのはその真実。

『死にゲー』という言葉がある。ゲーマーは皆死にゲーが好きだろう。好きじゃない人だっているだろうけれど、『デモンズソウル』が死にゲーとしてゲーマーの間で話題になってから10年が経ち、『SEKIRO』がイージーモードの要不要について議論を巻き起こしながらも、プラチナトロフィーの獲得率が7.0%(2019年5月21日時点)になっているくらいには、皆死にゲーが大好きだ。私も好きだ。そして私は、『ピクミン2』が死にゲーだから大好きだ。

「いや、ちょっと待って。死にゲーの定義ってなんだったっけ?」って感じになるだろうと思いながら言ったので死にゲーの定義について言うと、「なんとなく」だ。そんなもの定義しなくていい。少なくともここではしない。こういう死にゲー的バイブスってあるよね!っていう話をしたい。

死にゲーの好きなところは、敵から殺意を感じること。ということは、戦うべき「敵」という因子が存在するゲームであっても、敵からの殺意を感じないゲームもあるっていう話になるんだけど、その違いって何なんだろうか。『ダークソウル』に初めて触ったときから、ずっと考えている。このブログでも、そのことについての考えの言語化を何度か試みており、「古典的だから」とかで納得してるパターンが多い。もう少し踏み込んでみよう。

殺意を感じない方のゲームについては、「こういう遊び方をするゲームですよ」というゲームデザインの主張が強くて、その遊び方が楽しいものとしてデザインされているし、実際にそれなりに楽しいんだけど、敵との関わり合いが予め決められた型の答え合わせをしているみたいになっちゃうとか、単純に敵が脆いだとか、あんまり攻撃してこなくて棒立ちだとか、お客様として接待されてるみたいだとか、そうなのかなー?と思うようなのは浮かんでくるんだけど、核心に近づいていくために考えるのは、多分こっちではない。

ソウルシリーズのディレクターを務める宮崎英孝は、『デモンズソウル』について「どうやって死にゲーとしての難易度調整をしているのか?」と訊ねられ、「していない」と答えたという。(当該記事)この証言は重要である。死にゲーは調整されているものではない。つまり、ゲームを構成する最小単位以外の余分な意図が介在していないということ。敵はその世界にただ存在し、存在しているからには意志がある。出会ったプレイヤーを殺すのだという意志が。その純粋な意志だけが、私がその手に握るコントローラを通じて向き合っていたものだということ。

あとは、それぞれの生物がどのようにプレイヤーを殺そうとするのかさえ表現されていれば、その世界の命の摂理は真実になる。大口を開けて直接捕食したり、鋭い口吻で貫き体液を啜ったり、嘴で啄んだり、粘着質な舌で絡め取ったり…或いは、捕食するでもなく、踏み潰そうとしてきたり、上空から連れ去り隊列とはぐれた場所で解放したり、隊列のピクミンたちに特殊な音を聞かせて指揮系統を撹乱してきたり、ピクミンたちが運ぶモノを横取りしようとしてきたり。それぞれの生物が、ただ純粋にそれぞれの目的を遂行しようとする。

直接的な害のない行動を取る生物がいるのもリアルだ。生物の生態とは、捕食のように直接的な行動を除き、往々にして奇妙に感じるものである。我々人間には人間の生態があり、生きとし生けるものは皆異なる生存戦略で自然界を生き抜いているのだから、我々にとっての常識では理解し難い奇妙な行動として映るのは、当然といえば当然である。そしてほとんどの場合、直接的な害のない行動こそがプレイヤーが予期しない大惨事を引き起こす。むしろ、そういった生物がいるときの方が、最悪なケースの死を意識してイヤな緊張感に包まれる。

ところで、ピクミンシリーズの場合、原生生物たちに襲われるのはピクミンたちであり、プレイヤーが操るオリマーが直接に生命の危機に晒されることはない。「プレイヤーを殺そうとする」という流れからは話が少し食い違ってしまうので補足しておく。

そして、補足ついでに面白い話をしよう。『ピクミン』では、ゲーム中にオリマーが死んだフリをする操作が存在する。オリマーがその場に寝転がってすぐは何も起こらない。ところがしばらくすると、それまでオリマーに追従していたピクミンオリマーを運搬し始める。そのまま様子を見ていると、なんとオリマーがオニヨンに吸収されてしまうのだ。まぁ、つっかえて吸収失敗するというオチの小ネタなのだけれど。任天堂の黒い遊び心にゾクッとする小ネタだ。

ピクミンオリマーと遭遇したそのときから、オリマーがエサになるのを待っている。ゲームが始まった時点から、プレイヤーの分身であるオリマー自身が常に死と隣合わせの状況に置かれていることは、最初に出会った原生生物であるピクミンとの関係性こそが示しているのである。

ピクミン2』における圧倒的な回収物と原生生物の数を正義たらしめている要素として、お宝・生物図鑑に言及しないわけにはいかない。まずは、お宝・生物図鑑を閲覧中に流れるこちらのBGMを聴いてほしい。

 

youtu.be

 

別に聴いたからどうこうってわけでもなく、私がこの曲が好きだから推したいってだけなのだけれど。

この曲に限らず、ピクミンシリーズは音楽も大好きだ。フィールドBGMなどは、我々の目線からのノスタルジーと、異星人であるオリマーの目線からの未知の惑星を探検するスペクタクル感がうまくブレンドされている。

お宝・生物図鑑のBGMに関しては、現在は終了しているクラブニンテンドーのポイント交換特典『NINTENDO SOUND SELECTION VOL.3』に『flora and fauna』という曲名で収録されている。flora and faunaの意味は、科学分野において「動植物」を指す専門用語らしい。ベテランの宇宙船パイロットであるオリマーは、学術的な専門知識に精通している人物としても描写されている。「ピクミン」や「オニヨン」などの名前はオリマーによる命名で、そういった情報は、ゲーム中にオリマーのレポートとして記述されるテキストを読むことで得られる。

お宝・生物図鑑に記録される全ての原生生物とお宝に対しても、オリマーメモとされる記述が添えられる。更に、生物図鑑の方では、オリマーの後輩でありゲテモノグルメ趣味のあるルーイによるグルメレポート、お宝図鑑の方では、人工知能を持つドルフィン初号機による小粋なセールストークなども添えられる。任天堂の制作方針上、世界観の設定がそれ程細かくは定められていないと思われるので、細かいところまで読み込むと矛盾点に気づいてしまったりはするが、キャラクターごとの描写が凝っていて愉快だし、世界観を拡張する要素として良質なものになっている。

異星人・異文明の視点からの「我々という存在の匂わせ」へのアプローチとして、図鑑の各項目ごとでのダイレクトだが決して核心に辿り着くことはない言及というのは、この上なく効果的な演出なのである。彼らは本当のことは何も分からないので、戸惑いながらも想像を巡らせ…

 

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そして、テレビの前にいる我々としては、「いや、ソレはだって…アレだよね」となる。

 

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誰かの入れ歯


フィクションの世界にいる彼らはスレスレまでこちらに接近し、しかし我々に接触することはない。すると我々にとっても、常にスレスレの見えないところに彼らの存在を感じることができる。出会わないからこそ、永遠に。春が、夏が、秋が、冬が、訪れる度にふと地面を見下ろしては、彼らの影を重ねている。生涯、そうしているのだろうと思う。

 

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なんかエモい感じの流れで出てきた割に絵面があんまりエモくないこちらの『ピクミン3』のスクショ、どこかで貼るつもりでいたのだけど、このままいくと終わる感じの流れになっちゃったから、流れを気にせずぶっこんだ。春夏秋冬でうまくかけた気にはなっている。

「春夏秋冬それぞれの季節を感じさせる各ステージで、春夏秋冬それぞれの季節の旬を思わせる果実を一箇所に集めてみた」という趣旨で撮影されたこのスクショ。『ピクミン2』の質量が失われ、ありもしない深淵を求めて虚空を彷徨っていた私の『ピクミン3』のプレイ時間は、300時間を越えている。その果てに辿り着いたのが、名付けて「集めて撮るプレイ」だった。麻痺してるかな…と思ったりもするけど、結構楽しいんだ。これ。ていうか、本当のことを言うと

 

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ガチでやるんなら目指すのはこれだ。

最初は、果実だけを集めてみた。回収して食糧にすべき果実を意図的に回収寸前で放置するということなので、食糧にありつけずにゲームオーバーになってしまうリスクを背負う縛りプレイにはなるわけだけれど、撮影を目指しているステージ以外で果実を回収して補えばいいし、補う為に果実を回収してしまったステージで撮影を目指したい場合も、『ピクミン3』では過去の全ての時点から再開することが可能であるため、どうとでもやり繰りできる。

その程度じゃやる意味が感じられないってことで追加したルールが、原生生物の骸も集めること。このルールが加わると、やらなくてはいけないことが一気に有機的になる。集めるモノが果実だけの場合と大きく変わるのが、果実は回収するまでステージに存在し続けるのに対して、原生生物の骸は一晩またげばステージから消失してしまうこと。よって、果実を先に集めておき、後日、原生生物は1日の内に全てを倒して集めるというのが大まかな工程になる。

制限時間内に目標を達成するという、『ピクミン3』が志向している段取りを極めるゲームプレイである上に、自律的に回収物を運搬するピクミンにギリギリのところで回収を中断させる作業が加わり、目標達成の条件を満たすには、最後のスクショに自分自身が納得できなければならない。張り合いにしても、達成感にしても、この「集めて撮るプレイ」が気に入っている。

「集めて撮るプレイ」を今から始めるとしたら、WiiUのスクショ周りの仕様は残念な感じだし、主観視点でのフォトモードは投稿先兼保存先であるMiiverseが終了してしまったために利用できなくなっているので、Switch版『ピクミン3』の発売が待たれるところだ。WiiUの次世代機というよりも、WiiUの仕切り直し感のあるSwitchに移植されているWiiUタイトルは多いけれど、今のところ『ピクミン3』に順番は回ってきていない。Switchにはいずれ『ピクミン4』が発表されるであろうと私は予想していて、『ピクミン3』の移植版が発売されるとしたら、『ピクミン4』のプロジェクトの動きに合わせて展開される可能性が高いと思っている。

結局のところ、今これを書いている今日の日付は5月21日なわけだが、6月のE3に合わせた任天堂の発表で、ピクミンシリーズに関する発表があるのか?…ということだ。もし発表があったなら、それを受けてまた色々と考えたり思ったりをしてしまうだろうから、E3前までに今書けることは全て書いておきたかった。本当、5月中に書き上げられてよかった…。

任天堂内製ではなく、ゲームデザインの面においても源流とは別の流れである『Hey! ピクミン』を例外として、ピクミンシリーズは長く沈黙している。その沈黙が破られるとき、このゲームが真実であり永遠であることをこうして証明した私にとってそれまでの時間が結果的に深く尊い意義があったように、任天堂にとっても、ピクミンシリーズにとっても、深く尊い意義のある時間だったのだと、そう思えることを切に願っている。

シリーズ未経験だけどバイオハザードRE:2が最高だったので語りたい

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1月25日 『バイオハザードRE:2』発売。 同日プレイ開始。

1月29日 2ndシナリオ(2周目)クリアにつき真ED到達。

2月6日 全87項目のレコード達成。プラチナトロフィー獲得。

 

 ものぐさゆえ、プラチナトロフィーを獲得してから4日も置いて感想を書き始めてしまっているが、シリーズ最初期作品のフルリメイクである『バイオハザードRE:2』(以下、バイオRE:2)のシリーズ未経験者によるまとまった感想というのは、あまり出てきていないような気がするので、需要があるものと思い、モチベーションを上げて書いていくとする。なお、最低限のネタバレへの配慮はするつもりだが、内容を一切伏せた状態でプレイしたい場合は、ネタバレ無しを謳うレビューなどを読むことを推奨する。ここでは、感じたことを感じたままにアウトプットしたいと思っている。

 今回の記事は、少しばかり雑な感じで書いていく。何を以って「雑」なのかと言うと、バイオRE:2は、プレイしていてとにかく「ここがイイ!」という部分が多く、私は、プレイしているときもしていないときも、気付き次第それらを一つ一つメモに書き留めていた。そのメモの内容に加筆しつつ、そのまま載せていこうと思う。反対に、ダメな部分はほぼ無い。言ってしまうが、完璧な作品だ。マンガ形式でお気に入りな部分を再現していくというのも面白そうなのだが、残念ながら絵心を持ち合わせていないので、文章で伝わるよう努める。

 

目次

 

作品の概要とプレイに至る経緯

 では、まず初めに『バイオハザードRE:2』に関する概要と、シリーズ未経験者である私が興味を持った経緯を書いておこう。バイオハザードシリーズ(以下、バイオシリーズ)に関しては、多くの人には紹介するまでもないと思うが、CAPCOMが誇る1996年から続く歴史あるサバイバルホラーゲームシリーズであり、国産のビデオゲーム発のIPとして、ワールドワイドで認知されることに最も成功している一角と言えるだろう。

 CAPCOMは、前作『バイオハザード7』に引き続き、今作『バイオハザードRE:2』の開発にあたって、自社製のハイエンド向けゲーム開発エンジンであるRE ENGINEを使用している。RE ENGINEという名前の「RE」の部分は、幾つかの意味がかかっていそうだが、その内の一つは、バイオシリーズの英語圏向けシリーズ名である『Resident Evil』の頭文字からきていると思われる。

 国内向け『バイオハザード7』の副題がレジデント・イービルであることや、『バイオハザードRE:2』で「RE」を強調していることからも、CAPCOMが、バイオハザードもといResident Evilシリーズを自社製ハイエンド向けビデオゲーム製品の中核に据えていることがうかがえる。CAPCOMといえば、昨年は『モンスターハンター:ワールド』によって、ワールドワイドでの目覚ましい成功を収めているが、今年の『バイオハザードRE:2』も負けずと劣らない程に気合いが入っているのは、私自身がプレイを通して確認している。『バイオハザードRE:2』は、今世代において最高水準のリッチなクオリティでありながら、ゲームとしての完成度も素晴らしい仕上がりになっている。

 私は、1998年にPlayStation向けに発売されたオリジナルの『バイオハザード2』(以下、バイオ2)をプレイしていないので、バイオRE:2のゲームとしての完成度の高さのどこまでがオリジナルによる部分なのかは計りかねるけれど、バイオRE:2のゲームプレイは良い意味で古典的であり、それが21年前の古典と言える作品のリメイクである為だということは、少なくとも明白であるように思う。

 CAPCOMは、バイオシリーズ作品のパッケージに毎回「サバイバルホラー」と銘打っている。しかし、近代のバイオシリーズ作品においては、ジワジワと迫り来るゾンビが登場しなかったり、強力な近接攻撃によってアクションゲームとしての爽快感が向上した一方で、敵の脅威が薄れてしまったりと、「元のサバイバルホラーとしての思想がブレてしまっているのではないか?」という少なからぬシリーズファンからの指摘に晒されているのは、私も把握していた。

 バイオRE:2では、全編に渡ってゾンビが主な脅威であり、近接攻撃の類は、耐久値が有限であるナイフによる切りつけのアクション1種のみとなる。ナイフはサブウェポンという分類であり、サブウェポンは、ゾンビの組み付きやボスの掴み攻撃へのカウンターとしての用途があるが、サブウェポンについては後に詳しく書こうと思う。そのナイフを含め、ハンドガン、ハンドガンの弾と、ゾンビに対抗する為の武器も全て、ゲーム開始時点では僅か8枠しかないインベントリ(ゲームの進行に伴い、バックパックを手に入れることで2枠ずつ拡張していく)を圧迫するアイテムである。更に、回復アイテムまで欲張って持ち運ぼうものなら、今挙げたアイテムだけでも、インベントリの半分を埋めてしまうことになり、攻略の鍵となるキーアイテムの回収はスムーズには進行せず、ジリ貧に陥る緊張感が強まっていくのである。

 斯くして、バイオハザードが世の中に生まれたとき、バイオハザードサバイバルホラーたらしめていた要素は再び見直され、原点に立ち返ることとなったわけだ。原点から遠ざかっていた頃のバイオハザードの在り方を支持するシリーズファンだっているだろうし、その声を差し置いてにわかの私が「これがバイオハザードのあるべき姿」と言ったりするような気はないが、バイオRE:2がサバイバルホラーゲームとしてとてつもなく美しいことは確実であり、バイオRE:2の開発者たちも、2019年現在において、1998年と同様にサバイバルホラーゲームの思想がこれ程までに過不足なく成り立った事実から、今後のバイオシリーズの展開にあたっての天啓を得られているのではないかと思う。

 私が、バイオRE:2に興味を惹かれ、購入することに決めた理由は、製品版の発売日直前に配信された1-Shot Demoと銘打たれた体験版をプレイしたことである。モダンで快適なゲームプレイ、過不足ないゲームシステム、美しいゲームバランスを、僅か30分のプレイ時間でも充分に感じ取ることができた。それ以外の理由としては、2018年のE3で発表及びデモが出展された際のメディアによるプレイリポートが好感触であることを報せていたことだろう。プレイヤーキャラクターの機動性が良い具合に制限されているというリポートが、心に引っかかったことを覚えている。

 それでは、傑作『バイオハザードRE:2』の "お気に入り" な部分を書いていくとする。

 

シンプルなUIと便利なマップ

 バイオRE:2のUIは、とてもシンプルだ。メニューを開くと3つのタブがある。1つめはインベントリ(持ち物画面)。初期状態だと、マスが8つ並んでいる。基本的にはアイテム1つにつき1マスを占め、強力な武器や一部のキーアイテムは2マスを占める。銃弾、手榴弾、閃光手榴弾に限り、同一のアイテムが1つのマスにまとめられる。回復アイテムはまとめられない辺りが絶妙なゲームバランスだ。

 回復アイテムに言及したので、付け加えて話そう。プレイヤーキャラクターの体力の状態は、FINE>CAUTION>DANGERの3段階で、言ってみればスーパーマリオギャラクシーでマリオが3回連続でダメージを受けたらミスになるのと同じだ。実にシンプルである。しかし、バイオRE:2が面白いのはダメージを受ける条件。ゾンビは、打撃攻撃などはしてこずに、一度組み付いてからガブッと噛み付くことでダメージを与えてくる。組み付かれたときにサブウェポンを装備していれば被ダメを免れることができるので、銃が弾切れだったりする場合にはあえて組み付かれ、サブウェポンを消費して組み付きから逃れることで、その場をやり過ごしたりということもある。

 2つめのタブはマップ。全体的にプレイヤーを甘やかす気のない本作において、マップはとことんプレイヤーの味方であると言っていい。探索して取得する必要があるが、どのマップも容易且つ安全に取得できるような場所に置いてある。意識せずに近くを通過するくらいであっても、一度接近したアイテムは律儀にマップにアイコンが示され、そういった未取得のアイテムがあったり、解いていないギミックがある探索未完了エリアは赤く、探索が完了したエリアは青く表示される。このマップの無駄なく親切な仕様のおかげで、ゲームプレイの主要部分にあたる探索が非常に快適になっている。

 3つめのタブは、ギミックのヒントになるファイルなどが保管されるタブ。エリア内で一度読んだファイルは自動的に回収され、このタブでいつでも読み返すことができる。あとは特筆すべきことはない。紙を触ってる感じのSEが気持ちいい。

 

全てのアイテムを「調べる」ことができる

 バイオRE:2に登場する全てのアイテムは、「調べる」ことができる。インベントリを開き、アイテムにカーソルを合わせて決定ボタンを押すと表示されるコマンドの先頭にある「調べる」を選択すると、そのアイテムのハイクオリティな3Dモデルを左右のアナログスティックでグリグリと回したり、ズームイン/アウトしながら観察することができるのだ。スカイリムとかでできるやつ。できたっけ?確かできた。こういうの、ゲームのリアリズムを押し上げる要素でしかないから肯定以外することないと思う。

 しかも、単にフィギュアのように鑑賞できてエモいねとかそれだけの話ではない。一部のアイテムには、「調べる」による3Dモデルの観察からのインタラクションがある。裏側にあるボタンを見つけて押すと、分離して別のアイテムになったり、車のキーの解錠ボタンを屋内で押しても何も起こらないけど、駐車場にいるときに押すと、どこからか解錠された音が響き渡ったり。特にイイのが箱系のアイテムだ。「調べる」からグリグリと回し始めると、コトコトッと箱の中に何かが入っている音がするのである。そして、箱を開けると中から別のアイテムが。回りくどいと言えば回りくどいけれど、それ程しつこく出てくるものでもないし、めちゃくちゃクールだと思った。

 

 敵の亡骸がその場に残る

 倒した敵の亡骸が消滅するのか、その場に残るのかというのは、他のアクションゲームでも話題に挙がることがあるだろう。多くの場合は、亡骸を消滅させるのはゲームの処理を軽減するためだと思われるので、単に、それぞれの作品の技術的水準の問題に帰結すると思うが、バイオRE:2において亡骸が残るのは、RE ENGINEの技術的水準が高いというだけのことではない。ゲーム的に大きな意味がある。バイオRE:2のゾンビたちは、「死んだフリ」をしてプレイヤーの裏をかいてくる。これは、何よりもゾンビだからこそ有効な手口だ。体中が損傷及び腐敗しており、到底生きている人間の姿ではないゾンビは、もとより視覚的に生死が不明瞭であるため、亡骸が残ることは、目を離した隙に再び起き上がり、背後から忍び寄ってくるかもしれないというプレッシャーをプレイヤーに与える。

 バイオRE:2のゾンビは大変しぶとい。華麗なヘッドショットを決めれば一発で倒せるだなんて、他のFPSやTPSでの常識は通用しない。ごく稀にクリティカルエフェクトが発生し、一発で倒せることもあるが、本当に "ごく稀" だ。けれど、しぶとくて生死が不明瞭なだけで、死ぬときはちゃんと死んでくれる。完全に死んだことを確認したゾンビがランダムで生き返ったりだとか、そういう理不尽なことは起こらない。動かなくなったゾンビが再び動き出すのは、プレイヤーの詰めが甘かったとき。厳しくもありながら、しょうもない嘘をつかずにまっすぐ向き合ってくれる正直なゲームなのである。

 また、生きている状態の敵も死んでいる状態の敵も、全てがその場に残るということに伴い、敵が湧く(リスポーンする)という現象は起こらない。この点を含めても、リアリズムに則っている仕様として気に入っているのだが、「開いている窓から屋外にいるゾンビが侵入してくる」という形で、一度は全ての敵を排除したエリアに、新たに敵が現れることがある。そうした事態を未然に防ぐには、とあるアイテムが必要になってくるのだけど…それをいちいち説明してこないのもイイ。いや、説明されたのかもしれない。でも説明してたとしても物凄くさり気ない感じの説明。チュートリアルがウザくない。イイ。

 

ゾンビがドアを開けて入ってくる

 サバイバル "ホラー" ゲームであるバイオRE:2をプレイしているとき、私には緊張感はあっても恐怖感はほとんど無かった。単純に、個人的にはホラーというと心霊の方に反応するタイプなので、自我を失ったクリーチャーと化したゾンビをあまり不気味には感じない。ゾンビ映画を見たときにも、感じるのは絶望や悲しみの方。絶望や悲しみでいうと、ゲーム作品で巧かったのはラストオブアスだったりするが、それは置いといて。ホラーに焦点を当てると、ゾンビをやり過ごして扉を挟んだ別の部屋に移動したとき、ゾンビが扉を何度か叩いて侵入してくるときには不気味さを感じた。サウンドのクオリティが高品質であることも大いに関係しているだろう。ドアを、バンッ…バンッ…と叩く音に「お前を追っている」という脅威の生々しさが宿っている。ゾンビ自体は視界に入っていないからこそ、ドアを叩いている音だけが想像を掻き立てるこの演出は、ホラーを分かっているな…と思う。

 

ゾンビがプレイヤーに与える作用のバリエーション

 引き続きゾンビの話。バイオRE:2において、全編に渡って主な脅威となるゾンビとの戦闘は、単調にならないよう有機的に設計されている。ゾンビの四肢にはそれぞれ独立したダメージ判定があり、破壊することが可能だ。腕を壊せば組み付かれる危険性を下げることができ、足を壊せば這って移動するようになるため、やり過ごしやすくなる。ハンドガンのような威力の低い銃でヘッドショットを決めても即死は期待できないとなると、戦略的に立ち回るには四肢への攻撃が非常に重要になってくる。

 ゾンビは打撃攻撃などはせずに、組み付いてから噛み付くことでダメージを与えてくるので、あえて組み付かれるという立ち回りがあることを上で述べた。ところが、複数のゾンビが固まっているときにその選択をするのは危険だ。1体のゾンビが組み付いてきたとき、近くにいるもう1体のゾンビが加わってくることがあり、そうなると力ずくで押し倒されてしまいカウンターすることができなくなる上、2体に同時に噛みつかれることになるため、2回分のダメージを受けてしまう。調子に乗ってCAUTION状態のまま回復をおざなりにしていたなら、そのままゲームオーバーだ。

 ショットガンはハンドガンよりは威力が高く、標的との距離が近い場合には、ヘッドショットによる即死も期待できる。しかし、即死したゾンビはプレイヤーの方に倒れ込んできて、一瞬、行動の自由を奪われるのだ。ゲーム的に意味があって面白いのは勿論だし、ゾンビが登場する作品のディテールとして素晴らしい。こういった場面は、ゾンビ映画でもよく見かけるシーンだろう。ゾンビの表現にこだわっていなければ、こういった演出は出てこない。

 

リッカーとタイラント

 数の多いザコ敵であるゾンビに対し、強モブに位置づくリッカー。この記事のアイキャッチ画像も、リッカーの姿を収めたスクショだ。凄まじい容貌である。リッカーは、本作における緊張感のピークとでも言おうか。視覚が退化しているという設定なので、遭遇しただけではこちらには気付かず、発砲するか、走るか、至近距離まで接近することで、耳をつんざく絶叫と共に物凄い速さで駆け出し、鋭い爪を振り下ろして襲いかかってくる。特徴からして、適切な対処法はやり過ごすことに限ると思うのだけど、Twitterにてツイート検索バーに「リッカー」と入力したら、「強い」などとサジェストが出てきたときには、倒そうとするプレイヤーがいることに正気を疑ったものだ。

 私はもう…少しでも声を漏らせば、自分が死ぬくらいの気持ちでリッカーの横を通り過ぎていた。気付かれたときの叫び声と焦燥感に満ち満ちたBGMには、呼吸の仕方を一瞬忘れさせられる。私にとって、「死」の匂いを感じさせる作品は、非常に強く心に刻まれる。『DARK SOULS』と『ピクミン2』がそうだ。ここまでもバイオRE:2の素晴らしさを語ってきたけれど、この2作と同じ匂いを放つとなると、私が本作を傑作とするには決定的である。

 タイラントは、特定のフラグを回収すると、のっしのっしと大きな足音をたてながら、プレイヤーをどこまでも追跡してくる黒いコートを着た大男。倒すことは不可能で、近くまで来ると殴ってくるので逃げ続けなければならない。Twitterでよく出回っているバイオRE:2の動画はタイラント関連のものが多い印象がある。そういったものを見かけていれば、未プレイの人でもタイラントのイメージは大体掴めているかもしれない。

 そういった動画の中には、タイラントが入ってこられないセーフエリアからタイラントを茶化すように遊んでいる動画がある。タイラントは、ゲーム中で最も厄介な敵なのは間違いないが、タイラントに対処する上で、プレイヤーに有利な仕様がそれなりにあるのが、本作のバランス調整が非常に優れているところだ。1つは、(なぜか)タイラントが入ってこられないセーフエリア。そして、メニューを開いたり、エリア内のギミックにインタラクトしている最中に時間が止まる仕様。「タイラントがそこまで迫ってるのに、何ひと息ついてパズル解いてんねん」と、思わずツッコみたくなってしまう。

 ゲームの仕様を利用するこのズルい感じは、とても昔のゲームっぽくて好きだ。こういうのは、リアリズムを追究して切り捨てたりしなくともよい「ゲームくささ」、「ゲーム的な嘘」だと思う。世界中のゲームファンが、かつてそうしていたように、再び無邪気にキャーキャーとはしゃぎながらタイラントと戯れているのは、なんとも微笑ましいことである。プレイヤーがゲームを楽しむ為の巧みな「嘘」をも含め、バイオRE:2がただ良いゲームでしかないからこそ、タイラントは人気者になっているのだと思う。

 

サブウェポンと豆腐Survivor

 サブウェポンに該当するアイテムは、ナイフ、手榴弾、閃光手榴弾の3種。サブウェポンを装備していると、ゾンビに組み付かれたときやボスに掴まれたときにカウンター攻撃を発動し、装備していたサブウェポンを消費する代わりに被ダメを免れることができる。ナイフの場合は耐久値が残っていれば、カウンター攻撃を受けナイフが刺さった状態の敵を倒すと、回収し再利用することができる。但し、ゾンビの組み付きに関しては、カウンター攻撃を発動できるのは向かい合った状態で組み付かれたときに限られる。

 本編においては、何だかんだ要所要所で強力な武器を取得できるので、普通に攻略している場合は、それらの武器を主力として立ち回り、サブウェポンにがっつりと頼る必要に迫られるような場面は少なくなる。けれども、サブウェポンについて上で解説した内容を踏まえると、戦略的に運用できるポテンシャルがある。そのポテンシャルにスポットライトを当てているのが、本編クリア後に追加されるおまけモードである豆腐Survivorだ。

 豆腐とかいう場違いな単語が出てくる時点で、ジョークコンテンツであることは推察できるだろう。その通りであり、本編クリア後にまず追加されるのは4th Survivorというモードで、主人公はハンクという普通の人間だ。4th Survivorをクリアすることで出現する豆腐Survivorは、ハンクのキャラモデルが(なぜか)RE ENGINEによって質感がリッチに表現された木綿豆腐となり、所持しているアイテムもハンクとは別になっている。そのアイテムが、インベントリいっぱいのナイフというわけだ。

 豆腐Survivorを開始したプレイヤーはまず「えっ、ゾンビ倒せなくね?」と思うことだろう。しかし、豆腐Survivorは4th Survivorとルールは同じであり、クリア条件はゴール地点に生きて辿り着くこと。敵を1体も倒さずとも、クリア条件を満たすことは不可能ではない。本作における「サバイバル」の定義を効率的に生き残ることとしたなら、豆腐Survivorはまさしくそれを体現している。そして、豆腐Survivorをクリアすると出現するこんにゃくだのプリンだのその他諸々の加工食品たちがハンクと置き換えられるモードも、例によって所持しているアイテムがそれぞれ異なっており、それらを全てクリアする頃には、やがて挑むことになる本編のタイムアタックの予習がばっちり完了するのだ。

 

やり込みプレイが楽しい

 「やり込みプレイ」という概念はゲームファンにとって普遍的なものだが、多様化し、複雑化し、大規模化した今日のビデオゲームは、「やり込みプレイ」という概念の認知をゲームファンに与えた頃のビデオゲームの姿とは、そっくりそのままには合致しない事実がある。それが嘆かわしいことであるのか、然るべき発展の結果であるのかはさておき。古典である『バイオハザード2』が現代に生まれ変わった姿である『バイオハザードRE:2』には、「やり込みプレイ」という概念が生まれた頃に親しい精神が息づいている。

 バイオRE:2にはゲーム内レコードというものがあり、簡単に言えば、ゲーム内にトロフィーや実績があるような感じだ。トロフィーや実績と違うのは、純粋にゲームに組み込まれているからこそできる報酬の要素。報酬の内容は、コンセプトアート、キャラクターやクリーチャーの3Dモデルを鑑賞できるフィギュア、本編で使用できるボーナス武器。多くのプレイヤーは、最も達成難度が高いレコードの報酬である無限ロケランと無限ミニガンというご褒美に最終的にありつくと思われる。そんなものを使えば言うまでもなくゲームバランスは崩壊するので、本来のゲーム性は彼方へと消え去るが、それまでルールに従って頑張ってきたからこそ、最後の最後にヒャッハーして暴れる解放感は極上なのである。美学だ。これは。

 それから、ここまで称賛と肯定しかしてこなかったが、バイオRE:2のネガティブに受け取られることもある部分に、ここで言及しておこう。レオンとクレアという2人の主人公それぞれのシナリオをクリアすることで、真のEDに到達することができるというゲーム内容について、オリジナルにおいてはザッピングシステムという要素があったのに対し、RE:2ではそのシステムが採用されていなかったため、1stシナリオと2ndシナリオをそれぞれプレイする必然性が薄まっているという指摘がある。

 そこに関しては、確かにツッコミどころであるようには思う。シナリオが違うので登場するサブキャラクターが違ったり、レオン編1st、クレア編2nd、クレア編1st、レオン編2ndという4つのシナリオごとに、それぞれ行けるエリアと行けないエリアがあったり、一部のボス戦が異なっていたり…その他にも細かい差異があって、差異のつけ方も巧みなので、個人的には飽きるということは全くなかったが、あまり自然ではない形で被っているところは被っており、完全に別のシナリオではなく、良く言えばパラレルな内容になっている。

 シナリオ面の必然性の薄さについては同意するところはあるが、シナリオに限らず、やり込みプレイも含めて、全体的に周回プレイを前提にした設計を意図しているという認識が落とし所だと思っている。全てのレコードの達成を目指すとなると、2周や3周どころではない回数の周回プレイを行うことになる。最後の戦いは、何度プレイしても気持ちが昂ぶったし、戦いが終わり、シン…と静まり返った中で表示されるリザルトが、目的のクリアランクに達していたときの達成感は、嬉し泣きしてしまいそうな程に心地いいものだった。

 

酔わない

 最後に、これもさり気なく書いとこう…。個人差のあることだから評価の指標にするには適切ではないのだけど、一瞬たりとも酔わなかったことにかなりの好感を抱いている。同じ肩越し視点のTPSであるラスアスは物凄く酔ったのに。自分が3D酔いするときのメカニズムは本当に分からないんだけど、なんか日本製のゲームは私みたいなタイプが酔わないように作ってくれている信頼感がある。この信頼感、今後も保たせてくれたら個人的に嬉しい。

有機的なゲームプレイとは

 

 現在、12月8日に発売した『ドラゴンクエストビルダーズ2』をPS4でプレイしている。進行状況としては、メインストーリーが展開する2つ目の島の攻略に差し掛かったところ。前作でいったら第二章に入ったところだ。今作のゲーム進行の構成をざっくり言うと、ストーリーの開始地点であり、主人公が全編を通して開拓していく「からっぽ島」というエリアが、前作でいうフリービルドモードの位置付けで、第一章のストーリーが展開するエリア、第二章のストーリーが展開するエリアへと、船で海を渡って移動する。船で移動するとは言っても、オープンワールド形式でマップがシームレスに繋がっているというようなわけではなく、その都度ロードを挟んで別のエリアを読み込む形式だ。マップが全て繋がっているわけではないものの、ゲームプレイが一繋がりになるよう統合されたのは良い変更だ。ビルダーズのストーリーモードは、前作と今作のいずれにおいても、農業に適したエリアでは農業のチュートリアル、鉱石の採掘に適したエリアでは採掘のチュートリアルの意味合いがある。それぞれの島で覚えたこと、出会った人、手に入れた資源を、からっぽ島という拠点に持ち帰り、主体的に村や街を作っていくという流れが、今作ではより必然性のあるものになっている。

 ビルダーズ2についての感想としては、現時点ではこれくらいになる。今回は、ビルダーズ2の話をするにあたって、昔考えていた「優れたゲームとはどんなゲームか」という持論について、このブログで整理していきたいと思う。その持論を語っていく上で、ビルダーズ2は丁度良い。持論がおおよそ完成したのは、おそらく『Minecraft』をプレイした後だ。マイクラをプレイする以前だったとしても、まさに望んでいた通りのゲームだったのがマイクラであり、故に、マイクラTwitterにて挙げた #私を構成した9本 に含まれている。この先も外れることはないだろう。

 マイクラを、ひいてはマイクラをはじめとするサンドボックスというジャンルを、最も優れたジャンルだと、一時期本気で考えていた。省みるような言い方をした理由は、私がずっとゲームに求め続けていた欲求は、マイクラや、同じく #私を構成した9本 に含めている『The Tomorrow Children』に触れたことにより、とうとうダイレクトに満たされたので、そこから先は、ゲームに対する考え方をアップデートする意志を込めて、かつて出来上がった持論には意識的にこだわっていないためだ。だが、間違いなくゲームに対する考え方の固く大きなベースにはなっているので、整理する意義はある。

 サンドボックスのゲームであるということが、前作『ドラゴンクエストビルダーズ』をプレイしようと思った動機であり(ちなみに、本家のドラゴンクエストシリーズは1作もプレイしたことはない)、今作『ドラゴンクエストビルダーズ2』を現時点で高く評価しているのも、私の考えるサンドボックスゲームとしての理想的な水準を概ね満たしているからだ。それは、私の考える優れたゲームについての持論に適っているということにもなると思う。

 少々もったいぶりながらここまで話してきた持論とやらの内容については、既にタイトルに書いてある「有機的なゲームプレイ」がキーワードになる。有機的とは、多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っているさま(コトバンクより)のことだ。この言葉の説明だけで充分な気がする。あえてマイクラは後回しにするとして、私がゲーム性を高く評価している幾つかの優れたゲームプレイが、いかに有機的であるかを話していこう。多くの部分が集まって構成される一つの「全体」がゲームプレイで、構成要素となる「因子」は、ゲーム内でのプレイヤーの行為に意味を持たせるもの。

 『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』は、3日間というゲーム内の時間経過に意味がある。ムジュラの仮面の世界において、プレイヤーはゲーム全編を通し、4日目の世界でゲームプレイすることはない。また、3日目の時点から2日前に戻ることはできるが、更に前の日に戻ることはない。例えば、今これを書いている2018年の12月29日から、2018年の12月31日の間をループし続けて、ずっと年を越すことがないような状態だ。ゲーム内で時間が経過するというだけなら、他のゲームにだってそれっぽい要素はありふれている。しかし、ただゲームの世界に昼夜の概念を取り入れているだけなら、一定時間ごとにフィールドの明るさが変わるように演出しているに過ぎない。世界が「祭りの準備に浮かれている朝」だから起こる出来事も、「迫り来る滅びをただ受け入れるしかない夜」だから起こる出来事も無く、無為にフィールドの明るさが変わっているに過ぎない。ムジュラの世界の3日間には、常に、その日その時だから起こる出来事がある。時間に意味があるとはそういうこと。この3日間という時間は、ゲーム全編を通してプレイヤーに関わり続けている。プレイヤーがゲーム内で起こす行動全てが、3日間をいかに有意に過ごすのかという働きかけになっている。

 『DARK SOULS』は、プレイヤーキャラクターの死に意味がある。ここでは、有機的なゲームプレイとはまた別で考えていた、ゲームオーバーという概念について思うことを話していこう。戦闘の要素があるゲームは数多い。ビデオゲーム過半数はそうだと言ってもいい筈だ。それに伴い、プレイヤーキャラクターを襲う敵キャラクターというものが存在し、プレイヤーキャラクターが敵キャラクターの攻撃によって一定のダメージ判定を受けると、プレイヤーキャラクターは行動不能となり、プレイヤーはゲームプレイをやり直すことになる。この「やり直し」は、今日ではコンティニューだとかリトライだとかリスタートだとか、その全部が違う意味合いでゲームシステムに取り入れられていたりとかするわけだが、元を辿ると、1コイン1プレイのアーケードゲームを求めてゲームセンターにゲームをプレイしに訪れていた時代、プレイヤーキャラクターが一定のダメージを受けて行動不能になった時点で1コイン分のゲームプレイは終了であり、そのことをゲームオーバーと呼んでいた。やり直しは、もう一度コインを投入すること。コインを投入する度に、スタート画面というゲートから「いらっしゃいませ」と迎え入れられる。初期の家庭用ゲームは、そういったアーケードゲームが家庭でプレイできるようになったという流れであり、本来はコインを投入するごとにゲームスタートであったところが、コインを投入しなくとも何度でもゲームスタートできるようになったということになる。「いらっしゃいませ」も何もない。この時点で、1コイン1プレイを想定したゲームデザインに付随するゲームオーバーという概念は形骸化しているのだと考えた。

 家庭用ゲームがビデオゲームのメインストリームへと発展していく流れで、1プレイが長大なRPGというジャンルが家庭にビデオゲームが持ち込まれたことで切り拓かれた新たな体験として世の中に受け入れられ、同時に、ゲームプレイの進行状況を保存・セーブするという概念がゲームシステムに取り入れられ始めた。であれば、形骸化したゲームオーバーという概念の呪縛から、ビデオゲームは解放されたのかというと…どうだろう。少なくとも、私が家庭用ゲームでプレイしてきた多くのゲームは、ゲームオーバーはゲームオーバーとして通例通りに取り入れられていたと思う。ゲームプレイにメリハリをつけるペナルティなんて言っても、その罰を与える必然性について作り手はどこまで踏み込んで考えたのだろう。RPGを標榜する作品に限らずに、一般的な家庭用ゲームはセーブシステムがあることを前提にしてゲームプレイが長大になっていく。そのような状況において、ゲームオーバーというゲームプレイの一時的な停滞は、単なるストレス以外の意味を提示できない例が多かったのではないかと思う。

 DARK SOULSを初めてプレイした2011年から7年の間にも多くのゲームをプレイしてきているので、今では、DARK SOULSだけがそうだったわけじゃないかもしれないと思うし、DARK SOULSのゲームプレイが優れている理由はそこだけではないと思うが、当時、あらゆる面でゲームの楽しさの本質を多くのゲーマーに思い出させたDARK SOULSはやはり、プレイヤーキャラクターが死に、チェックポイントである篝火から再出発するという一連の流れにも確かな意味を持たせていた。死に意味があるから、プレイヤーはDARK SOULSのゲームプレイにおける死を強く意識し、敵キャラクターの殺意も強く意識する。死ぬかもしれない脅威と、死んでしまった場合のリカバリーに常に働きかけ続けている。あらゆるゲームで、 "ちゃんと" 殺意を感じたいという気持ちは今も強くある…。

 最も好きなゲームである『ピクミン2』も優れたゲームプレイの例として挙げたいところだが、ピクミン2については、一つの記事で話そうかと思っている。今私が「最高」とまで言うゲームは全て、有機的なゲームプレイの理論の根拠になっている。『The Tomorrow Children』にしてもそうだ。それぞれ、どういった因子に意味があるのかだけ書いておこう。ピクミン2は、プレイヤーがリアルタイムに制御・管理する「群れ」と、その群れが関わり合う「生態系」に意味がある。TTCは、オンラインを通じて複数のプレイヤーによって形成される「社会」に意味がある。TTCの方は既に一つの記事で話しているのでリンクを貼っておく。

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 まさに望んでいた通りのゲームだと言った『Minecraft』は、本当に「有機的」の言葉の説明のままだ。 "多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っている" 。森、山、川、洞穴を構成するブロック状のマテリアルの全てが、プレイヤーが新たに何らかを生み出す為の資源になっている。プレイヤーが必要な資源をフィールド…の役割を為す無数のブロック状のマテリアルの集合体から採集する度に、世界は形を変える。世界の全てにプレイヤーは干渉できる。マイクラでは、「武器が無いならそこに飾ってある武器使おうよ」と思ったら「これはオブジェクトという名の飾りであって実質的には武器ではありません」とか、「爆弾とかハンマーとかロケランとか使えば壊せそうな壁だよね」と思ったら「年季が入ってボロボロになっている木の壁を演出するテクスチャが貼ってあるだけで、インタラクションできる対象ではないので壊れたりとかはしません」とかいった感じに、ゲームとは関係無い外側の世界のリアリティを見せつけられ、色々と察しながら物分りのいい大人の態度で作られた世界を楽しまなければならないと自分に言い聞かせる場面にぶち当たるようなことはない。物凄く固い物質はあるけど、固い物質を砕く手段がある。「固さ」という意味にプレイヤーは働きかけることができる。

 しかし、この理屈を以って『Minecraft』のゲームプレイを最も優れているとするのは、あまりに即物的なのだろうかと今は思っている。私と同じようにマイクラのゲームプレイに魅力を感じている人というのは、思った程多くない印象がある。マイクラは世に出てから結構長い年月が経過しているゲームであり、2014年に初めてマイクラに触れた私の反応は、世界中の多くのゲームファンにとっては、とうの昔に通り過ぎたものだというのもあるのかもしれない。同時期に、マイクラは日本において低年齢層を中心に火がつき、その人気は現在も継続しているが、ブームの本質は、レゴブロックのような建築に焦点が当てられている。サンドボックスゲームのブームの波に乗るべく、ドラクエフランチャイズを掲げて開発された「ドラゴンクエストビルダーズ」においても、プロモーションで前面に押し出されているのは、やはり建築だ。とはいえ、マイクラはサバイバルモードが廃止されたりするわけでもなく、マイクラのプレイヤーは建築の下地を自力で構築していくゲームプレイを(多分)素直に楽しんでおり、「ドラゴンクエストビルダーズ2」も、からっぽ島の開拓というプロセスを、からっぽ島で気ままに建築をしていく下地の構築として楽しめるよう志向していると言える。

 「遊びやすさ」という点でマイクラとの差別化を図っているビルダーズは、戦闘用武器と採掘ツールにそれぞれ専用のコマンドを設け、耐久値の存在によってツールが消耗品となるシステムを廃止していたり、きちんとしたストーリー仕立てで懇切丁寧なチュートリアルを施してくれる。プレイヤーの能動性をギリギリで尊重しながら、建築の手本を見せてくれる設計図システムと、マイクラにおいては特殊なギミック系のブロックを用いて組み立てられる装置によってなされる資源生産の自動化を、ゲーム側が特定の目的の部屋を認識する部屋レシピのシステムとプレイヤーをサポートするNPCの自律的な行動によって実現しているのは、サンドボックスというジャンルを単なる便乗に留まらずに主体的に発展させることができていると評価していいように思う。

 私の今の姿勢としては、有機的なゲームプレイの理論にいちいち当てはめていかなくともいいと思っているが、当てはめるとするなら…「拠点」の機能に意味がある。「拠点」という因子がゲームプレイの中心として活きているといったところだろうか。けれど、こうして考えてみたら、ビルダーズ2を良いゲームだと思うのは、「良いサンドボックスのゲームだから」ではないだろうと思ってきた。サンドボックスのゲームとして有機的かどうかを見ると、やりたいことを自分のやりたい順番でやっていくマイクラとは、世界との関わり方が異なる。飽くまで、マイクラのゲームプレイをサンドボックス有機的だとする所以とするのなら、ビルダーズ2はその方向性を拡大しているものではない。ビルダーズ2はビルダーズ2なりに、サンドボックスをビルダーズ2のゲームプレイに落とし込んでいる。やはり、「○○こそが有機的であり、優れている」という固定観念を据えていては、却ってゲームに対して盲目的になる事態を招いてしまうだろう。ゲームに対する考え方のアップデートに備え、これまで考えていた持論を整理したことの意義を実感できた。ビルダーズ2については、高度が前作から倍以上になっていることにも触れておこう。グライダーで滑空して広いフィールドを伸び伸びと移動するのが、とても気持ちいい。

結局は、この世界を拒む理由が無かった

 現在、Rockstar Gamesの『Red Dead Redemption 2』をPS4でプレイしている。進行具合としてはチャプター4まで進んでおり、メインストーリーの舞台が、おそらくゲーム内で最大規模かと思われる街に移った辺りだ。プレイ時間は20時間は経過していると思われる。今回は、本作をプレイした現時点での感想と、購入に至るまでに考えていたことのまとめを書いていこうと思う。

 2018年発売予定の作品として、『Red Dead Redemption 2』は、発売前から気になっていた。しかし、きっとプレイしてもすぐに投げるかもしれないと思い、予約することなく発売日を迎えた。RDR2に充分な魅力が無いからではなく、個人的に、2017年の末辺りから、ゲームに対する熱量を高く維持できなくなっているのが直接的な理由だ。そして必然的に、その熱量は、家庭用ゲームの話題について書いていくとしているこのブログを更新する意欲と等しい。余程でもないと更新する気は起こらず、前回のPSVRとアストロボットの体験などは「余程」だったと言える。つまりは、今こうしてRDR2について書いているので、RDR2も「余程」だということになる。

 発売日から数日経過して購入に至った決め手として、コレと言ったものはなく、単に「やっぱり気になる」から購入した。ただ、購入前にTwitterにて購入を渋るぼやきなどは垂れていた。RDR2発売後、これまでロックスターが送り出してきたカジュアルに遊べるオープンワールドアクションゲームと比べ、開発者たちの独善的なエゴを感じるとも言えるような癖のある仕上がりになっているRDR2に対して、ネット上で少なくなく湧き上がった戸惑いの声は観測しており、そういった反応を受け、RDR2に対して懐疑的な意見を幾つかツイートした。RDR2のどういった部分を懐疑的に捉えたかは、これからまとめて話していく。

 

 私にとって、ロックスターが今できる全てを注ぎ込み作り上げたRDR2の世界を拒む理由は無かった。私のゲームファンとしての経歴において、ロックスターのオープンワールドゲームは常に、ビデオゲームというエンターテイメントが、画面の向こうにあるもう一つの世界を体験するものだと提示し続け、それは紛れもなく自分が求めるものだった。そして、今回もロックスターは確かに約束を守った。画面の向こうには、1899年のアメリカ西部がもう一つの世界として広がる。コントローラを握れば、その世界の何に触れ、どこに行くかの権利が……すんなりと与えられるかというと、この作品は中々にプレイヤーを拘束するというのが事実だ。

 RDR2の評判として各所でも多く触れられているが、チャプター1はラスト・オブ・アスなどのようなリニアなゲームプレイとなっており、オープンワールドゲーム的な要素はほぼ皆無である。かつて、GTAシリーズにおける登場キャラクターの感情が伝わってこないドライなストーリーは、バイオレンスなゲーム内容と噛み合ったものとして、ロックスターのオープンワールドゲーム独特の味わいなのかと思っていたが、RDR2をプレイしていると、ロックスターとしては、そこは不本意な部分もあったのだろうかと思えてくる。RDR2のストーリーは、序盤からシリアスな雰囲気が漂い、主人公アーサーが属するギャングは、確かに強盗や詐欺などの犯罪を稼業にしている無法者集団なのだが、それは、この世界で自分たちが生き抜く手段だと考えており、彼らなりの節度や理念や美学を持っているという人間味が強く描かれている。主人公たちとは異なるギャングに襲撃され、家族と家を失い悲しみに暮れている女性を保護したり、親子や兄弟のようにギャングの仲間同士が想い合っていたり、小さな子どもは皆に優しく見守られながら健やかに育っている。そこには、笑顔、悲壮な顔、葛藤する顔と、人間らしい表情が数多く描写される。こういった登場人物たちの関係性や感情を丁寧に描くため、ストーリーはシリアスな映画のようにじっくりと進行する。十数年前のGTAでは、淡々とした日常生活の最中にいる依頼主のもとに主人公が無言で現れ、買い物でも頼まれるように、始末する人物のリストを受け取り、無言で現場に向かっていたが、そんなアッサリした演出とは大違いだ。

 ロックスターにとって、RDR2のように人物を丁寧に描写するストーリーというのは、ずっとやりたかったことであり、やっとできるようになったことなのだろうと、プレイしながら思っていた。ストーリーとは関係のないフリーローミング(チャプター2から解放される)のゲームプレイにおいても、無闇に悪事を働かせるような作りにはなっておらず、悪事を働くか、人道的な行動を取るかは、プレイヤーがする "選択" であるというようにデザインされている。因みに私は、指名手配され追われる身となるのも面倒なので、基本的には大人しくしており、助けを求める人には、報酬や、その後に起こるかもしれないイベントのフラグなどを目当てに手を差し伸べたりと、まぁ善人プレイと言っていいプレイをしている。 "選択" としてデザインされていると言ったように、こういったプレイでもゲームはきちんと成立するようになっているわけだが、それと同時に、やはりお金が欲しくて魔が差す…ということも自然に起こり、プレイヤー各々の目的の延長に "適度な悪事" が入り込む余地もある。そうした "選択" の場面は、街の中や、道ですれ違う人、キャンプをしている人、人里離れた民家など、世界中に散りばめられている。登場人物の感情を丁寧に描くストーリーにせよ、NPCをただ殺されるだけの人形にはさせないゲームデザインにせよ、ロックスターのオープンワールドゲームが、こうも品性や誠実さを纏うところに辿り着いたのかというのが、私がRDR2をプレイし最も強く感じることだ。

 また、植物・動物・魚など、特に動物がそうだが、単に飾りとしてフィールドに存在しているものはほぼ皆無であり、それぞれの資源が、この世界に存在するべくして存在しているという、世界そのものを創ってしまったと言っていい力技によって、クラフト要素や食事要素が無為で単調な作業ではなく、その世界で生き抜く為にすべきこととして自然に受け入れることができる。非常に広大なマップの移動手段として、いつでもどこでも好きな場所にテレポーテーションできるようなシステムはなく、基本的には馬による移動が最も多くなる。鞍を着けている馬がメインの馬となり、馬は、プレイヤーキャラクターのアーサーと同様にライフやスタミナなどのステータスが存在し、アーサーと馬、両方のステータスを管理するため、長旅に回復・補助アイテムが必要となる。場合により、所持金を消費することで駅馬車(タクシー的な馬車)や列車によるファストトラベルに近い移動も可能ではあるものの、それも含めて、こういった要素は面倒くさいと一蹴されたりもするだろうけれど、私は、せっかく作り込まれた世界との関わりを尊重していることは好ましく思う。何より、RDR2の世界には、間違いなくそれ程深く関わるだけの価値があることに、どうしても正義がある。

 しかし、2018年にロックスターが辿り着いたその形に、それまでのロックスター製オープンワールドアクションゲームのようなカジュアルなエンターテイメント性を予想していたと思われる層から戸惑いの声が湧き上がってくることに、ロックスター側に責任はあると思っている。まず、ハッキリと言って、システムUIを含む操作系全般の設計の醜悪さは看過できない。無駄に多い長押し操作は、長押し操作である必要性に疑問を感じる操作が少なくないし、その都度長押し判定が鈍いのもストレスフルだ。

 アイテムを取得する・馬に乗る・NPCに話しかける等のインタラクション(働きかけ)操作は、一律に画面右下に当該のボタンが表示されるが、他のゲームでは、こういったインタラクション操作は画面中央下部であったり、インタラクションする対象の付近に当該のボタンを表示するのが一般的である。プレイヤーがゲーム内の対象に働きかけるとき、プレイヤーの視線は、カメラが常に中央に捉え続けるプレイヤーキャラクターや、対象そのものに向けられているのだから、他のゲームのようなUIが合理的だと思う。RDR2は、多くのインタラクションが存在するゲーム内容であるだけに、他のゲームとは異なる直感的でないUIを採用するという判断は理解に苦しむ。没入感を高めるためにUIを目立たないようにしているつもりだったりするのだろうか?そうだとして、結果的に採用されたUIはあまりに不合理で、直感的で快適なゲームプレイを著しく軽視しているのではないかと思わざるを得ない。

 釣りの操作に関しては、自分以外に不満を垂れている人は今のところ見かけていないが…繰り入れる操作が右スティック回転というのは最低なセンスだと思う。現在の私の進行時点から更に先に進めると、強化された釣り竿などが手に入ったりするのかもしれないとは思うが、大物との長い格闘でずっと右スティックを回転し続けていたら、翌日は右腕の痛みで目が覚めた。

 …と、ここまで操作系の醜悪さを厳しく指摘してきたが、仮に、ゲーム自体がキビキビとテンポよく進むものであったなら、この操作系でも、それ程厳しい指摘はしなかったかもしれない。RDR2の場合は、プレイヤーキャラクターの一つ一つの動作が、リアリティを表現するために非常に緩慢であり、ストーリー演出時においては、プレイヤーキャラクターの操作は強く拘束される。プレイヤーにとっての拠点ともなるギャングたちのキャンプでは、仲間との日常会話などが発生するため、ストーリーを進行する気がなくとも、拠点にいる限りは常にストーリーを演出しているのと同様で、拠点では強制的に歩くことしかできなくなる。この窮屈さの例えとしては、「ダークソウルで装備重量を超過した状態」を推したい。

 普段、あまり意識はしないことだが、ゲームのプレイヤーキャラクターの動きというのは、ゲームプレイの快適さのために意図的に非現実的な動きに調整されている。歩行速度なども、現実的な人間の歩行速度よりは速めに調整されている。そういった調整は、「必要な嘘」だ。MGSVやゼルダの伝説BotWなどは、視覚的に自然な表現と、優れたゲームプレイのための巧みな嘘を、極めて高いレベルで統一している作品だ。私は、RDR2をゲームとして美しいものに仕上げることは可能だったと思う。シミュレータとして心地よくあろうとするのなら、ゲームコントローラでの操作系に落とし込むのは、むしろビジョンを制限してしまっているのではないだろうか。いずれにしても綺麗にはまとまっていないので、正当化するには苦しいだろう。

 

 RDR2は、現代のゲームの答え合わせのようだと思う。5年前、GTAVをプレイしたときにも、そう感じたように。肯定も否定も、これから出てくるゲームが、いかなる部分をより研ぎ澄まし、また拡大するのかを見定める基準になる。ロックスターは、2018年のビデオゲームができることを総括した。とてつもなく巨大な質量をビデオゲームというフォーマットに詰め込んだこの作品は、私を含める世界中の数多くのゲームファンにとって、拒む理由が無かったのは確かだ。

 最後に、RDR2のスクショを幾つか貼っておこう。個人的に、ゲームにおける空の表現に執着しているところがあるのだが、RDR2の空の表現は、快晴の空も、曇った空も、夜空も、完璧だ。無論、雲はリアルタイムで動いている。素晴らしい。

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 ストーリーについては、ジャックが堅気の世界で健やかに育っていけるなら、ギャングは崩壊でもなんでもすればいいと思っている。流れゆく時代によってギャングたちが居場所を失いつつあるという背景は、色んな意味で救いがある。どうせ終わるんだから最後まで自由でいようという気持ちにもなり、せめて守るべきものを守り通して終わっていこうという気持ちにもなる。

 

2018/11/15 追記

Twitterにてエピローグクリア後の総評。スレッド化しての複数ツイート。

 

PSVRとASTRO BOTでゲームの興奮が息を吹き返した

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 先日、勢いで買ったPSVRとASTRO BOT

その楽しさにTwitterにて一人ではしゃぎ倒し、書く気力が一時的に復活したので、書く。

 ↓体験版の配信が開始されたみたい。

 

 ここ数日、PlayStation VR専用タイトル『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』をぶっ続けでプレイしていた。初見の感想ツイートを投稿したのが7日前のようだから、丁度1週間。プラチナトロフィーを獲得するまでやり込んだ感想を結論から言うと、非の打ち所がない完成度・満足度の作品だ。ASTRO BOTは、この2018年にゲーム熱が飽和して不感症に陥っている真っ最中の私に、そう言わしめた。

 今回書く内容は、これまでの記事よりはレビュー(批評)を意識している。そこで、以前から考えていた3つの指標を用いて評価してみることにする。3つの指標の1つめは、「創造性」。「新鮮味」と言い換えられる。2つめは、「ビジョン実現度」。「完成度」と言い換えられる。3つめは、「ゲームプレイ充実度」。新鮮味と完成度の度合いにも拠るが、「満足度」…或いは「ボリューム」と言い換えられる。この内、完成度と満足度は既に「非の打ち所がない」と述べてしまったが、5つ星による評価の発表と共に、より詳しく書いていく。

 批評に入る前に、作品の概要を書いておこう。

 『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』は、SIE JAPAN StudioのASOBI!チームが開発を担当。ジャンルはVRプラットフォーマーとしている。プラットフォーマーというと、日本のゲームファンにはあまり馴染みのない単語のようにも思う。ジャンプアクションと言い換えたら、イメージが幾らか鮮明になるだろうか。ジャンプ操作を駆使し、賑やかなギミックに溢れた段差や台座を飛び移りながらゴールに進んでいくジャンルであり、代表的な作品としては、スーパーマリオシリーズがある。

 この作品の口コミが私の観測範囲に漂着するまでに、マリオの名は多く呟かれたようで、私自身、9月に配信されたPS LineUp TourでASTRO BOTのトレーラーが流れたときは、「THE PLAYROOMの素材使い回してマリオみたいなの出すんだ。( ´_ゝ`)フーン」くらいに思っていたのを覚えている。平面のモニタ用の映像であるトレーラーから受ける印象と、実際のゲームプレイの印象が全く違うことを、このときはまだ知る由もなかった。

 THE PLAYROOMとは、PS4のローンチ時から提供されているPS Cameraを使ったアプリケーション『THE PLAYROOM』と、PSVRのローンチ時から提供されているアプリケーション『THE PLAYROOM VR』のことだ。

store.playstation.com

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 いずれも無料で、フルのゲームではない。これらの開発を担当しているチームがASOBI!チームという名をいつから名乗り始めたのかは把握していないのだが、JAPAN Studioのこのチームは、PS4の初期の段階からPS Camera及びPSVR向けの開発経験を積み重ねてきており、THE PLAYROOMシリーズ初のフルのゲームであるASTRO BOTの開発においても、それまでのノウハウが大いに反映されているとのこと。後でより詳しく述べるが、PS Cameraと、PS Cameraによるトラッキングに対応しているDUALSHOCK4の密接な関係性も、ASTRO BOTの体験の深度を語る上で非常に重要なファクターである。

 では、この辺りで批評に移っていこう。

 

|創造性(新鮮味) ★★★★★

 いきなりだが、スーパーマリオシリーズへの言及を避ける意味はない。少なくとも私が批評する上では。ASTRO BOTの体験の性質は、3Dマリオの感覚にかなり親しい。ゲーム内容は全く似ていない。ASTRO BOTは飽く迄もVRプラットフォーマースーパーマリオシリーズ作品がVRプラットフォーマーであったことはないので、相似し得ない。似ている(親しい)のは、ゲームメカニクスレベルデザイン、アートワークなどを含めた全体のデザインの精神性・思想だ。複数のギミックがほぼ同一であることなどは、ジャンルとして成立する上での共通項として捉えている。

 そして、スーパーマリオシリーズの中でも、特に彷彿とさせられるのは、Wiiリモコンでの操作により、マリオがいる空間へのプレイヤーの干渉の仕方を格段に有機的にしたWii専用タイトル『スーパーマリオギャラクシー』(2007)だ。3Dプラットフォーマーとしてのスーパーマリオが重んじているのが、ゲーム空間の遊び場としての楽しさ。童話やカートゥーンの世界が実体化したような、好奇心・冒険心をくすぐる世界観。プレイヤーがその世界に有機的に干渉できる程、プレイヤーの感覚はその世界に接近する。

 ASTRO BOTの世界にプレイヤーが干渉する媒体となるPSVRとDUALSHOCK4。これらは、プレイヤーをゲームの主人公「アストロ」と空間を共有する次元にまで到達させた。

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 プレイヤーはアストロと空間を共有している。そして、DUALSHOCK4はゲーム空間においても同じDUALSHOCK4だ。このDUALSHOCK4でプレイヤーはアストロを操作し、コントローラガジェットと呼ばれる水鉄砲や手裏剣などで、アストロをサポートする。敵やギミックには、プレイヤーに影響を及ぼすものもあり、例えば砲台から射出されるミサイルに激突されると、衝撃音と共に視界にヒビが入る。

 

 

  プレイヤーは基本的に無敵で、ヒビもすぐに消えるが、嫌なら避けよう。頭を動かし、ヒョイと。

 

 

 ちなみに、水中においてはアストロもプレイヤーのモニタに物理的に干渉する。

 

 

  (かわいすぎる)

 アストロは、プレイヤーを信頼し慕っている相棒のような存在だ。話が逸れるが、昔、マリオギャラクシーをプレイしていたとき、それを見ていた祖母が「マリオは(私の名前)の子分みたいでかわいい」と言っていたのを思い出す。それを聞いて、その捉え方は面白いな(子分という表現にも笑えてくる)と思ったのを今もよく覚えている。ここで全ては紹介しないが、ASTRO BOTにはPSVRとDUALSHOCK4でなければ成立し得ない仕掛けが、全てのステージ及びダイナミックなボス戦ステージに満ち溢れている。

 

 

  一つ、水の凄さは分かりやすいので触れておこう。水がマジで水なので、もう、波とか、ゴボゴボってなる感じとか水しぶきとか。凄い。昔から、水の表現はゲームの技術の進歩を分かりやすく反映する部分なのは、往年のゲームファンならば頷くところだろう。「VRゲームの水」を体験する目的でASTRO BOTをプレイするのもアリかもしれない。バカみたいに「水、スゲエエエエ!!!」ってなれると思う。

 

 

  ステージに入るときに毎回繰り返される、ステージが読み込まれ、アストロを含め救出対象のボットたちを格納する機能もあるコントローラの中から、「行こうよ!」とアストロが催促し、アストロを放つと同時に、それまで環境音だけが聞こえていた世界に音楽が流れ始めるこの一連の演出は、ASTRO BOTのゲームプレイに愛おしい印象を残す、素敵な演出だ。ワクワクする世界が徐々に視界に広がり、アストロと共に「さあ、行くか!」と出発するのである。

 ASTRO BOTは、スーパーマリオシリーズが築いてきたプラットフォーマーの設計思想を色濃く引き継いで成り立っているが、好奇心・冒険心をくすぐるゲーム空間に接近するに留まらず、共有するという次元を創造(カタチに)した。

 

|ビジョン実現度(完成度) ★★★★★

 ASTRO BOTのビジョンは、プレイヤーがゲームキャラクターとゲーム空間を共有するというコンセプトを基に、VRだからできる遊びの楽しさをプレイヤーに伝えることだと認識している。そのビジョンは、完璧に成し遂げられていると言える。

 PS4ローンチの頃…更に正確には、PS3向けのモーションコントローラとして2010年に発売されたPS Moveの頃からだろう。長い期間をかけ、モーショントラッキングを利用したゲーム開発の研究をSIE JAPAN Studioは継続してきた。ASTRO BOTの開発においては、その研究を下地に、綿密な設計・バランス調整が施され、バラエティ豊かな仕掛けが満遍なく散りばめられた全ステージをひと周りするまでの間、VRでなければ絶対になし得ない体験への興奮が常に冷めやらない仕上がりとなっている。

 スコアアタックやタイムアタックに挑戦するチャレンジステージのアンロックに必要となる各ステージに1体ずつ隠れているカメレオン探しや、救出したボットたちが収容される宇宙船アストロ号でクレーンゲームをプレイする際に必要なコイン集めなどの寄り道・やりこみ要素の条件達成・ステージクリア達成難度は、やり直しのストレスが最小限に抑えられ、適度な達成感を味わうことができる。

 

 

 

  ただ、アクションゲームに不慣れな人からの「難しくて詰みそう」という声は幾つか見かけたので、イージーモードなどの救済措置があってもよかったのかもしれない。アクションゲームにそれなりに慣れていれば、全体を通し、プレイヤーへの刺激とゲーム進行のテンポは心地よいまま崩れないだろう。

 余談だが、『THE PLAYROOM VR』には、複数あるミニゲームの内の一つとして、ロボットレスキューというミニゲームが収録されている。これは、『ASTRO BOT : RESCUE MISSION』にレスキューという単語が入っていることからも推察できるように、ASTRO BOTの前進のような内容となっている。私は、ASTRO BOTのトロフィーコンプリート後、このロボットレスキューをプレイしてみたのだが、ASTRO BOTがそこからどれ程洗練されているのかはすぐに分かった。見た目はASTRO BOTとさして変わらないが、UIのレスポンス精度と速度、プレイヤーの行動に対するゲーム空間の反応の豊かさ、アストロのスムースな動きなどの磨き上げは、ASTRO BOTの没入感と快適性の底上げに絶対的に必要なものだ。

 VRゲームは、ほんの数分でさえ、退屈であったり煩わしかったりしてはいけない。そもそも、この2018年の時点においては、VRでゲームをプレイする環境が既に煩わしいのだから。ゴチャゴチャした配線が伸びるゴツい装置を頭に被り、イヤホンで耳を塞ぎ、私の場合はメガネまでしているので、拘束されている感覚が半端ない。ASTRO BOTのゲームプレイの快適さ、テンポの心地よさは、VR環境の煩わしさを、ほぼプラスマイナスゼロにできている。ただ、私はVRゲームの経験がまだ少ないので、VR空間での初めての体験の一つ一つに感動している分の加算もある。また、これは個人差もあるだろうけれど、このゲームは3D酔いがほとんど起こらない。平面のモニタでプレイする3Dゲームよりも起こらない。これは、本当に凄まじい成果だ。まさに、長年の研究の賜物なのだろう。

 ASOBI!チームの研究が、ゲームデベロッパーのカンファレンスなどで講演されることを期待したい。間違いなく、今後のVRゲーム開発の重要なヒントの数々を業界に還元できる筈だ。

 

|ゲームプレイ充実度(満足度・ボリューム) ★★★★☆

 ボリュームに関しては、総プレイ時間は把握していないが、プレイ開始から丁度1週間でトロフィーコンプリートを達成したことから推し量ってもらいたい。大半のトロフィーは、通常のステージ攻略とやりこみ要素に関連するので、特殊なトロフィーを取得しなくとも80%は越えると思われる。ASTRO BOTは、コンシューマ向けのゲームの中では、コンパクトにまとまっている方だ。実は裏ボスやら裏ステージやらがあって、それらを攻略する為に、それまでの経験と蓄えてきたゲーム内資産を全て応用して創意工夫を凝らすようなやり応えがある…とか、そういった濃密さは目指していない。

 この2018年は、小規模なスタジオによって開発されるインディーゲームが日本においても受け入れられ始め、コンパクトなゲームへの肯定的な意見は増えてきている。私の場合は、個人的な問題だ(と言いたい)が、今現在、ゲームをプレイするモチベーションのマネジメントに苦慮しており、「コンパクトなゲームだったら気構えずプレイできるな…」と思っているのは事実だ。ASTRO BOTがコンパクトであるが故に、その例に当てはまっていることは否めない。

 また、やはりVRゲームにおいては、環境の煩雑さによる身体的な疲労は拭い去れないものであり、平面のモニタでプレイする従来のゲームと比較して、単調で変化の少ないゲームプレイを許容できる時間は大幅に短縮される。地道なレベル上げとか、素材集めとか、そういったゲームプレイとの相性は厳しいものがあるだろう。

 このように、「VRゲームとしては」とか「コンパクトなゲームにも今は需要あるから」とか、そういったフォローは入るが、上述の2つの項目でも述べてきたように、ASTRO BOTのゲームプレイの構成は完璧だ。全てのボットの救出、カメレオンの発見とチャレンジステージへの挑戦、クレーンゲームで集めたフィギュアによる豪華なジオラマの完成などを経て、心地よいやり応えを感じたまま、プレイを終えることができた。

 しかし、私のゲームファンとしての性(さが)は今尚、濃密なゲームプレイの後に残る余韻を、ゲームで得られる幸福の上位に据えている。まだ公式に決定さえしていない続編では、更に大化けするだろうと勝手な期待を込め、★の置き場所を一つ空けておくことにする。

 

|技術的密度(作り込み) ★★★★★

 3つの指標と言っていたが、書きながら4つめの指標を思いついたので、加えて書いていく。

 私は、ビデオゲームにおける技術的なクリエイティブに敬意を示したい気持ちが強い。「グラフィックが美麗」、「物理演算が凄い」、「オープンワールドがめっちゃ広くてヤバい」など、そういうノリでバカ正直にはしゃげるタイプのゲームファンだ。

 ASTRO BOTのグラフィック表現の技術水準は高く、通り過ぎていく通路の岩肌や、洞窟の脇にある結晶の質感は、非常に現実味があり、思わずアストロを立ち止まらせ、まじまじと観察してしまった。草地にアストロが進入すると、草花はアストロの動きに応じてワサワサと動く。破壊された壁や、コインが入ったブロック、ボスが装着していたゴーグルの破片などが砕け散り、地面に散乱していく描写は、正確な物理演算によるリアルタイムな処理で表現されている。そして、水がマジで水という話は既にしたな。海は自然に煌めき、砂浜の波は自然に揺らめき、アストロが水面に身を投じれば、自然な波紋が広がる。プレイヤーが水中に頭を浸すとゴボゴボとなり、頭を出すとザバーっとなる。こういったゲーム空間の反応の一つ一つが不自然だったり、ぎこちなかったりしたら、没入感は大きく削がれていただろう。

 私には技術的な知識は無いので、「現実味があった」とか「自然だった」とか、そんな拙いことしか言えず、一つの項目として書くには、少々内容が薄くなってしまうが、個人的にかなり重視している部分なので、評価の指標としては外せない。

 

 批評は以上となる。

 最後に、コンシューマゲームにおけるVRの将来性について思うことを書いて、締め括るとしよう。

 PSVRは、今年で発売2周年になるらしい。「VR元年だ!」と、メディアも巻き込みざわついていた頃から、もう2年経ったのか。個人的には、そんなに経った気はしない。そんなPSVRを取り巻く世間の声は、「失敗した」、「3Dテレビなどの一過性のブームに過ぎない」といった意見が少なくないようだ。先に言うが、私は、そういった悲観的な意見には疑問を抱いている。特に、後者のような意見には。

 現状の家庭用VRシステムは初期導入費用が高額であり、とてもじゃないが気軽に楽しめるエンターテイメントとは言い難い。また、環境は非常に煩雑であり、一般家庭であれば、置き場所に困るのはほぼ確実だろう。既に日本人にとっても親しみ深いPS4やSwitchといった家庭用ゲーム機を購入するようなノリでPSVRを購入するには、乗り越えなければならない心理的な障壁が大きいのは、やむを得ない話だ。現に私も、PSVRは若干ヤケクソ気味に購入した。PS4を所有し、たくさんゲームを遊んできたものの、ここに来て何をプレイしてもモチベーションを高く維持できなくなったので、なりふり構わずに刺激を求めるという心境に至るまでは、PSVRの存在は、ほとんど気に留めていなかった。ぶっちゃけ、購入した時点から、「ある程度楽しんだら売っちゃっていいかな」と思っている。現状のPSVRへの私の期待値はその程度だ。

 しかし、VRという新たなエンターテイメントのフォーマットが、今の私のビデオゲームに対する漫然とした気持ちを内側から突き破り、興奮する気持ちを少しでも思い出させてくれる筈だという期待は本気でしていたし、ASTRO BOTは、その期待に真摯に応えてくれる素晴らしい作品だった。

 VRゲームが当たり前になる時代が必ず来ると、ゲームファンとして確信している。平面のモニタに映される3Dゲームは、飽く迄も擬似的な表現に過ぎなかったと、全てのゲーマーが理解するだろう。技術は日々進歩し続けている。家庭用として利用できるVRシステムは、順を追ってより小型化・独立化が進み、性能も向上していく筈だ。PSVRは、その確実に来る将来に先んじての取り組みであり、そこで成立するエンターテイメントを率先してカタチにするASTRO BOTを含むVRゲームの作品群は、ビデオゲームが人々に届けてくれる興奮を、この先の未来も追い求め続けていていいのだと、ビデオゲームが人の人生を豊かにしてくれるものだと信じている全ての人に示しているのである。

 PSVRとASTRO BOTが見せてくれるビデオゲームの未来の始まりを、この記事を以て保証する。

今はもう遊ぶことができないゲームが自分にとって最高のゲームの一つだった話

 SIE JAPAN Studioと京都のゲームデベロッパーのQ-Gamesによって開発され、2016年9月7日にリリースされた、ジャンルをソーシャルアクションとするPS4向けタイトル『The Tomorrow Children』(以下、TTC)は、今はもうプレイすることができない。

 このゲームは課金制を採用した基本プレイ無料のオンライン専用タイトルであり、SIEは2017年11月1日をもってサービスを終了したからだ。

 『FINAL FANTASY XIV』や『ドラゴンクエストX』などのMMOというジャンルにあたるゲームのプレイ経験が一切無く、スマートフォンのゲームを全く遊んでいない私にとって、1本のゲームがプロダクトではなくサービスであり、サービスを運営する会社が運営することをやめてしまった時点で、そのゲームに触れることすらできなくなるという事態は、言ってみれば他人事だった。

 一人のプレイヤーとしてTTCが永久に奪われてしまったことに対する納得のいかない気持ちは、私のゲームファンとしての経験とビデオゲームに対する認識が浅はかなだけとも言えるのかもしれない。

 けれど、私のようなゲームファンの視点からTTCがどう映ったのかは、ごく限られた期間の内に触れ、このゲームを理解することができた身として責任を持って語っておきたい。

 私が家庭用ゲームという場所でTTCに巡り会い、それまで愛してきたビデオゲームと同様の愛おしさをTTCに対して抱いたことは、出会うべくしての出会いだったからだと思っている。

 

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 TTCのゲームとしての目的に据えられているのは、人類の文明の復興。ある国家が秘密裏に遂行していた科学実験が失敗し、その結果、人の肉体と意識が溶けて固まった"ボイド"という真っ白な物質に地上が覆われてしまったという世界で、各プレイヤーはプロジェクションクローンと呼ばれる同じ姿をした少女を操作し、資源の採掘や施設の建設などを行い、「町」の復興条件達成を目指す。

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 「町」は、多人数同時接続型のオンラインゲームにおいて、一般的にサーバーや部屋と言われる類のもの。既定された上限に収まる1~20人ほどのプレイヤーで、町の復興条件達成というマクロな目的の下、各自が町の復興の為に必要なことを考えながら、共同作業及び、搬入済みの資源の運用を共同管理する。

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 町の周辺には見渡す限りボイドが広がっており、生身で歩くと沈んでしまうので、ホバーマシンという乗り物や、ボイドパワーなる地形を発生させる消費アイテムが必要になるが、高さ・奥行き共にシームレスに行動することができる。

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 ボイド上にて一定間隔で出現と消滅を繰り返す「島」と呼ばれる地形で、各種資源の採掘と、人形変換器という施設で人民に変換することができるマトリョーシカ人形の回収を行う。

 

 このマトリョーシカ人形の演出でニクいのが、プロジェクションクローンが持ち運ぶときに、風鈴の音のような非常に繊細な音で「コロコロコロ・・・」と、中に小さく儚い何かが入っている音がするところ。

 しかも、その音はコントローラのスピーカーからも出力される。マトリョーシカ人形は、資源と違って脆く、乱暴に取り扱うと容易く壊れてしまう。そうなってしまっては、最早人民に変換することはできない。

 プレイヤーに見つけられ、救出されることを待っていた尊い命の音が、文字通り自分の両手のひらの中で鳴るわけだ。嫌でも、無事に町まで運搬せねばと責任を感じさせられてしまう。

 TTCは、サウンドにおいても尋常ではないこだわりが込められている作品だ。開発に携わったスタッフによって、そのことが語られている記事を紹介しておく。

www.jp.playstation.com

 島は、広大なボイド上にランダムに出現するので、まれに町のすぐ近くに出現することもあるものの、大抵は町から遠く離れている。ボイド上を移動する手段としてはホバーマシンなどがあることを前述したが、島に行く手段としては、町と島を往復するバスがある。

 バスに乗って島へ赴き、採掘した各種資源や回収したマトリョーシカ人形を、バス停前のLOADING AREAと標示されている枠の中に置いておくことで、バスが発進すると同時に資源とマトリョーシカ人形がバスに積まれ、町まで運んでくれる。

 バスが町のバス停に到着すると、バス停前に資源とマトリョーシカ人形がドサッと放り出される。プレイヤーが町のSTORAGEと標示される枠の中まで運んで、資源の搬入が完了する。

 プレイしているときは意識していなくて、今この文章を書いていて気付いたのだが、これらの一連の流れは、全てシステム的に簡略化することができるだろう。

 LOADING AREAと標示された枠の中に資源やマトリョーシカ人形を「置く」という作業は、チェストのようなものを設置しておき、幾つの資源とマトリョーシカ人形をチェストに入れたのかという数値のデータのみを記録し、バスが持ち帰った資源とマトリョーシカ人形は、バスが町に到着した時点で搬入したという判定をしても、ゲームは成立する。

 だが、TTCというゲームは一貫して、資源やマトリョーシカ人形を、それそのものとしてプレイヤーが接するようにする。無機質なデータとして接することはさせない。私は、この精神が大好きだ。

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 多くのプレイヤーによって大量に集められ、積み重ねられた資源やマトリョーシカ人形の山は、何度見ても充足感を与えてくれた。TTCをプレイしたことが無くとも、わかる人にはわかる気がする。

 この何とも愛おしい「アナログ感」に関しては、他にもTTC独特の仕様がある。町で、ショップや、施設を建設する際に使用する万能工作台などを利用するとき、先に利用中のプレイヤーが居ると、「列」に並び自分の番を待つのだ。

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 TTCは多人数同時プレイのゲームだが、普段は自分以外のプレイヤーの姿は見えず、他プレイヤーが何かしらのアクションを取ったとき、一時的に画面に表示される。施設を利用することや列に並ぶことも、そのアクションに含まれる。

 プレイヤーはゲーム内で実際に列に並び、尚且つその様子は視覚的にゲーム内で描かれる。これはTTCという作品を象徴し、プレイヤーにとっては「他者とゲームプレイを共有している」というゲームデザインを直感的に理解できるビジュアルと言えるだろう。

 

 TTCのアナログ感、それはビデオゲームインタラクティブ性における「触り心地」を重んじる精神でもあり、この「触り心地」について掘り下げたい話がある。

 2017年に、任天堂は『ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド』と『スーパーマリオオデッセイ』を発売し、N64時代に『スーパーマリオ64』と『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で示した「箱庭ゲームの楽しさ」を、近代的な技術を取り込んだ上で、改めて世界中の多くのゲームファンに意識させた。

 私は、スーパーマリオオデッセイについてのある海外の翻訳記事で、スーパーマリオオデッセイに対し「サンドボックス」という表記を見かけたのだが、おそらく文脈から察するに、これは「箱庭」の英語訳ではないかと捉えている。

 しかしながら、私がビデオゲームの専門用語としてサンドボックスという言葉を知ったのは、あのマインクラフトのジャンルを指し、その言葉が用いられている記事を読んだときだった。

 世界を構成する全てに対し、物理的にインタラクションすることができる。世界そのものに有機的に触れるゲームデザインを砂場遊びに擬えて、サンドボックスと呼ぶのだと。

 だから、スーパーマリオオデッセイがサンドボックスと呼ばれているのを見たときは、「マリオオデッセイってサンドボックスなの?壁とか地面掘れないよね?」と思った。

 けれど、そもそも、3D空間で有機的に世界に触れることを志向したゲームを、スーパーマリオ64の時点で任天堂は「箱庭ゲーム」と呼んでおり、その「箱庭ゲーム」という言葉が「サンドボックス」という言葉になっているのなら、マインクラフトのようなゲームデザインに絞るまでもなく、「世界に触る」ゲームはサンドボックスと言えるのではないか。

 私にとってスーパーマリオ64は、ビデオゲームの虜になるきっかけになった作品であり、マインクラフトは、これこそが私がビデオゲームに求めていたものの現時点での到達点だと衝撃を受けた作品で、両作品とも、「私にとって最高のゲーム」である。

 『The Tomorrow Children』という作品が、私にとって最高のゲームの一つというのも、つまりはそういうこと。私は、ビデオゲームにその世界の感触を求める。

 以下は、TTCの正式サービスにて、初めて復興完了まで貢献したときに書いた当時の手記だ。

 

 "初めて復興の瞬間まで貢献した!凄く嬉しい。感動すら伴う達成感に、このゲームに感じ続けていた魅力の答えを知った。やっぱり好きだ。

 この時、本当に凄く嬉しかった。ゲームで「喜び」という感情を味わったのは初めてかもしれない。楽しいとか、爽快とか、満足とか、ゲームにおけるポジティブな感情ってそういうもので、なんていうんだろうな・・・個人的な感情というか。それは、今回の喜びという感情とは絶対的に違うもの。

 TTCスタンドアロンのゲームで、町の復興というのも、自分がどの町を復興させるのかを決めて、最初から最後まで自分の力だけでやり遂げるというものだったら、それをやり遂げたときの達成感は満足感だと思う。

 でも、TTCはソーシャルなゲームで、町の復興は他のプレイヤーと力を合わせることで目指す。その復興に自分はどれだけ貢献できたかというのが、このゲームの個人的な体験の部分。

 言ってみればただそれだけのこと。「そりゃ違うだろう」と、なると思う。でも、このゲームはプレイしているときにその割り切りを感じさせないのかな。スタンドアロンのゲームをプレイしているようなフィーリングなんだ。でも、私のプレイは確かに、皆で目指す目標への貢献。

 スタンドアロンのフィーリングの上に、マルチプレイの感覚を再現してるのが、このゲームの素敵なところなんだろう。本当に嬉しかったんだ。

 最後に、人形変換器の近くで皆でいいねし合っていた。「やり切った!」じゃなくて、「いやー、やり切ったねー!」という感じで。

 スタンドアロンオープンワールドのゲームって、どんなに広くてもマップが頭の中に入ってしまえば、文字通りそのフィールドはもう自分の庭で。「庭」なんだ。「世界」じゃなくて。

 世界って、もっと手に負えないもの。手に負えないから、その世界で自分は何をしようかと思い、その世界でできたこと、自分が遺せた痕跡に、充足感を覚える。

 そして、更に痕跡を遺したいと思う。痕跡を遺すだけの、やれることが世界にはまだまだいっぱいあると、そう思える。

 自分のものにならないからこそ、自分との繋がりを尊く思える。そんな世界に愛着が持てる。人間にとって「世界」ってそういうもの。

 TTCの世界は、とてもじゃないけど一人じゃ手に負えないようになってる。それは、そういうゲームデザインだからと言ってしまえばそれまで。ソーシャルなゲームだからと言ってしまえばそれまで。

 でも、それを自然と受け入れられるんだ。納得できる。言葉で説明するまでもなく、触った感触こそが何よりも説得力を持つ。"

 

 ただ単に、スーパーマリオ64などに匹敵する水準の触り心地があるというだけだったのなら、最高とまで言うには至らなかっただろう。ビデオゲームに世界の触り心地を求めた私に、少なくとも私の中では今までに無かった、ビデオゲームにおいて創り出すことができる「世界」の定義をTTCは示したのだ。

 この記事は、開発者自身によるTTCのプレゼンテーションを書き起こしたものだ。マルキシズムという実際の社会に適用される思想体系を、ゲームデザインの着想としていることが語られている。

 2016年の1月、発表以来ずっと興味があったTTCクローズドベータテストが実施される報せを受け抽選に応募し、当選することができた。指定の日時にTTCをプレイし始めたが、最初は、このゲームにおいてすべきことを全く理解できずに終わる。

 しかし、素材は見えている。ゲーム内の変化をアナウンスしていると思しき公共スピーカーや、ショップや家屋などの施設が立ち並び、NPCが親しげに声をかけてくる「町」。そこから「バス」が発進し、遠くにある「島」までプレイヤーを送迎する。

 ショップで購入することができるピッケルやシャベルなどの「ツール」。そのツールを使い採掘し、鞄に収納することができる「資源」。島の物陰に隠されるように置かれている、ひどく脆い謎の「人形」。そして、ふと気付くと時折足元に落ちている米ドル紙幣を思わせる緑がかった見た目の「外貨」。

 ショップの販売員からこっそりと教えられた「ブラックマーケット」にトランシーバーを使って繋ぐと、町のショップでは不許可とされ購入することができない銃火器やジェットパックを購入することができる。

 この世界において、最低限のツール以外の使用を許可されていない私は、内緒で拾って懐に収めた外貨を使い、開放的な雰囲気の爽やかな白を基調としたカラーリングで曲線的なデザインの外国製ジェットパックを背負う。

 そして思う。コレは「自由」だと。

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 自由を得た私は、この世界で何ができるのだろう。何がしたいのだろう。私は、「個人住居」を建てたかった。

 ベータテストプレイ開始時に与えられた個人住居建設許可証というアイテムがあれば、町に個人住居を建設し、その町において様々な権利が開放されるとのことだが、ほとんどの場合、町の建設上限に達しているとされ、建設することができない状態だった。他のプレイヤーが、先に個人住居を建設してしまっているということだ。

 空きのある町はないかと、町一覧を眺めながら、ある点に気付く。個人住居建設数の母数が町によってバラバラであることに。

 そこから、個人住居の枠は拡張されると推測し、「タウンホール」という施設のレベル上昇に従って拡張されることを学ぶ。

 では、そのタウンホールという施設のレベルは、何を条件に上昇するのだろう?そう考えながらタウンホールを観察していると、タウンホールの中心部に何やら投入口のような穴があり、その上にアイコンと数値が描かれている。

 そのアイコンとはメタル資源を表すアイコンで、数値は、次のレベル上昇までに必要なメタルの数だった。この時点で、とにかくメタルを集め、タウンホールにひたすら投入し続けるという目的が定まった。

 だがしかし、私一人で、貧弱な国産ツールでメタルをせっせと採掘し、バスに積み、誰かに資源として搬入されてしまう前にタウンホールまで運ぶという行動を取るのは、資源を3つしか収納できない初期のステータスからしても、極めて非効率的で限りなく不可能に近い。

 ブラックマーケットを利用すれば強力な外国製ツールを使うこともできるが、ジェットパック一つ買えば、時折落ちているものを拾って集めた外貨の残りは知れている。とにかく非力なのだ。一人のプレイヤーの力など。

 そこで私が辿り着いた答えは、町に参加するプレイヤーによって形成されている「共同体」を利用するということ。

 彼ら一人一人の目的は知る由もない。このゲームにチャットは無いから。だが、各々が目的を果たす為に、各々を利用し合うことが合理的なゲームデザインになっているので、結局皆、復興に向かって真面目に働くことになるのだ。

 誰かが資源を採掘すれば良くて、誰かが資源をバスに積んだり、町に搬入したりすれば良くて、誰かが町で必要な施設を建設すれば良くて、誰かが町に迫る脅威を迎撃したり、被害を受けた施設を修復したりすれば良い。その共同体の中で私は、タウンホールにメタルを投入する「誰か」になった。

 目的通りタウンホールのレベルを上昇することができ、晴れて個人住居を建設したときには、TTCにおける世界の定義を理解し、世界を構成する一部になっていた。

 

 ここまでで、TTCについて一通り語ってはきたが、TTCをプレイしていて、個人的に心地良く感じたことについても語っておきたい。

 TTCは、静かなゲームだ。日本の伝統的な美意識の侘び寂びにも通ずるところがある。世界の時間が止まっているかのような静けさを、私は「沈黙」と言い表す。

 見渡す限り平坦で白い景色が広がるボイドには、人の意識が融けているとされている。ボイド上にフッと現れ、フッと消えていく島々は、どれも何だか意味ありげな造形をしている。

 見覚えのある何かっぽかったり、それにしてはちょっと奇妙で、ただならぬ雰囲気を醸していて。

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 今、我々が生きる文明社会が、ボイドに覆われる前の世界だとして、忙しなく、騒々しく、雑多で、混沌としていた世界の残像を思わせながら、島はただ何も語らずにボイドの上に佇んでいる。

 BGMの流れない普段のフィールドから、島がある空間に足を踏み入れると流れ始めるアンビエント系のBGMも、開けた空間に鳴り響いて拡散していく感じではなく、空間に同化し、滞留しているような感覚だ。

 島の高所で、風も吹かず、見渡す限り何も無いボイドを眺めながら木を伐採しているときも、暗闇と危険な敵に備えながら、一層静かな島の内部で、ぼんやりと温かな光を放つ愛らしいキノコを灯りにしながら資源を採掘しているときも、沈黙する世界で単純な作業に集中していると、「自分は今、世界でたった一人」などという感覚に包まれる。

 流動し続ける世界の流れを止めて、そこに佇む一点に集中する。この効果は謂わば瞑想か。

 現実から一歩引いて、心の調子を整える時間をビデオゲームとして人々に提供することは、ビデオゲームというエンターテイメントの特性に合っていると、個人的に思っている。人によっては、これを作業ゲーと一蹴するのだろうけれど。

 私が好むTTCのこの性質と同様のものがあると言えるのは、私が人生で最も気に入っている作品である『ピクミン2』だ。

 小さな宇宙人の目線で、作品内では地球だとは語られない明らかに地球っぽい惑星で、原生生物と呼ばれる見慣れたカエルとか芋虫みたいな面影のある生き物を排除しながら、我々が普段生活している足下の世界で、我々が使っている乾電池だとか・・・あずきの缶詰だとか・・・ゲームキューブコントローラのアナログスティックにあたる部品だとかを、「お宝」としてせっせと集める。

 ピクミン達が力を合わせ、(宇宙人目線で見ると)巨大な(とても見覚えのある)物体を運搬する様は、宛らアリ。

 まだ体が小さく、自分の目線と地面が近かった頃、地を這う昆虫を眺めながら、スケールがまるごと違うのであろう昆虫の生活というものを想像していた。ピクミン2でできるのは、まさにその体験。

 これもまた、現実と地続きでありながら現実から一歩引いている感覚にさせられるもので、普段生きている現実との距離感が堪らなく心地良いのである。

 

 私がTTCについて語れることは、これで全てだろう。けれど私は、TTCにおける「共同体の中での自由」というものについて、満足には触りきれていない部分があったと、TTCのサービス終了後に思わされている。

 TTCがまだサービスを継続していた頃、私はこのゲームのインターネット上のコミュニティやSNSでの情報交換に全く目を通さずにプレイしており、復興を目指す上では無意味な町のカスタマイズなどにも関心を持っていなかった。

 マインクラフトにおいてもそういった楽しみ方があるように、TTCもそういった楽しみ方ができるように作られているのは分かっていたが、そもそも私は、そういった楽しみ方を好むプレイヤーではなかった。

 復興という目的にどうアプローチしていくかということだけを楽しむことに焦点を置いていたので、早い話、あえて人が少なく賑わっていない町に行くようなプレイばかりしていたのだ。

 TTCがとうとう終了されたとき、まだ始まったばかりで、これから多くの人に触れられなければならない素晴らしい作品が、永久に誰にも触れられずに抹消されることに納得がいかず、その意志をインターネット上で表明し、同じように残念がる意志を表明する人々に積極的に賛同を示した。

 そのときから、私のSNSのTLに、TTCで町をカスタマイズしたり、プレイヤー同士で積極的に交流したりするプレイの様子が活発に流れてくるようになった。頭では分かっていたが、やはりTTCは、ゲームを共有するプレイヤー同士が"戯れ合う"場としても、唯一無二の作品だ。

 囲いの中、非力な子どもが儚い自由を無邪気に謳歌し、互いに助け合い、時にからかい合い、皆の力で、皆の居場所を創っていく。TTCは、そんな場所、そんな時間を、人々に与えている作品だった。

 復興するときとは、皆で創った居場所を皆が去るとき。復興が盛大に祝われた後、次の町の復興に向かう為に、再び一人地下鉄に乗り、窓に映る自分の姿を眺めるプロジェクションクローン。

 最初、町にやってきたときと同じ光景が、やけに胸に隙間風を吹かせるとき。

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 ここまでTTCを語ってきた私にすら、満足に触りきれていない部分がある。まだTTCに触れていない人が数多くいる中で、このような創造性に溢れた作品が抹消されるべきではないと、多くのゲームファンが思ってくれることを強く望む。

 私は一ゲームファンとして、ビデオゲームの歴史において、The Tomorrow Childrenのような素晴らしい作品が抹消されることなどない、正しい歴史が続いてほしい。

 

 記事を書く前、スマートフォンのゲームに通ずる基本プレイ無料のゲームとしての話や、近年の日本における(マイクラのような)サンドボックスゲームのブムなども絡めて喋ろうかと考えていたが、結局はTTCというゲームが存在して、そのゲームはとても面白いゲームだったという話だけでいいと考えた。

 何かが生まれるまでには流れがあるが、生まれた何かからまた新たな流れができる。できなければならない。

 そういう意味で、既に生まれているものが生まれて"から"のことに対して、生まれるに至るまでの流れを基準に論考する意味は、特に無いだろう。

 最後に、アメリカのワシントン・ポストにて、The 10 best video games of 2017という題で、2017年に各所で絶大な称賛を浴びた『ペルソナ5』や『スーパーマリオオデッセイ』に、『The Tomorrow Children』が名を連ねていた記事を紹介して、本稿を締め括る。

www.washingtonpost.com