長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

有機的なゲームプレイとは

 

 現在、12月8日に発売した『ドラゴンクエストビルダーズ2』をPS4でプレイしている。進行状況としては、メインストーリーが展開する2つ目の島の攻略に差し掛かったところ。前作でいったら第二章に入ったところだ。今作のゲーム進行の構成をざっくり言うと、ストーリーの開始地点であり、主人公が全編を通して開拓していく「からっぽ島」というエリアが、前作でいうフリービルドモードの位置付けで、第一章のストーリーが展開するエリア、第二章のストーリーが展開するエリアへと、船で海を渡って移動する。船で移動するとは言っても、オープンワールド形式でマップがシームレスに繋がっているというようなわけではなく、その都度ロードを挟んで別のエリアを読み込む形式だ。マップが全て繋がっているわけではないものの、ゲームプレイが一繋がりになるよう統合されたのは良い変更だ。ビルダーズのストーリーモードは、前作と今作のいずれにおいても、農業に適したエリアでは農業のチュートリアル、鉱石の採掘に適したエリアでは採掘のチュートリアルの意味合いがある。それぞれの島で覚えたこと、出会った人、手に入れた資源を、からっぽ島という拠点に持ち帰り、主体的に村や街を作っていくという流れが、今作ではより必然性のあるものになっている。

 ビルダーズ2についての感想としては、現時点ではこれくらいになる。今回は、ビルダーズ2の話をするにあたって、昔考えていた「優れたゲームとはどんなゲームか」という持論について、このブログで整理していきたいと思う。その持論を語っていく上で、ビルダーズ2は丁度良い。持論がおおよそ完成したのは、おそらく『Minecraft』をプレイした後だ。マイクラをプレイする以前だったとしても、まさに望んでいた通りのゲームだったのがマイクラであり、故に、マイクラTwitterにて挙げた #私を構成した9本 に含まれている。この先も外れることはないだろう。

 マイクラを、ひいてはマイクラをはじめとするサンドボックスというジャンルを、最も優れたジャンルだと、一時期本気で考えていた。省みるような言い方をした理由は、私がずっとゲームに求め続けていた欲求は、マイクラや、同じく #私を構成した9本 に含めている『The Tomorrow Children』に触れたことにより、とうとうダイレクトに満たされたので、そこから先は、ゲームに対する考え方をアップデートする意志を込めて、かつて出来上がった持論には意識的にこだわっていないためだ。だが、間違いなくゲームに対する考え方の固く大きなベースにはなっているので、整理する意義はある。

 サンドボックスのゲームであるということが、前作『ドラゴンクエストビルダーズ』をプレイしようと思った動機であり(ちなみに、本家のドラゴンクエストシリーズは1作もプレイしたことはない)、今作『ドラゴンクエストビルダーズ2』を現時点で高く評価しているのも、私の考えるサンドボックスゲームとしての理想的な水準を概ね満たしているからだ。それは、私の考える優れたゲームについての持論に適っているということにもなると思う。

 少々もったいぶりながらここまで話してきた持論とやらの内容については、既にタイトルに書いてある「有機的なゲームプレイ」がキーワードになる。有機的とは、多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っているさま(コトバンクより)のことだ。この言葉の説明だけで充分な気がする。あえてマイクラは後回しにするとして、私がゲーム性を高く評価している幾つかの優れたゲームプレイが、いかに有機的であるかを話していこう。多くの部分が集まって構成される一つの「全体」がゲームプレイで、構成要素となる「因子」は、ゲーム内でのプレイヤーの行為に意味を持たせるもの。

 『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』は、3日間というゲーム内の時間経過に意味がある。ムジュラの仮面の世界において、プレイヤーはゲーム全編を通し、4日目の世界でゲームプレイすることはない。また、3日目の時点から2日前に戻ることはできるが、更に前の日に戻ることはない。例えば、今これを書いている2018年の12月29日から、2018年の12月31日の間をループし続けて、ずっと年を越すことがないような状態だ。ゲーム内で時間が経過するというだけなら、他のゲームにだってそれっぽい要素はありふれている。しかし、ただゲームの世界に昼夜の概念を取り入れているだけなら、一定時間ごとにフィールドの明るさが変わるように演出しているに過ぎない。世界が「祭りの準備に浮かれている朝」だから起こる出来事も、「迫り来る滅びをただ受け入れるしかない夜」だから起こる出来事も無く、無為にフィールドの明るさが変わっているに過ぎない。ムジュラの世界の3日間には、常に、その日その時だから起こる出来事がある。時間に意味があるとはそういうこと。この3日間という時間は、ゲーム全編を通してプレイヤーに関わり続けている。プレイヤーがゲーム内で起こす行動全てが、3日間をいかに有意に過ごすのかという働きかけになっている。

 『DARK SOULS』は、プレイヤーキャラクターの死に意味がある。ここでは、有機的なゲームプレイとはまた別で考えていた、ゲームオーバーという概念について思うことを話していこう。戦闘の要素があるゲームは数多い。ビデオゲーム過半数はそうだと言ってもいい筈だ。それに伴い、プレイヤーキャラクターを襲う敵キャラクターというものが存在し、プレイヤーキャラクターが敵キャラクターの攻撃によって一定のダメージ判定を受けると、プレイヤーキャラクターは行動不能となり、プレイヤーはゲームプレイをやり直すことになる。この「やり直し」は、今日ではコンティニューだとかリトライだとかリスタートだとか、その全部が違う意味合いでゲームシステムに取り入れられていたりとかするわけだが、元を辿ると、1コイン1プレイのアーケードゲームを求めてゲームセンターにゲームをプレイしに訪れていた時代、プレイヤーキャラクターが一定のダメージを受けて行動不能になった時点で1コイン分のゲームプレイは終了であり、そのことをゲームオーバーと呼んでいた。やり直しは、もう一度コインを投入すること。コインを投入する度に、スタート画面というゲートから「いらっしゃいませ」と迎え入れられる。初期の家庭用ゲームは、そういったアーケードゲームが家庭でプレイできるようになったという流れであり、本来はコインを投入するごとにゲームスタートであったところが、コインを投入しなくとも何度でもゲームスタートできるようになったということになる。「いらっしゃいませ」も何もない。この時点で、1コイン1プレイを想定したゲームデザインに付随するゲームオーバーという概念は形骸化しているのだと考えた。

 家庭用ゲームがビデオゲームのメインストリームへと発展していく流れで、1プレイが長大なRPGというジャンルが家庭にビデオゲームが持ち込まれたことで切り拓かれた新たな体験として世の中に受け入れられ、同時に、ゲームプレイの進行状況を保存・セーブするという概念がゲームシステムに取り入れられ始めた。であれば、形骸化したゲームオーバーという概念の呪縛から、ビデオゲームは解放されたのかというと…どうだろう。少なくとも、私が家庭用ゲームでプレイしてきた多くのゲームは、ゲームオーバーはゲームオーバーとして通例通りに取り入れられていたと思う。ゲームプレイにメリハリをつけるペナルティなんて言っても、その罰を与える必然性について作り手はどこまで踏み込んで考えたのだろう。RPGを標榜する作品に限らずに、一般的な家庭用ゲームはセーブシステムがあることを前提にしてゲームプレイが長大になっていく。そのような状況において、ゲームオーバーというゲームプレイの一時的な停滞は、単なるストレス以外の意味を提示できない例が多かったのではないかと思う。

 DARK SOULSを初めてプレイした2011年から7年の間にも多くのゲームをプレイしてきているので、今では、DARK SOULSだけがそうだったわけじゃないかもしれないと思うし、DARK SOULSのゲームプレイが優れている理由はそこだけではないと思うが、当時、あらゆる面でゲームの楽しさの本質を多くのゲーマーに思い出させたDARK SOULSはやはり、プレイヤーキャラクターが死に、チェックポイントである篝火から再出発するという一連の流れにも確かな意味を持たせていた。死に意味があるから、プレイヤーはDARK SOULSのゲームプレイにおける死を強く意識し、敵キャラクターの殺意も強く意識する。死ぬかもしれない脅威と、死んでしまった場合のリカバリーに常に働きかけ続けている。あらゆるゲームで、 "ちゃんと" 殺意を感じたいという気持ちは今も強くある…。

 最も好きなゲームである『ピクミン2』も優れたゲームプレイの例として挙げたいところだが、ピクミン2については、一つの記事で話そうかと思っている。今私が「最高」とまで言うゲームは全て、有機的なゲームプレイの理論の根拠になっている。『The Tomorrow Children』にしてもそうだ。それぞれ、どういった因子に意味があるのかだけ書いておこう。ピクミン2は、プレイヤーがリアルタイムに制御・管理する「群れ」と、その群れが関わり合う「生態系」に意味がある。TTCは、オンラインを通じて複数のプレイヤーによって形成される「社会」に意味がある。TTCの方は既に一つの記事で話しているのでリンクを貼っておく。

coretomayu.hatenadiary.jp

 まさに望んでいた通りのゲームだと言った『Minecraft』は、本当に「有機的」の言葉の説明のままだ。 "多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っている" 。森、山、川、洞穴を構成するブロック状のマテリアルの全てが、プレイヤーが新たに何らかを生み出す為の資源になっている。プレイヤーが必要な資源をフィールド…の役割を為す無数のブロック状のマテリアルの集合体から採集する度に、世界は形を変える。世界の全てにプレイヤーは干渉できる。マイクラでは、「武器が無いならそこに飾ってある武器使おうよ」と思ったら「これはオブジェクトという名の飾りであって実質的には武器ではありません」とか、「爆弾とかハンマーとかロケランとか使えば壊せそうな壁だよね」と思ったら「年季が入ってボロボロになっている木の壁を演出するテクスチャが貼ってあるだけで、インタラクションできる対象ではないので壊れたりとかはしません」とかいった感じに、ゲームとは関係無い外側の世界のリアリティを見せつけられ、色々と察しながら物分りのいい大人の態度で作られた世界を楽しまなければならないと自分に言い聞かせる場面にぶち当たるようなことはない。物凄く固い物質はあるけど、固い物質を砕く手段がある。「固さ」という意味にプレイヤーは働きかけることができる。

 しかし、この理屈を以って『Minecraft』のゲームプレイを最も優れているとするのは、あまりに即物的なのだろうかと今は思っている。私と同じようにマイクラのゲームプレイに魅力を感じている人というのは、思った程多くない印象がある。マイクラは世に出てから結構長い年月が経過しているゲームであり、2014年に初めてマイクラに触れた私の反応は、世界中の多くのゲームファンにとっては、とうの昔に通り過ぎたものだというのもあるのかもしれない。同時期に、マイクラは日本において低年齢層を中心に火がつき、その人気は現在も継続しているが、ブームの本質は、レゴブロックのような建築に焦点が当てられている。サンドボックスゲームのブームの波に乗るべく、ドラクエフランチャイズを掲げて開発された「ドラゴンクエストビルダーズ」においても、プロモーションで前面に押し出されているのは、やはり建築だ。とはいえ、マイクラはサバイバルモードが廃止されたりするわけでもなく、マイクラのプレイヤーは建築の下地を自力で構築していくゲームプレイを(多分)素直に楽しんでおり、「ドラゴンクエストビルダーズ2」も、からっぽ島の開拓というプロセスを、からっぽ島で気ままに建築をしていく下地の構築として楽しめるよう志向していると言える。

 「遊びやすさ」という点でマイクラとの差別化を図っているビルダーズは、戦闘用武器と採掘ツールにそれぞれ専用のコマンドを設け、耐久値の存在によってツールが消耗品となるシステムを廃止していたり、きちんとしたストーリー仕立てで懇切丁寧なチュートリアルを施してくれる。プレイヤーの能動性をギリギリで尊重しながら、建築の手本を見せてくれる設計図システムと、マイクラにおいては特殊なギミック系のブロックを用いて組み立てられる装置によってなされる資源生産の自動化を、ゲーム側が特定の目的の部屋を認識する部屋レシピのシステムとプレイヤーをサポートするNPCの自律的な行動によって実現しているのは、サンドボックスというジャンルを単なる便乗に留まらずに主体的に発展させることができていると評価していいように思う。

 私の今の姿勢としては、有機的なゲームプレイの理論にいちいち当てはめていかなくともいいと思っているが、当てはめるとするなら…「拠点」の機能に意味がある。「拠点」という因子がゲームプレイの中心として活きているといったところだろうか。けれど、こうして考えてみたら、ビルダーズ2を良いゲームだと思うのは、「良いサンドボックスのゲームだから」ではないだろうと思ってきた。サンドボックスのゲームとして有機的かどうかを見ると、やりたいことを自分のやりたい順番でやっていくマイクラとは、世界との関わり方が異なる。飽くまで、マイクラのゲームプレイをサンドボックス有機的だとする所以とするのなら、ビルダーズ2はその方向性を拡大しているものではない。ビルダーズ2はビルダーズ2なりに、サンドボックスをビルダーズ2のゲームプレイに落とし込んでいる。やはり、「○○こそが有機的であり、優れている」という固定観念を据えていては、却ってゲームに対して盲目的になる事態を招いてしまうだろう。ゲームに対する考え方のアップデートに備え、これまで考えていた持論を整理したことの意義を実感できた。ビルダーズ2については、高度が前作から倍以上になっていることにも触れておこう。グライダーで滑空して広いフィールドを伸び伸びと移動するのが、とても気持ちいい。