長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

ピクミンというゲームが真実であり永遠であることの証明

https://www.nintendo.co.jp/nintendo_news/sp/140718/pikmin/img/main_visual_img02.jpg

 

人生で一番好きなゲーム、ピクミンの話をする。

遠い昔、ショッピングサイトに投稿した拙いレビューの内容を、今も朧げに憶えている。「可愛らしさの皮を被りながら、自然界の残酷さを突きつけてもいる!」みたいな内容だった。その頃の自分に今の自分が同調するには、もう少し深い言及が欲しいけれど、着眼点には深く頷いてやりたい。

「ゲーム熱が飽和した」と言ってからも、このブログの更新は緩やかに継続している。どの記事も、情熱があってこそ書くことができている。しかし、「飽和した」と言ったときの気持ちは変わっていない。ゲームに対する考え方や向き合い方が、今の自分に合わせて変わってきている。

最初に見出した価値への執着心は、「ピクミン4を待っている自分」にだけ残っている。とっくに、ピクミン4さえプレイできたなら、もう何も触らなくたっていいと思っている。この気持ちを書き記すことができるのは、ピクミン4を待っている間だけだ。

 

現在、ピクミンシリーズは、2001年『ピクミン』(GC, Wii),2004年『ピクミン2』(GC, Wii),2013年『ピクミン3』(WiiU),2017年『Hey! ピクミン』(3DS)の4作品が出ている。作品単位での体験として私が執着しているのは『ピクミン2』での体験になるが、シリーズを追うごとに着実に肉付けされていっている世界観とゲームメカニクスについて語り尽くすつもりなので、シリーズ単位で語りながら各作品に言及していく。ヘイピクのことは喋らないかも。

はじめに、ピクミンシリーズの基礎的なゲームメカニクスについて書こうと思うが、『ピクミン』を初めてプレイしたときのことを話していくのがちょうどいい。シリーズ1作目がゲームキューブ向けに発売されたときのあの有名なCMソングが歌う、「運ぶ~戦う~増える~そして食べられる~♪」というのは、シリーズを通して変わらない。それにしても、このCMソングはキャッチーでありつつピクミンのゲームプレイを的確にプレゼンできていて、改めて感心する。

 

 

ピクミンというキャラクターの儚さや切なさも表現しているのが秀逸だ。当時、この曲のCDはやたらとヒットしたが、良いものだと感じる人が多いのは分かる。しかし、大衆向けのCMで流れることを想定しているこの曲は、店頭に並べられたときの顔となるパッケージのデザインなどと同じく、ゲームキューブの電源を入れてコントローラを握ったときに見せる本当の顔を隠す仮面のようなもの。ゲーム中繰り広げられるピクミンと原生生物たちの生々しい命のやり取りの中で、このような優しいメロディも歌声も聞こえはしない。

N64をきっかけにビデオゲームの魅力に取り憑かれた私にとって、その次世代機であり、スマブラどうぶつの森の新作が発売することを知っていたゲームキューブを購入することは、必然的な選択だった。けれど、子ども心に「もっと他にも面白いゲームないかな?」と、マストバイだと思えるソフトが不足しているという感覚からくる飢えを感じていた。多くのゲームファンが新しいハードを購入したり、購入を検討している際に経験しているであろうこういった感覚というのは、2019年現在のハードであるPS4やSwitchに対してもSNSで呟かれていたりするものだが、これは結局のところ、自分の最初の経験を引きずり、視野が狭くなっている状態だと個人的に思っている。

ゲームキューブ向けの新規IPとして生まれた『ピクミン』は例のCMで知り、特に興味は抱いていなかった。興味の無かった『ピクミン』に触ることになったのは、友人の家でのことだった。初めてN64に触ったのも、その友人の家に遊びに訪れたときだったので、彼は私の身近にいるビデオゲームに関するアーリーアダプターとしての役割を担ってくれていたわけだ。彼が友人で良かったと思う。

ゲームコンソールの性能面での競争において、任天堂が最後に積極的に臨んだマシンであるゲームキューブ。その性能を活かすことを想定し、複数のキャラクターの動きを同時に制御するアイデアから一つの作品へとまとめ上げられた『ピクミン』は、純粋に技術的な挑戦に向き合うゲーム会社任天堂を象徴しているシリーズだ。そういった点も、幾つかあるお気に入りの任天堂製作品の中で、私がピクミンシリーズを特別視している理由だと言える。

ピクミン』に初めて触ったときの第一印象は、「これは…蟻だ」だった。原生生物を集団で叩きのめし、仕留めた原生生物の骸を巣であるオニヨンまで集団で運搬し、原生生物の骸がオニヨンに吸収されると、新たなピクミンの芽がオニヨンの頭の先から放出される。原生生物の骸は、ピクミンが繁殖する際の養分となるエサだ。この時点で、だいぶエグいと思った。

まだ自分の目線が地面に近かった頃、地面に空いた小さな穴から続く黒い一筋の列を観察し辿っていくと、腹を天に向けしおらしく脚を畳んだセミがもぞもぞと不自然に動いている。少し遅れて、その動きは既に息絶えているセミ自身によるものではなく、自分たちよりもずっと大きなセミの骸を、複数の蟻が力を合わせて巣まで運んでいるのだと気づく。このセミの骸は蟻のエサになるのだと理解する。

子どもは、昆虫を観察することにより、命の摂理への畏れを知るものだと思う。『ピクミン』のゲームプレイは、全てを受け入れる無垢な意識に深く根ざしたその畏れを、ありのままに呼び起こす。ピクミンは実在しない創作のキャラクターで、原生生物も皆そうだ。ゲームとしてプレイされるために構築された非現実の行為と光景による命の摂理の直喩は、プレイヤーの意識を一直線に核心へ至らせる。

スーパーマリオシリーズとゼルダの伝説シリーズの生みの親として世界的に名を知られるゲームクリエイター宮本茂が、今よりも積極的に開発の前線に立っていた頃に生まれた『ピクミン』には、ゲーム開発において、ゲームメカニクスなどの骨組みを作ってから物語やキャラクター設定を肉付けしていくという氏の思想が色濃く表れている。インタラクティブメディアとして必然的で強固なデザインが、触れる者に必然的な感情を生む。

ゲームメカニクスについてのざっくりとした話はこんなものにしようと思うが、充分なイメージを与える文章になったのだろうか。蟻の話しかしていないのでは…?しかし、それでいい筈。そう、「蟻ゲー」とでも思えばいい。今作った言葉だ。ピクミンが原生生物の骸を運搬しているスクショを貼っておこう。

 

f:id:omemehikaru:20190522043637j:plain

天敵であるチャッピーの亡骸を10匹の赤ピクミンが運んでいる様子

 

そんな蟻ゲーの『ピクミン』の次作は、3年後の2004年に発売。『ピクミン』から『ピクミン2』になって何が変わったかといったら、ゲームクリアの条件を達成するまでのタイムリミットが廃止されただとか、赤青黄の3種のピクミンに紫ピクミンと白ピクミンが新たに加わっただとか、前作に引き続きストロベリフラワーが担当したCMソングは、ただ各ピクミンの特徴を淡々と述べるだけの面白みのないものになり、あんまりヒットしなかっただとか、そんなことは大して興味は無くて…

私がこれから話そうと思うのは、ピクミンの世界観のこと。ピクミンの世界観については、過去にこのブログでも「我々が普段生活している足下の世界である」と説明しているが、そのように捉えられる描写は、『ピクミン2』以降から積極的に現れている。

第1作目『ピクミン』では、ピクミンシリーズの主人公であるホコタテ星人のキャプテン・オリマーの宇宙船が事故に遭遇し、未知の惑星に不時着。その際に大破し散らばった宇宙船ドルフィン号のパーツを、ピクミンの力を借りて回収していく。『ピクミン2』は、無事に宇宙船の修理に成功し故郷のホコタテ星に帰還したオリマーが、色々あってまたしても未知の惑星にトンボ返りする羽目になるところから始まる。事故に遭って不時着するでもなく、能動的に未知の惑星へと降り立つ『ピクミン2』で回収することになるのは、ホコタテ星において高い価値を持つ「お宝」とされる未知の惑星に存在する様々なモノで…そのモノというのが

 

 

こういったモノなわけである。

このツイート、これをする為だけに買い物中に見かけたこの井村屋ゆであずきの缶詰を買い、ゆであずきが食べたい気分でもないのに結構な内容量で、食べ切るのに一苦労してしまった。

その他の「お宝」も幾つかスクショで紹介しよう。

 

f:id:omemehikaru:20190522044138j:plain

空になったコーヒーフレッシュの容器

 

f:id:omemehikaru:20190522044203j:plain

使いかけのクレヨン

 

f:id:omemehikaru:20190522044220j:plain

ゲームキューブのコントローラのアナログスティック

 

作中で、未知の惑星は「未知の惑星」としてしか言及されず、公式に身長4cm(宇宙服のアンテナ含む)とされているオリマーが遭遇する原生生物は、昆虫 "のような" 生物だけ。「お宝」などは、一貫して我々という存在の「匂わせ」としてのみ登場し、土台は飽くまでも創作から逸脱することはない。

メタな表現に知的なカッコよさを感じて惹かれる捻くれた嗜好だと我ながら思ったりもするが、今現在の技術的な限界の範囲内での写実的な表現や正確な物理演算などにより、現実をそのまま模写することを志向したものよりも、現実ではないが現実と地続きのような錯覚を起こさせるクリエイティブに、私の脳はより核心に迫るリアリティを感じ取る。

誤解を招きそうな流れになったので釘を刺しておくが、ピクミンシリーズの表現は技術的な面においても高水準である。私は、「ハイエンド志向の大作ゲームが追求するフォトリアルな表現がビデオゲームの魅力の本質ではない」だとか、そんな話をしたいのではない。そんな窮屈な話をしても楽しくない。私がビデオゲームに興奮するとき、技術によって夢が拡張している実感は常にある。

VRという完全に新しいエンターテイメントの形として興奮させられた『アストロボット』を除き、既存のビデオゲームの枠組みの中で、そうした実感が伴う興奮を与えられた直近の作品が、以前にこのブログで語っている『The Tomorrow Children』と『ピクミン3』だ。

ピクミン3』は、2013年にWiiU専用タイトルとして発売された。2019年現在はSwitchへと現役の座を明け渡しているWiiUは、一応PS4Xbox Oneと同じ第8世代のコンソールである。2013年は、年末にPS4Xbox Oneが発売され(※日本では翌年に発売)、旧世代向けのタイトルとしても『The Last of US』,『Grand Theft Auto V』という、後に第8世代のコンソール向けに移植されて更に売上を伸ばす作品が発売されたりと、第8世代水準のビデオゲームが一斉に市場に姿を現した時期である。

非常に刺激的で楽しい空気が満ちていたその時期、私にとって『ピクミン3』は紛れもなくその空気の中心にいた。『ピクミン3』は、衝撃的に、感動的に、見たくて堪らなかった美しいビデオゲームの世界を見せてくれた。

 

f:id:omemehikaru:20190522045525j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522050252j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522050305j:plain

 

ピザが…ピザが完全にピザでしかない。

何らかの甲殻類、その美味しそうなピザに巣食うのやめて~!!!!!ってなる。ちなみにヤツの名前はデメジャコだ。ピザの圧倒的ピザ感に勝るとも劣らない圧倒的何らかの甲殻類感を纏っている。息絶えてひっくり返ると、更に生々しい何らかの甲殻類感を放つ。ていうかまず息絶えてひっくり返るのが生々しい。死に方がそれっぽ過ぎる。それっぽいだけで実在はしないのが、良い…。

このように、ピザは完全にピザだし、何らかの甲殻類は完全に何らかの甲殻類だし、何らかのタコ的な生物が噴き出す泡は周りの風景をそれっぽく写し込んで超綺麗だし、花は花で、雑草は雑草で、アスファルトアスファルトで、水たまりは水たまりで、植木鉢の破片は植木鉢の破片で、理科の授業のときに使う電池と電球が連結された実験セットとか、洗い場のタイルとか、工事現場にある警告色のロープとか、空洞が3つあるコンクリートのブロックとか、マンホールの蓋とか…

挙げた内の幾つかは、実際はピクミンの作中では登場していないものも紛れているかもしれない。多分、全部出てきてたと思うけど。記憶があやふやになるくらい、子どもの頃に目線が近かった足下の世界がそのままあるのだ。宮本茂自身が絵コンテを手がけたピクミンのショートムービーは「足下の世界」のイメージが存分に描かれており、丁度良いので紹介しておこう。非公式なアップロードだと思われるので、削除済みだった場合はWiiUニンテンドーeショップでダウンロードすることで見られる。

 

youtu.be

 

とは言っても、これはゲームを先に触っている立場であるが故の意見だろうけれど、このショートムービーよりもゲームとして触ることができる『ピクミン3』の世界の方が、一層活きた説得力を感じる。ゲームとして創られたピクミンの世界は、ゲームとして触られる必然性と切り離されることはない。

ショートムービーで描かれるピクミンと原生生物のコミカルなやり取りも、CMソングと同様に本当の顔を隠す仮面だ。ゲームとしてのピクミンの世界での命のやり取りは、無感情にそれぞれが生存する為の行動を行使するのみ。ショートムービーはよくできている。しかし、これによってピクミンの世界観を補完させる迄もなく、『ピクミン3』が描くピクミンの世界観は美しく完結されているのである。

ではここから、それほど素晴らしい『ピクミン3』の体験がなぜ、私の中で『ピクミン2』の体験を越えることがなかったのか…という話をしていこう。ここからは、ピクミンのゲームメカニクスについて語れることを全て全て語り尽くす。ピクミンシリーズは、各作品ごとに回収するモノが毎回異なっているわけだが、『ピクミン』が宇宙船のパーツ、『ピクミン2』が未知の惑星に由来するお宝ときて、『ピクミン3』で回収することになるのは…

 

 

こういった果実、フルーツである。

このツイートをする為にこの立派なマンゴーを買ったりとかは、別にしていない。貰ったやつだと思う。特にマンゴーを食べたい気分ではなかったけど、美味しかった。ていうか、ゆであずきのツイートのときにも傍らに添えてるピクミンamiiboのデザイン気に入ってるんだけど、ヘイピクはこのamiiboを販売するきっかけになったところだけ評価できるな。

その他の果実も幾つかスクショで紹介しよう。

 

f:id:omemehikaru:20190522051630j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522051652j:plain

キウイフルーツ

 

f:id:omemehikaru:20190522051710j:plain

ドラゴンフルーツ

 

ピクミン3』では、前2作で主人公だったオリマーに代わり、コッパイ星人のアルフ、ブリトニー、チャーリーの3人が主人公となる。食糧危機に瀕する故郷に栽培可能な果実の種を持ち帰るべく、未知の惑星の果実を回収できるだけ回収するのが3人の任務。そして、ゲームメカニクスの面においても、回収した果実は3人が生き延びるための食糧としての役割を持つ。未知の惑星に降り立つ際に、故郷に帰るのに必要なワープドライブキーというものを紛失してしまい、回収した果実の種を持ち帰るにしても、ワープドライブキーを見つけるまでの間はサバイバルをしなければならない。

この食糧システムにより、『ピクミン2』で一度撤廃された、クリア条件達成までの日数を制限するタイムリミットの要素が復活した。1作目『ピクミン』におけるタイムリミットの要素と異なる点としては、『ピクミン』では30日間と固定されていたのに対し、『ピクミン3』では食糧の備蓄に応じて変動する。備蓄が僅かであるときは早急に果実を回収しなければならないし、備蓄が充分であれば余裕を持って1日ごとの計画を立てることができる。1日に行動できるのは、現実の時間で20分。20分が経過するとピクミンの世界は日没を迎え、夜間は原生生物が活発になり危険なため、翌朝まで上空で待機。そしてまた日没まで行動する…というルーティーンだ。

プレイヤーの計画的な行動を促す、クリア条件達成までのタイムリミットの要素。その有無でいうと、シリーズの中で異端である『ピクミン2』が引き換えに持っていたのは、ダンジョン攻略の要素だ。日没まで行動し、夜間は上空で待機するというルーティーンは『ピクミン2』においても他2作と共通しているが、各フィールドには数多くのお宝が眠る地下洞窟へと侵入できる穴が幾つか存在しており、地下洞窟に入ると時間が経過しなくなる。

お宝を求めて地下洞窟に侵入するということが何を意味するかというと、夜間になると地上に出てくる原生生物たちのねぐらに危険を顧みずに赴くということなので、日没までの地上が安全な内に…も何もないってことだろう。作中では、洞窟の中は時空が歪んでおりどうのこうのと何だか適当な理由付けがされている。この理由付けは、時間が経過しないことの理由付けだけではなく、時空、つまり時間と空間のことを言っていて、洞窟内は空間も変化する。入る度に構造が変化するっていう…要するによくあるランダム生成ダンジョンというやつだ。ランダムに生成されるのはダンジョンの構造と敵の位置で、各ダンジョンの各階層で手に入るお宝は固定されている。

危険を冒してでもとにかくたくさんのお宝を手に入れることが主目的である『ピクミン2』のゲームプレイは、受動的なサバイバルにあたっての計画性ではなく、能動的な探検にあたっての挑戦を促している。地下洞窟の攻略は極めて過酷だ。些細な油断で一瞬でピクミンが大量死する。損害が出ればピクミンを再び繁殖しなければならないが、オニヨンは地下洞窟にはついてこないため、繁殖は時間が経過する地上で行う。しかし、クリア条件達成までの日数の制限はない。リカバリーするための猶予は無限にある。

公平な意見を言うと、このダンジョンの要素は、本来のピクミンのゲームプレイにおいて後付け感があるのは否めなかったりする。『ピクミン3』の制作にあたっては、ピクミンのゲームプレイとしての必然性が重視され、解説動画などでは「段取り」という言葉がキーワードになっている。発売後にDLCによって多数追加されたミッションモードは、本編以上に段取りを突き詰めるゲームプレイにフォーカスしたコンテンツになっている。ていうか…『ピクミン3』は本編よりもミッションモードがメインのコンテンツなんじゃないかと言っていいくらいにミッションモードが充実しているのに対して、本編はその…感じ方は人それぞれなのだけれども、個人的にはボリューム不足だと感じてしまったのだ。

ピクミン3』の追加コンテンツがミッションモードだけで、ストーリーモードの追加要素はもう来ないのだと悟った当時の私はかなり荒れていて、Miiverse宮本茂の投稿にクソリプを付けたり、Twitterでもしばらくの間は宮本茂に対して強い拒否意識を示していた。しかし、そのような態度は公平ではないので、ここで同じことを繰り返すわけにはいかない。

まず、『ピクミン3』の本編が本当にボリューム不足なのかどうかについて考えていくとしよう。私は、ゲームの「完成度」というものを「ビジョンの実現度」だと考えている。それで言うと、『ピクミン3』の完成度は優れた水準にあると思っている。『ピクミン3』という作品がプレイヤーに体験させようとしていることの為に必要な要素は、それぞれが美しく噛み合う形できちんと揃っているということだ。

うん…やはり、他のピクミンシリーズの作品と比べても、ゲームメカニクスの規模はむしろ大きくなっている。各ステージの広さ、役割を分担する操作キャラクターの数、各種ピクミンの差別化など。問題は、不足しているように感じさせてしまう何かがあるということ。

見当はついている。それは、ゲームプレイが快適過ぎることだ。これは難しい問題だ…。『ピクミン3』のゲームプレイはめちゃくちゃ快適である。リモコン+ヌンチャクによるポインティング操作は、あまりにもピクミンの操作に適している。第1作目発売当時よりも発達したAIによってピクミンの隊列は自然にプレイヤーに追従し、事故に遭うピクミンが出ても、すぐさま適切に救出の行動を取ることができる。WiiUゲームパッドに表示されているマップから、3人の操作キャラクターのうち、操作していないキャラクターをオートで移動させることができる。そして、いつでも操作キャラクターを切り替えることができる。至れり尽くせりだ。

こういったことに関する議論は既に海外のフォーラムなどでされていそうだし、ここで下手くそな感じで喋り散らかすのもどうなんだろうと思うが…うーん、ゲームってアプリケーションでもあるというか。例えば、スマホのアプリストアで、電卓のアプリだとか時計のアプリだとかと並んで「ゲームアプリ」が提供されている。アプリは常にアップデートされていて、アップデートの目的は主にそのアプリの「機能」を、より快適に利用できるようにすること。

ゲームアプリも、例に漏れずアップデートされる。でも、ゲームが提供していることって「機能」なのか?と。ゲームが提供しているのは「体験」であって、「機能」の最適化と同じ意味で、何かが無駄だとされて取り除かれたりするのって…どうなんだろう?と。ある種の煩わしさもそのゲームを構成する要素として捉えたら、煩わしさを解消することも、そのゲームの体験を形作る要素の一つが無駄だとされて取り除かれてしまっているとも言える。

当然、ゲームとそれ以外のアプリの分別くらいついていると誰しもが答えるであろう。ゲームにはゲームとして必要なアップデートがあるということを否定しているわけではない。拒絶した覚えもない。しかし、曖昧になってはならない境界が曖昧になってしまうことを、境界を意識することでしか防げない実は危うい状況の認識が、それとなくなおざりにされているんじゃないか?という気がしている。

幸い、この2019年には、こうしたジレンマに打ち克っていると思える作品が出ている。『バイオハザードRE:2』だ。この作品は、ゲームプレイの「ままならなさ」を実現すべきビジョンに意識的に組み込んでいた。原作であるPlayStation専用タイトル『バイオハザード2』のクラシカルな体験を再現したものとだけ言って片付けることもできるけれど、数多くの「不正解」とされている形の上に成り立つ「正解」の形が行き渡っている2019年現在、形としては不格好だとも言えてしまうかもしれない「ままならなさ」あってこそのゲームプレイが、計算された上で美しく実現されていることには、希望の光を見出してしまう。

繰り返すが、『ピクミン3』の完成度、ビジョンの実現度は優れた水準にあると考えている。『ピクミン3』からピクミンシリーズに触れる人であれば、その体験に何かしらの不足を感じるようなことはないだろう。過去作を経験している私の立場では、必然的にシリーズの文脈の中での最適化として捉えることになってしまい、結果として、それが張り合いの無さとして作用してしまった。つまり、相対的な要因なのである。そして、『ピクミン3』を相対的にボリューム不足だと感じる大きな要因は、もう一つある。

ピクミン3』 66個

ピクミン2』 201個

それぞれ、ゲーム中に回収できるモノの合計数である。原生生物の骸も回収物としてカウントしたとすれば、『ピクミン2』では『ピクミン3』の倍近くの原生生物が登場するため更に差が開く。この数字のみを単純に比較するのは決して公平ではない。シリーズの中での異端である『ピクミン2』のゲームプレイと、シリーズの本来の思想に則った『ピクミン3』のゲームプレイでは、回収するモノへのアプローチの意味合いに差がある。

ランダム生成ダンジョンに配置される『ピクミン2』のお宝は、ランダムとは言ってもその法則性は知れている。それに対し、『ピクミン3』のフィールド上に配置されている果実は、全て全く異なる方法で回収することになる。レベルデザインの観点で見れば、手が込んでいるのは『ピクミン3』の方だ。レベルデザインが半自動化されていると、職人的なクリエイティブは弱まってしまう。だが、あえて先に数字を並べた。幾ら公平性を慮り理屈を語ったところで、私の気持ちは『ピクミン2』の圧倒的質量が生んだ深淵に収束される。私にとってはそっちが真実。語りたいのはその真実。

『死にゲー』という言葉がある。ゲーマーは皆死にゲーが好きだろう。好きじゃない人だっているだろうけれど、『デモンズソウル』が死にゲーとしてゲーマーの間で話題になってから10年が経ち、『SEKIRO』がイージーモードの要不要について議論を巻き起こしながらも、プラチナトロフィーの獲得率が7.0%(2019年5月21日時点)になっているくらいには、皆死にゲーが大好きだ。私も好きだ。そして私は、『ピクミン2』が死にゲーだから大好きだ。

「いや、ちょっと待って。死にゲーの定義ってなんだったっけ?」って感じになるだろうと思いながら言ったので死にゲーの定義について言うと、「なんとなく」だ。そんなもの定義しなくていい。少なくともここではしない。こういう死にゲー的バイブスってあるよね!っていう話をしたい。

死にゲーの好きなところは、敵から殺意を感じること。ということは、戦うべき「敵」という因子が存在するゲームであっても、敵からの殺意を感じないゲームもあるっていう話になるんだけど、その違いって何なんだろうか。『ダークソウル』に初めて触ったときから、ずっと考えている。このブログでも、そのことについての考えの言語化を何度か試みており、「古典的だから」とかで納得してるパターンが多い。もう少し踏み込んでみよう。

殺意を感じない方のゲームについては、「こういう遊び方をするゲームですよ」というゲームデザインの主張が強くて、その遊び方が楽しいものとしてデザインされているし、実際にそれなりに楽しいんだけど、敵との関わり合いが予め決められた型の答え合わせをしているみたいになっちゃうとか、単純に敵が脆いだとか、あんまり攻撃してこなくて棒立ちだとか、お客様として接待されてるみたいだとか、そうなのかなー?と思うようなのは浮かんでくるんだけど、核心に近づいていくために考えるのは、多分こっちではない。

ソウルシリーズのディレクターを務める宮崎英孝は、『デモンズソウル』について「どうやって死にゲーとしての難易度調整をしているのか?」と訊ねられ、「していない」と答えたという。(当該記事)この証言は重要である。死にゲーは調整されているものではない。つまり、ゲームを構成する最小単位以外の余分な意図が介在していないということ。敵はその世界にただ存在し、存在しているからには意志がある。出会ったプレイヤーを殺すのだという意志が。その純粋な意志だけが、私がその手に握るコントローラを通じて向き合っていたものだということ。

あとは、それぞれの生物がどのようにプレイヤーを殺そうとするのかさえ表現されていれば、その世界の命の摂理は真実になる。大口を開けて直接捕食したり、鋭い口吻で貫き体液を啜ったり、嘴で啄んだり、粘着質な舌で絡め取ったり…或いは、捕食するでもなく、踏み潰そうとしてきたり、上空から連れ去り隊列とはぐれた場所で解放したり、隊列のピクミンたちに特殊な音を聞かせて指揮系統を撹乱してきたり、ピクミンたちが運ぶモノを横取りしようとしてきたり。それぞれの生物が、ただ純粋にそれぞれの目的を遂行しようとする。

直接的な害のない行動を取る生物がいるのもリアルだ。生物の生態とは、捕食のように直接的な行動を除き、往々にして奇妙に感じるものである。我々人間には人間の生態があり、生きとし生けるものは皆異なる生存戦略で自然界を生き抜いているのだから、我々にとっての常識では理解し難い奇妙な行動として映るのは、当然といえば当然である。そしてほとんどの場合、直接的な害のない行動こそがプレイヤーが予期しない大惨事を引き起こす。むしろ、そういった生物がいるときの方が、最悪なケースの死を意識してイヤな緊張感に包まれる。

ところで、ピクミンシリーズの場合、原生生物たちに襲われるのはピクミンたちであり、プレイヤーが操るオリマーが直接に生命の危機に晒されることはない。「プレイヤーを殺そうとする」という流れからは話が少し食い違ってしまうので補足しておく。

そして、補足ついでに面白い話をしよう。『ピクミン』では、ゲーム中にオリマーが死んだフリをする操作が存在する。オリマーがその場に寝転がってすぐは何も起こらない。ところがしばらくすると、それまでオリマーに追従していたピクミンオリマーを運搬し始める。そのまま様子を見ていると、なんとオリマーがオニヨンに吸収されてしまうのだ。まぁ、つっかえて吸収失敗するというオチの小ネタなのだけれど。任天堂の黒い遊び心にゾクッとする小ネタだ。

ピクミンオリマーと遭遇したそのときから、オリマーがエサになるのを待っている。ゲームが始まった時点から、プレイヤーの分身であるオリマー自身が常に死と隣合わせの状況に置かれていることは、最初に出会った原生生物であるピクミンとの関係性こそが示しているのである。

ピクミン2』における圧倒的な回収物と原生生物の数を正義たらしめている要素として、お宝・生物図鑑に言及しないわけにはいかない。まずは、お宝・生物図鑑を閲覧中に流れるこちらのBGMを聴いてほしい。

 

youtu.be

 

別に聴いたからどうこうってわけでもなく、私がこの曲が好きだから推したいってだけなのだけれど。

この曲に限らず、ピクミンシリーズは音楽も大好きだ。フィールドBGMなどは、我々の目線からのノスタルジーと、異星人であるオリマーの目線からの未知の惑星を探検するスペクタクル感がうまくブレンドされている。

お宝・生物図鑑のBGMに関しては、現在は終了しているクラブニンテンドーのポイント交換特典『NINTENDO SOUND SELECTION VOL.3』に『flora and fauna』という曲名で収録されている。flora and faunaの意味は、科学分野において「動植物」を指す専門用語らしい。ベテランの宇宙船パイロットであるオリマーは、学術的な専門知識に精通している人物としても描写されている。「ピクミン」や「オニヨン」などの名前はオリマーによる命名で、そういった情報は、ゲーム中にオリマーのレポートとして記述されるテキストを読むことで得られる。

お宝・生物図鑑に記録される全ての原生生物とお宝に対しても、オリマーメモとされる記述が添えられる。更に、生物図鑑の方では、オリマーの後輩でありゲテモノグルメ趣味のあるルーイによるグルメレポート、お宝図鑑の方では、人工知能を持つドルフィン初号機による小粋なセールストークなども添えられる。任天堂の制作方針上、世界観の設定がそれ程細かくは定められていないと思われるので、細かいところまで読み込むと矛盾点に気づいてしまったりはするが、キャラクターごとの描写が凝っていて愉快だし、世界観を拡張する要素として良質なものになっている。

異星人・異文明の視点からの「我々という存在の匂わせ」へのアプローチとして、図鑑の各項目ごとでのダイレクトだが決して核心に辿り着くことはない言及というのは、この上なく効果的な演出なのである。彼らは本当のことは何も分からないので、戸惑いながらも想像を巡らせ…

 

f:id:omemehikaru:20190522055824j:plain

 

そして、テレビの前にいる我々としては、「いや、ソレはだって…アレだよね」となる。

 

f:id:omemehikaru:20190522055938j:plain

誰かの入れ歯


フィクションの世界にいる彼らはスレスレまでこちらに接近し、しかし我々に接触することはない。すると我々にとっても、常にスレスレの見えないところに彼らの存在を感じることができる。出会わないからこそ、永遠に。春が、夏が、秋が、冬が、訪れる度にふと地面を見下ろしては、彼らの影を重ねている。生涯、そうしているのだろうと思う。

 

f:id:omemehikaru:20190522060649j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522060716j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522060732j:plain

 

f:id:omemehikaru:20190522060749j:plain

 

なんかエモい感じの流れで出てきた割に絵面があんまりエモくないこちらの『ピクミン3』のスクショ、どこかで貼るつもりでいたのだけど、このままいくと終わる感じの流れになっちゃったから、流れを気にせずぶっこんだ。春夏秋冬でうまくかけた気にはなっている。

「春夏秋冬それぞれの季節を感じさせる各ステージで、春夏秋冬それぞれの季節の旬を思わせる果実を一箇所に集めてみた」という趣旨で撮影されたこのスクショ。『ピクミン2』の質量が失われ、ありもしない深淵を求めて虚空を彷徨っていた私の『ピクミン3』のプレイ時間は、300時間を越えている。その果てに辿り着いたのが、名付けて「集めて撮るプレイ」だった。麻痺してるかな…と思ったりもするけど、結構楽しいんだ。これ。ていうか、本当のことを言うと

 

f:id:omemehikaru:20190522060818j:plain

 

ガチでやるんなら目指すのはこれだ。

最初は、果実だけを集めてみた。回収して食糧にすべき果実を意図的に回収寸前で放置するということなので、食糧にありつけずにゲームオーバーになってしまうリスクを背負う縛りプレイにはなるわけだけれど、撮影を目指しているステージ以外で果実を回収して補えばいいし、補う為に果実を回収してしまったステージで撮影を目指したい場合も、『ピクミン3』では過去の全ての時点から再開することが可能であるため、どうとでもやり繰りできる。

その程度じゃやる意味が感じられないってことで追加したルールが、原生生物の骸も集めること。このルールが加わると、やらなくてはいけないことが一気に有機的になる。集めるモノが果実だけの場合と大きく変わるのが、果実は回収するまでステージに存在し続けるのに対して、原生生物の骸は一晩またげばステージから消失してしまうこと。よって、果実を先に集めておき、後日、原生生物は1日の内に全てを倒して集めるというのが大まかな工程になる。

制限時間内に目標を達成するという、『ピクミン3』が志向している段取りを極めるゲームプレイである上に、自律的に回収物を運搬するピクミンにギリギリのところで回収を中断させる作業が加わり、目標達成の条件を満たすには、最後のスクショに自分自身が納得できなければならない。張り合いにしても、達成感にしても、この「集めて撮るプレイ」が気に入っている。

「集めて撮るプレイ」を今から始めるとしたら、WiiUのスクショ周りの仕様は残念な感じだし、主観視点でのフォトモードは投稿先兼保存先であるMiiverseが終了してしまったために利用できなくなっているので、Switch版『ピクミン3』の発売が待たれるところだ。WiiUの次世代機というよりも、WiiUの仕切り直し感のあるSwitchに移植されているWiiUタイトルは多いけれど、今のところ『ピクミン3』に順番は回ってきていない。Switchにはいずれ『ピクミン4』が発表されるであろうと私は予想していて、『ピクミン3』の移植版が発売されるとしたら、『ピクミン4』のプロジェクトの動きに合わせて展開される可能性が高いと思っている。

結局のところ、今これを書いている今日の日付は5月21日なわけだが、6月のE3に合わせた任天堂の発表で、ピクミンシリーズに関する発表があるのか?…ということだ。もし発表があったなら、それを受けてまた色々と考えたり思ったりをしてしまうだろうから、E3前までに今書けることは全て書いておきたかった。本当、5月中に書き上げられてよかった…。

任天堂内製ではなく、ゲームデザインの面においても源流とは別の流れである『Hey! ピクミン』を例外として、ピクミンシリーズは長く沈黙している。その沈黙が破られるとき、このゲームが真実であり永遠であることをこうして証明した私にとってそれまでの時間が結果的に深く尊い意義があったように、任天堂にとっても、ピクミンシリーズにとっても、深く尊い意義のある時間だったのだと、そう思えることを切に願っている。