長めの独り言置き場

家庭用ゲームの話題中心に、書きたいこと書いていきます。

ゲーム熱の飽和へと向かう過程 2016年の総括

先日、ゼルダの伝説BotWに次ぐ、Nintendo Switchの最大注目タイトルとして発売を待ち侘びていたスーパーマリオオデッセイで、全てのパワームーンを集め終わり、プレイを締め括った。

現在、積んでいるゲームや気になっているゲームは多数あるが、正直なところ、今はゲームに対する熱が飽和している状態だ。

2016年と2017年は、個人的に注目・期待していた作品を立て続けに消化したからだ。

ゲームへの熱をリセットすることも兼ねて、書こうと思っていた話をアウトプットすることに集中しようと思う。

今回の記事では、ゲームへの熱が飽和する理由になった2016年と2017年にプレイしてきたゲームを通して、思ったことや考えたことを順番に振り返っていく。

 

2016年1月頃、The Tomorrow Childrenのクローズドβテストをプレイ

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後に同年6月頃のオープンβテストにも参加し、同年9月の正式サービス開始後もプレイしている。

今年の7月に突然サービスの終了がアナウンスされ、9月にストアでの配信が終了、11月にサービスが終了してしまった。

ごく限られた期間にしか触れることのできなかった、謂わば幻の作品と言える。

結論から言うと、私の最も好きな作品の一つとなり、ゲーム観への刺激を受けた作品だが、この作品については一つの記事で纏めようと思っているので、この場ではこの程度の言及に留めておく。

 

2016年5月頃、DownwellのPS4版をプレイ

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同年8月頃、風のクロノアアーカイブスをPSVITAでプレイ

http://j.dl.playstation.net/j/NPJJ00585/npjj00585_3.png

 

Downwellは、私がよく動画を閲覧しているYouTubeの動画投稿者が話題にしていたのをきっかけにして知った作品で、私が知った時点では、恐らくiOS版とSteam版しか配信されていなかったように記憶しているが・・・詳しくは覚えていないので誤りがあるかもしれない。

作品の存在自体を知ってからは暫く経った後、PS4版も提供されているということをどこかで知り、価格も安価だったのですぐにダウンロードした。

ガンブーツという足に装着する銃火器を攻撃手段に、敵を迎撃し掻い潜りながら、井戸の底までひたすら落ちていくというゲームで、ゲームデザインとしては画面下方向にスクロールしていく縦型シューティングアクションゲームと言えば説明できるのではないだろうか。

ゲーム全体の構成はコンパクトなボリュームでありながら、アクションゲームとしてかなり骨太なバランス調整になっていて、私はアクションゲームをメインに好むゲームファンを自負しているが、ハッキリ言ってめちゃくちゃ難しいゲームだ。

プラチナトロフィーを獲得する為に、ノーマルモードをクリアするとアンロックされるハードモードのクリアにも挑んだのだが・・・

 このような結果になっている。プラチナトロフィーは獲得できていることになっているが、私は未だにハードモードをクリアできてはいない。

あともう一歩!というところまではいけるんだ・・・でも突破できない。この絶妙なもどかしさ。だから何度も挑戦したくなる。

黒と白と赤の3色のドット絵によるローテクを感じさせるヴィジュアルも相まって、宛ら古い時代のワンコインワンプレイのアーケードゲームのよう。まぁ私はリアルタイムでそういうのを触ってはいないのだけど。

開発者はもっぴん (@moppppin) | Twitterという方で、開発当時は現役の大学生でありながら、ほぼ一人でDownwellを開発したとのことで、国際的に注目を集めたそうだ。

 今年の6月頃に見た、このBranching Pathsという日本のインディーゲームシーンのドキュメンタリーにも出演していた。

 

風のクロノアは、ゲームの概要と感想については今更紹介することもないだろう。Wikipediaによると、1997年にPlayStation向けにnamcoから発売されたアクションゲームとのこと。丁度20年前か。

私個人にとっては、PSプラットフォームで購入して手元に置いた最初のゲームだったりするので、古くから愛着のある作品であり、今でも楽しんでプレイできるシンプルで良質な2Dアクションゲームといったところ。

話したいのは、この風のクロノアアーカイブスをプレイしたプラットフォームであるPSVITAについてだ。

2016年の夏頃は個人的に目ぼしい新作が無かった時期で、何かプレイしようと思い、風のクロノアアーカイブスに至った次第なのだが、最初はPS4でプレイしようと思っていた。

ところが、PS4アーカイブスに対応しておらず、では久々にPS3を起動するしかないのか・・・と思ったところ、そういえばVITAは対応していなかったっけ?と。

結果、VITAはアーカイブスに対応しており、PS1のゲームは今となってはコンパクトなゲームだし、VITAでも構わないだろうと思い、ここから、むしろコンパクトなゲームはハンドヘルドでプレイするのが丁度いいという気持ちが強まっていった。

以前の記事でも言及したけれど、コンパクトなインディーゲームもアーカイブス同様にハンドヘルドと相性が良いと考えており、この記事を執筆する前に、先述したDownwellもクロスバイを利用してVITAの方にもダウンロードし、プレイしてみたが、やはり相性が良いと感じた。

現在SIEは、ハンドヘルドのコンソールの展開には消極的な姿勢を見せていて、主に国内のPSP3DSのような市場の盛り上がりを望むゲームファンから失意の念を向けられているところをよく目にする。

SIEがPSP3DSのような市場の維持にフォーカスしていないことに関しては、個人的には特に問題無いと思っているが、SIEのハンドヘルドへの取り組み自体は必要以上に悲観しなくてもいいのではないだろうか。

Nintendo Switchのようなハイブリッドスタイルは家庭用ゲームコンソールとして最も合理的な帰結だと私は思うし、Switchの販売が好調ということもSIEへの刺激になるであろうことを考えると、PSフォーマットの一つのモデルとして、ハイブリッドモデルが提供されるのはありえないことではないと思うというのは、以前にも話した通りだ。

ただ、PS4のOSはおそらくそのような展開は想定していないと思われるので・・・SIEがそういったアプローチを仕掛けてくるとしたら、次世代以降ということになるだろうか。

将来の話についてはどこまで考えても憶測の域は出ないので、この辺にしておこう。

 

2016年11月頃、FINAL FANTASY XVをプレイ

 

同年12月頃、人喰いの大鷲トリコをプレイ

 

この2作品は、PS3のときから待っていた最大注目タイトル。

発表から発売までに10年かかったという話をよくされる2作品で、私としては流石に発表されたときからは待っていなかったが、それでもPS3を購入する前の年の2010年くらいには既に存在を知り、注目していた。

元々PS3向けだった筈が結局PS3で発売に至ることはなく、PS4で発売するということになった後も、世代が一つ上がり、よりリッチなゲームプレイになるのだろうと純粋に楽しみにしていた。両作品とも、PS4で最も期待していたタイトルと言っていいだろう。

私は、主にこの2作品の為にPS4を購入したし、この2本を待ちながら色んなゲームをプレイしていた。

両作品とも世間では色々と言われたようだが、この2作品のゲームプレイは私としては待った甲斐があり、ここに辿り着いたことが感慨深く、ゲームへの熱はこの辺りで燃え尽きた感じがある。

感想は・・・ここで書いてしまうと長くなってしまうので簡潔にだけ書くと、FFXVは、FFXIIIにもあった、FF開発チームの創り出すあのなんともいえない繊細で雄大で幻想的な、心しか踊らない世界を、極めて美麗で尚且つリアルな質量を感じるフィーリングでゲームプレイとして実現されていることが、まずその時点で最高。

そんな世界の大自然の中を、ドライブしてサバイバルしてキャンプして、幻想的なのだけど、まるで現実の世界で旅をしているような現実味のある各地のロケーションに癒やされながら、思う存分浸れる。

FFというシリーズ自体は長い歴史もあり知名度も非常に高く、FFXVから採用されたオープンワールドの技術は、2010年代の後半ともなってしまうと目新しいものではないので、「オープンワールドのFF」と言葉で言ってしまうと雑なイメージしか浮かばないような気がするが、FFXVという作品は極めてユニークで、そのゲームプレイは唯一無二と言える。

個人的に特に好きなロケーションは、カーテスの大皿・・・カエムの岬・・・その近くの岩礁もいいな・・・ラバティオ火山も凄いし、地味な山間の道とかも好きだし・・・うん、全部好き。

ドライブとキャンプの要素は、FFXVIでも引き続き打ち出してほしいな。あれは大事にした方がいい。

人喰いの大鷲トリコは、ワンダと巨像のときと同様に、技術的な部分とレベルデザインが完全に一体感を持っていて、どこまでを技術として称賛すべきで、どこからを職人芸として称賛すべきなのか分からない、上田文人氏の3Dゲームネイティブなクリエイティビティが最高。

水かさを使った謎解きに感動したのが特に印象に残ってる。

多分この先も、この人が創ったゲームなら触ってるだけで幸せになれると思う。だからまた、コンシューマー向けに間を置かずに新作を出してほしいな。

 

この記事は一旦ここで〆て、2017年の総括は別の記事にて纏める。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・下

前の記事からの続き

 

さて、ここまでBotWの感想を書いてきたけれど、これはいわゆるレビューというような、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドという作品に評価や判定をくだすものではない。

ゲーム内容の特定の部分に集中しているから、いずれにせよ未プレイの人の参考になるようなものではないだろうけど。

個人的な感想は充分に語れたので、ここからは俯瞰的なことについて話していく。

 

最近、ゲームに対して「モダン」という言葉が用いられているところをよく目にする。

「今風」くらいのニュアンスに捉えていればいいのだろうけど、辞書に載っている意味としては、「現代的」や「近代的」と説明されている。

私が日本語でそういった表現がされているのを最初に見たのは、FINAL FANTASY XVだった。

FFXVゼルダの伝説BotW同様に、開発体制が大規模に刷新され、過去作から続くある程度定型化されたゲームデザインが大きく転換された作品だ。

単純に解釈して、オープンワールドになった最新作のFFやゼルダがモダン、つまり現代的・近代的ということは、オープンワールドになる前のFFやゼルダは現代的・近代的ではなかったということになる。

スタンドアロンのFFとしてFFXVの1つ前の作品であるFINAL FANTASY XIIIが発売されたのは2009年で、ゼルダの伝説BotWの1つ作品の作品であるゼルダの伝説スカイウォードソードが発売されたのは2012年。

その時期には既に、オープンワールドという言葉はある程度ゲームの話題を追っている人には浸透していたように記憶している。

アサシンクリードGrand Theft AutoオブリビオンFalloutなどの海外製のゲームの認知度と共に。

私はゲーム開発者ではないし、そういった知識に詳しい自負も無いので、ほとんど聞きかじった話と印象に依った話にはなってしまうけれど、00年代に、自社プラットフォームに向けて開発する任天堂SCE(現SIE)も含めた日本のソフトメーカー各社が、家庭用ゲーム機のハードウェアとしての性能向上に伴うゲーム開発における技術水準の高度化や複雑化への対応に倦ねていた頃、同時期に家庭用ゲーム市場に新規参入したマイクロソフトは、PC向けOSであるWindowsでの経験を活かし、PC向けに開発されたゲームの家庭用ゲーム機への移植の容易さを、他のプラットフォームに対する優位性に据えていたと認識している。

私は、その頃起こったこととは、PCゲームの開発現場における技術の家庭用ゲーム業界への流入なのだと思っている。

家庭用ゲーム機を主軸に開発してきた国内のソフトメーカーにとって、00年代後半から10年代前半は、家庭用ゲームの開発現場に新たにもたらされた技術体系を学び、取り入れる期間だったのではないか。

現在開発されるゲームは、近代において定着した技術体系に基づいている程、近代的・モダンなのだと思う。

BotWのオープンワールドは、見えているところはどこまでもシームレスに行くことができ、世界のどこにいても、同じ物理法則がプレイヤーを含む世界に存在する全ての物体に働く。

そのプレイ感覚はまさにモダンな体験であり、2017年現在のビデオゲームが到達した最も発展的で豊かな体験に、衝撃や感動を味わう人もいるのだろう。

純粋な家庭用ゲームが近代的技術体系をものにし、時代の到達点たる完成形を産み出したことは、家庭用ゲームが真に発展し、新たな段階に訪れたことを意味するように思う。

34年前に家庭用ゲームというエンターテイメント産業の基礎をハードウェア・ソフトウェアの両面において完成させ、日本を含む世界に定着させた任天堂が、2017年現在、主にいわゆるコアゲーマーと呼ばれる層に向けて、オープンワールドというフォーマットに今発揮できるクリエイティビティの全てを注ぎ込み、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドを作り上げたこと。

そして、それが世界中の多くのゲームファンから熱烈に称えられ、歓迎されたこと。

このことは、私自身の人生の半分以上の時間を通して追い続けてきた家庭用ゲームの現在地の測位が改められるような出来事であり、自らの感覚でBotWを咀嚼し、飲み込まなくては話をまとめるには至れなかった。

私は、任天堂が今、BotWを世に送り出してきたことを受け止めたい。

正直個人的には、BotWは大満足かというと微妙だけど、満足だろうと微妙だろうと、受け止めたい。

その為にはちゃんと整理しなきゃいけない。BotWすごい!Switchいいんじゃない?では駄目だ。

任天堂が、ひいては家庭用ゲームが、BotWに至る道程はどういった道程だったのか。ちゃんと整理しないと、私は飲み込めない。

Nintendo Switchは、コンソールの縦軸の可能性ではなく、横軸の可能性にアプローチをかけた。

私はそれを受け入れられる筈だけど、やはり性能の追求という縦軸へのナチュラルな欲望もある。

欲しがる自分と受け入れられる自分と、ちゃんと折り合いをつけておきたい。

Switchは据置機であり携帯機でもあるハイブリッドなコンソールである為、人によって、Switchが基本的には据置機であるか、携帯機であるかの判断は分かれるだろう。

私は、ゼルダの伝説BotWは据置機水準のコンテンツであり、据置機モードでプレイして然るべきだと思っているので、携帯機モードでのプレイは選択肢として捉えている。

ハードウェアの技術革新がその選択肢をプレイヤーに開放した。

飽く迄、ベースは据置型コンソールが提供する体験の文脈だ。

 

Switchに関する話については、個人的には据置機の水準を満たすコンソールであると認めるに相応しいと考えていることだけ言えれば充分ではあるのだけど・・・携帯型家庭用ゲーム機について思ってきたことなどと話し出すとキリがないし。

まぁ、DSの時期にはまだ据置機の代替論などは受け入れられなかったが、3DSとびだせどうぶつの森を遊んだことで、携帯機に対する意識に変化があったということは軽く触れておく。

どうぶつの森シリーズは、今でもGCどうぶつの森+が最も思い入れのある作品で、おいでよどうぶつの森から「携帯機のゲーム」のような印象が付いていったことには、ずっと抵抗があった。

とびだせどうぶつの森は、3DSまできたら性能的にも据置機での体験と遜色ないところまできたのも確かだと思い、抵抗を感じつつもプレイしてみたら、ゲームとしてもちゃんと進化していて、どうぶつの森シリーズの特徴である時間の流れを実社会と共有しているところと、外出中に村の様子を軽く確認できたりする携帯機の優位性は実際に相性が抜群で、悔しながらにとび森には一時期ドハマリしていたのだった・・・。

とはいっても、どうぶつの森シリーズが今後新作を出すにあたり意識してほしいのは、マインクラフトがもたらした日本におけるサンドボックスゲームの波だと思っていて、どうぶつの森の世界で時間を忘れてずっとハニワを掘り当てたりしたいわけだけど・・・

スマホ版はどんなものになるんだろうか・・・手のひらに収まるコンパクトなどうぶつの森が人々の望んだどうぶつの森という答えを任天堂が出さないことを私は願っているが、Switchの存在が、任天堂を信じられる根拠になる気がしているのである。

Switchがハイブリッド機であることは、これから任天堂が家庭用ゲーム機向けにゲームを作る場合、据置機に出すことと携帯機に出すことの両方を意味する。

このゲームは据置機向けで、このゲームは携帯機向けとか、そういう振り分けはもう意味を持たない。

最近のSwitchに関連するニュースでは、Switchでのインディーゲームの売れ行きが好調というものがある。

VITAでもそうであったように、インディーゲームの品揃えが最も豊富であるPC向けプラットフォームのSteamを差し置いて家庭用ゲーム機でインディーゲームをプレイすることのプレミアとは、ハンドヘルドのスタイルで遊べることにあるのではないか。

私は、家庭用ゲーム機が今後向き合っていかなければならないのはSteamだと思っている。

Steamがあればゲーム機はもう要らない、という意見を耳にすることは年々増えていて、PCの汎用性と拡張性が、ハードメーカーによって環境が固定された家庭用ゲーム機の課題を浮き彫りにしているのは確かだ。

そのような不利な状況において、Steamではなくあえて家庭用ゲーム機でインディーゲームが購入されるという事例は、今後の家庭用ゲームの立ち回りのヒントになるように思う。

現時点では完全に私個人の妄想に過ぎない話として、SIEがSwitchのようなPS4のハイブリッドモデルを展開する可能性もありそうな気がしている。というかアリだろう。

 

・・・あと、書くタイミングを逃してしまったので取ってつけたようになってしまうけど、Switchのプロコンはめちゃくちゃいい。

バッテリーの持ちが凄まじいし、HD振動は技術屋としての任天堂を評価してもいい部分な気がする。

ゲームパッドは家庭用ゲーム機を定義付けるファクターだと思うから、そこが強いのはSwitchのコンソールとしての完成度をかなり底上げするんじゃないだろうか。

20代ゲームファンがSwitchでのゼルダの伝説BotWのプレイを経て見つめ直す家庭用ゲームの変遷・上

8月頃から、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルドのマスターモードをプレイしていた。

歴史的大作といえるこの作品のプレイを経て、自分が見てきた家庭用ゲームの変遷について今思う諸々のことを整理する機会にもなりそうなので、私個人のBotWの感想と交えつつ、気が済むまで書いていこうと思う。

尚、前半となるBotWの感想は、BotWをプレイしていないとちんぷんかんぷんな話だと思うので、後半は別の記事として分けることにする。

 

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総プレイ時間はおよそ305時間

 

BotWが発売したのは今年、2017年の3月。

半年以上経ってからまとまった感想を書くのも今更ではあるが、率直に言って、ノーマルモードのBotWはヌル過ぎて全く手応えがなかったことは、まず触れておく。

ゼルダの伝説シリーズにおいて難易度について議論がなされる場合、謎解き要素の難解さにフォーカスされる場合があるが、今回は、主にアクションゲームとしての難易度にフォーカスして話していく。

まぁ、そうとは言っても、8月にマスターモードのプレイに取り掛かり始めて、現在は10月なので、2ヶ月近く間が空いているのは、いずれにしても遅すぎるだろう。

言い訳としては、PSVITAでUNDERTALEを並行してプレイしていたことと、マスターモードを結果的に2周することになったことが理由である。

マスターモードの1周目では、通常のメインルートの全ての神獣を解放した後ガノンを討伐するオーソドックスな攻略と、剣の試練という、過去作からお馴染みである、回復アイテムや消費アイテムの補給を制限されながら、段階的に熾烈さを増していく戦闘を最下層まで続けていくコンテンツの攻略に着手。

剣の試練は、今回、新規コンテンツとして追加されたものなので、ノーマルモードを既にクリアしていながら、マスターモードでまた初めからプレイするにあたっての主目的として据えていた。

その剣の試練の感想はというと・・・及第点・・・といったところか。

序位の攻略に取り掛かり始めたときは、思った以上に手こずりそうな感触で、これは舐めてかかってはいけないと腹を括ったのだけど、このゲームの仕様上、結局のところ、装備が貧弱である程状況が厳しく、装備が豊富である程・・・どうとでもなってしまう。

これは、始まりの台地や、無人島の祠チャレンジでも同じように感じるところであり、剣の試練が特にそうだったかもしれない。

なんやかんやで強力な武器が普通に集まっていってしまうから・・・。

最もミスが多かったのは序位の中盤までで、中位、極位ではほとんどミスすることはなかった。

ガッツ素材やマックス素材は1つの素材からの調理でも完全回復の効果は得られるので、調理法次第で素材活用の効率が良くなるとか、古代兵装・矢は敵を一撃で消滅させるので、ライネルのような最上級の攻撃力とHPを持つ敵に対処する為に備えておけば、危険な敵はローリスクで回避でき、但し敵がドロップする強力な武器は諦めることになるなどといった、プレイヤーの知恵と機転を試す要素があるのは、このゲームの仕様において適切な設計になっていたとは思うけれど・・・

プレイヤーの装備が豊富になってきたところで、備えを全て出し尽くすことも厭わなくなるような、プレイヤーをぶちのめすことしか考えてない階層が幾つかあっても良かった。

メインルートの攻略については最後にまとめて言及するとして、2周目ではどういったプレイをしたかというと、防具を全て完全強化するやりこみプレイに着手した。

ノーマルモードをプレイしているときも、防具強化の要素が1つのやり込み要素なのだろうとは思っていたが、ひたすら素材を集めるのはどう考えても単調な作業になると断じて手を付けなかった。

マスターモードは、全体的なゲームプレイがある程度は手応えのあるものになり単純に楽しかったので、BotWの世界と付き合えるだけ付き合おうという意欲も湧いて、着手することに決めた。

結論から言うと、全防具完全強化のやり込みプレイには満足できた。

個人的に、オープンワールドのゲームプレイにおいて、この世界に付き合えるだけ付き合っていたいとか、この世界の中で振り回されたいという感覚が、最も求めているものかもしれない。

実のところ、私はPS3PS4も所有していながら、近代のオープンワールドのゲームはほとんどプレイしておらず、自分の中でオープンワールドでの有意義な体験として模範となっている体験は、Grand Theft Auto Vice City (PS2)まで遡る。

我ながら原始的過ぎる気もするが、近代のオープンワールドのほんの一地域程度の広さにも満たないかもしれないヴァイス・シティで、ピザ屋のスクーターを乗り回しフリスビーのように客にピザを放り投げ、軍用ヘリを飛ばして一般車両の巻き添えも意に介さず犯罪者の車両を上空からミサイルで吹き飛ばし、攻略サイトを見て主にテキストで在り処が説明される各地の隠しアイテムを見つけては宝探しのような無垢な喜びを感じたりしながら、クリア率100%を目指して東奔西走していた原体験が、今も、シームレスに往来できる立体的なフィールドで自分が時間を過ごす意味として、最も有効に作用するのだ。

また、そういったプレイにおいて重要なのは、やり込みの過程で、その先のやり込みに役立つ報酬があること。

GTAVCではHPの上限が増えたり、炎によるダメージを受けなくなったり、強力な武器や車両がアジトに配備されたりというのが該当する。

BotWでは、防具にセットボーナスというものがあり、頭・胴体・脚部の3種に分かれた防具をそれぞれ一定の段階まで強化することでアンロックされる。

そのセットボーナスが、定量的な効果ではないユニークなものが結構あって、それぞれ適した場面で活用したくなるのだ。

ノーマルモードではほとんど使っていなかったクライムシリーズは、崖登り中ジャンプのスタミナ消費量が少なくなるというセットボーナスで、スタミナ縛りをしていたのもあり、かなり魅力的だった。

後で書こうと思っていたが、2周目ではハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限して攻略していた。

その為、息吹の勇者シリーズマスターソードのビーム強化というセットボーナスは、ハートが3つしかないので必然的にマスターソードは未所持であり、この効果については未確認・・・少々惜しまれる。

他にも、炎無効、雷無効、凍結無効などの若干チート的なセットボーナスは、全体を通してのゲームプレイで、それ程多くはないが厄介な特定のシチュエーションで強気になれる解放感がある上、ドラゴン系の素材集めの際にも作業を非常に捗らせてくれる。

何より、緻密に作り込まれたドラゴンの動き、物量感や躍動感を間近で感じられることは、BotWの世界において純粋にプレミアムな価値があるのだがら、ゲーム的なルールを遵守しているかなど、言ってしまえばどうでもいいのだ。

そもそも私は、3Dの広大なフィールドで、プレイヤーの遊び心が赴くままに遊ばせることを標榜するオープンワールドにおいて、チート・・・ゲームシステム上の制約を逸脱してしまうことに、むしろ肯定的でさえいる。

「できないことが、できるって、最高だ。」という某キャッチコピーなんかはまさにそんなことを言っているように思えて、評価している。少々話が逸れた。

ただ、そういったことが無条件にできてしまうのではなく、報酬としてアンロックされることに個人的には満足感が得られるというのは付け加えておきたい。

メインルートの攻略については、先述したように、2周目でハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限したことからも窺えるだろうが、1周目ではマスターモードでもヌルいと感じた。

というか、ノーマルモードがイージーモードで、マスターモードがノーマルモードなんじゃないかという・・・

たらればの話はしたくないのだけれど、初見時からマスターモードでプレイしていたら、素直にマゾゲーマー心に火が点いていたかもしれない。マスターモードは発売時から実装しておいてほしかった。

その上でハードモードを用意するとしたら、敵の攻撃力やHPを調整するのではなく、属性付きの武器や矢を使用する敵が一層増えるなど、ギミックの面でゲーム性の幅を広げたり・・・この辺にしておこう。

BotWに限らず、近代のビデオゲームにおける難易度について思うことは、今後1つの記事にまとめてもいいかもしれない。

話を戻して、ハート・スタミナ・ポーチを初期状態に制限した場合ではどうだったかというと、それなりに丁度良くなったと思っている。

ハートとスタミナに関しては、マックス素材やガッツ素材のマネジメントがゲームの進行度によって変わっていく楽しさがあると思ったので、最終的には制限する意味はあまり無かったと判断したけれど、ポーチは初期状態のままにしておいたことで緊張感が増して良かった。

BotWは、戦闘時のリアルタイムな武器のマネジメントが非常に有機的で、武器ごとの強さや壊れやすさを常に意識しながら、廃棄のタイミングを見定めつつ高所にいる弓兵などに対する投擲物としての使用、雷属性の武器や矢がある場合はHPの多い上級の敵から強力な武器を強制的に奪えたり、武器を使い切ってしまったとしても必ずしも窮地ではなく、ガードや回避の不自由さと引き換えに、高所から飛び降りながら狙いを定めることで発動するスローモーションの状態で、弱点への連撃が狙えたりなど、場合によっては武器よりも遥かに強力な弓もある。

こうしたリアルタイムのゲーム性を考えれば、武器は常にフィールドとポーチの間を循環するべきであると思った。

この、武器を敵から奪ったり、投げつけたり、取り返されたりする仕様は、初見時からゼルダの伝説風のタクトを彷彿とさせられている。

私はゼルダの伝説シリーズの中で、風のタクトにおけるプレイヤーとフィールドの有機的な関係性が気に入っていて、BotWではその思想が拡張されているように感じている。風タクでやりたかったことに再挑戦しているんだろうなぁ、と。

ブーメラン型の武器や盾サーフィンにもそんなマインドを感じていて、この二つの要素はBotWの中で大好きな要素である。

 

 

次の記事へ続く

かつて家庭用ゲームにおける定番ジャンルとされたJRPGについて

 

個人的な引っ掛かりを解消したいだけの完全な自己満足の内容である為、無遠慮な分析や詮索については、もしこの記事が目について気分を害された方がいたとしたら、予めお詫びしておく。戯言としてスルーしてもらえたらありがたい。

以下、JRPGに縁のないゲームファンとしての、家庭用ゲームとJRPGの関係についての考察及び所感

 

ドラゴンクエストⅪが、初週販売200万本という、近年の家庭用ゲームの国内市場では稀に見る驚異的な好セールスを記録。

ドラクエが名実ともに国民的な老舗シリーズであったからこその結果なのもあるが、まだ大衆は積極的に家庭用ゲームで娯楽を消費し得ると、家庭用ゲーム産業を前向きに評価できる好材料になるのが、今回の結果が業界全体にとって明るい話題になるところ。

 

ゲームファンとしての視点では、求められたものを、求められた形で、求められる場所へ、正しく提供したことが功を奏したのだろうと思っている。

大人になり、ゲームにまとまった時間とコストをかけることが難しい人や、技術的な進歩よりも、変わらないドラクエのセオリーに心を寄せる人には、2Dのドットモードが用意された携帯機の3DS

ゲームはやはり大画面で腰を据えて遊びたいという拘りがある人や、最新の技術の恩恵を受け、今体験できる最もリッチなドラクエを求める人には、最新のゲームエンジンで作り込まれた据置機のPS4

幅広い層をターゲットにしたシリーズとして、現在の家庭用ゲームの状況への包括的な対応は英断と言える。

尚且つ、「いつものドラクエ」の形にもしっかり落とし込んでいる様子。

この正しさが、市場の素直な結果としても表れたのだと思う。

 

ここまで書いておいて、少し言いにくいことだけれど、自分自身はドラゴンクエストというシリーズをⅠ作もプレイした経験はなく、最新作も含めプレイする意志は今のところは持ち合わせていない。

語るべき立場ではないことを承知した上で、この話題について触れるのは、去年辺りからジャンルとしてのJRPGを個人的に観察・研究しているから。

JRPGという呼称に拒否反応を示す声もあるが、誤解を恐れずこの呼称を用いる。

ここで扱う大まかな定義としては、個別のフィールドにアクセスするプラットフォームとしてのワールドマップ

エンカウント制、ターン制バトルなどを基礎的なシステムとしており、その体系的な構造の中で発展・変質したものまでを含める。

 

これまで私は、JRPGに類する作品をプレイした経験はほとんど無いのだが、リアルタイムに家庭用ゲームをプレイしてきたN64からPS2の時代まで、JRPGは家庭用ゲームにおいて主要なジャンルであったことを後に見聞きする。

その流れは私が知らないFCの時代まで遡り、日本における家庭用ゲームの在り方を考える上で、JRPGの文脈は避けて通れないのだと認識した。

また、このジャンルは、PS2の後期以降、評価とセールスいずれの面においても、めぼしい結果を出す作品の不足が指摘されることが多かった印象を持つ。

PS3の時代には、Skyrimなどのオープンワールドの技術を採用した海外製RPG作品の先進的な体験を称える国内外のゲームファンにより、JRPGの様式が引き合いに出され、批判的な論調で語られているのをよく目にした。

個人的にJRPGに対して抱いていた印象としては、「なぜこのジャンルが定番と言われるのだろう」という率直な疑問。

私がビデオゲームという媒体に惹かれるきっかけになった作品はN64スーパーマリオ64だった。

私にとって、ビデオゲームという媒体において、個人の時間を費やす家庭用ゲームのスタンダードな様式は、スーパーマリオ64のような箱庭型の3Dアクションゲームであり、それから7年の月日が経ち、国内のPS2Grand Theft Auto Ⅲが発売されプレイするまでの間にも、自分の認識に齟齬を感じることはなかった。

GTAといえば、今であればオープンワールドのゲームを象徴する代表的な作品に数えられると思うが、オープンワールドという言葉は、それから数年後にインターネットで知る。

当時、日本のメーカーと比べてこの分野の技術開発に積極的であった海外のゲームメーカーが、オープンワールドの技術を採用した作品を相次いで投入し、そのような状況の中で、オープンワールドの技術とは断絶されたジャンルの作品が、ニッチ或いはクラシックとして認識されるのは、当然のこととして受け取っていた。

PS4の時代に入ってからはオープンワールドの技術は一般的になり、国内のメーカーからは、ゼノブレイドクロス,MGSV,FFXVなどが投入され、いずれの作品も海外のメディアやゲームファンからの高い関心を集めた。

今年の初頭に世界中のゲームファンの期待の中、満を持して発売を迎えたゼルダの伝説BotWが、ワールドワイドで大ヒットしたことは記憶に新しく、オープンワールドのゲームとしての完成度は極めて高い評価を受けている。

BotWは、2010年代以降の定番を国内メーカーが提供できることを、日本を含む世界中のゲームファンに知らしめた作品と言える。

 

そんな熱狂の裏で、ペルソナ5という作品が、BotWに匹敵する程の絶大な評価を受けていた。

ペルソナシリーズは王道のJRPGではないのかもしれないが、ゲームデザインの性質は凡そJRPGの文脈で語られるように捉えている。

ここにきて、JRPGが評価され、ゲームファンから熱い視線を集めるということが非常に興味深かった。

ペルソナ5に関しては、クリアには至っていないけれど自分自身もプレイしている。

JRPGのセオリーに則った洗練された様式と、独特な仕組みが上手く調和されたゲームデザインは、自分にとっても新鮮なゲーム体験であり、定番ではないが人々に愛されるJRPGの在り様を見たように思う。

ドラゴンクエストに話を戻す。

ドラクエ11の発売日に、SNSの反応に目を通していて思ったのは、このシリーズには、今現在の国内の一般的なゲームファンとしては高い年齢層のファンが取り分け多く、また、同世代同士で、家庭用ゲームに纏わる思い出を普遍的に共有しているということ。

今では、普段は家庭用ゲームをプレイしなくなっているけれど、ドラクエだけはゲームハードと同時に購入してプレイする・・・

そういった心理を、自分なりに読み取るならば、彼らにとって、個人の時間を費やすに相応する家庭用ゲームの重厚長大なエンターテイメント体験は、ドラクエの様式によってできるゲーム体験そのもの、なのではないかと。

それは更新されるものではなく、何らかが付け加えられるものでもない。

つまり、JRPGの様式は遥か昔に既に完成している、という答えに行き着いた。

現在のオープンワールドの源流たる箱庭型の3Dアクションゲームが家庭用ゲームに登場したとき、それはJRPGとは異なる文脈として始まっていたのだろう。

今現在において定番となったその文脈がまだ存在しない時代、個人の時間を費やすエンターテイメントとしての家庭用ゲームを、JRPGの様式が定義した。

だから、ドラクエと共にその時代のゲームファンが帰ってきて、彼らの知る「家庭用ゲームでできる体験」に一斉に身を投じる。

ドラゴンクエストと並ぶ“国産RPG”シリーズとして、ドラゴンクエストと同等の知名度と歴史を持つFINAL FANTASYシリーズに関しても、家庭用ゲームとJRPGの関係を考察する上で言及すべきだと思うのだが・・・

シリーズの立ち位置を問う条件が複雑な為、いかに言及すべきか少々迷う。

個人的に思う要点にのみ触れると、このシリーズはFINAL FANTASY Xを最後に、JRPGの類型から徐々に離脱していく道を選択しているように見受けられる。

JRPGが家庭用ゲームで定番として成立した境界線も、その時代と重なる。

その選択は、シリーズを通してのファンの望みとは裏腹なわけであるが、飽く迄も、どの時代においても定番として認識される在り方に重きを置いたのだろう。

最新作であるFINAL FANTASY XVにおいては、常に挑戦するFFシリーズとしての矜持を以って、JRPGの類型を完全に捨て去ることを明確に正当化した。

私自身は、国内メーカーが今の時代の定番と言える作品を送り出すことが単純に喜ばしく、FFシリーズの選択を、FFXVの発売前から現在に至るまで支持する立場だが、ペルソナ5ドラクエ11に纏わる反響を見ていて、セオリーを守る正しさも目の当たりにした。

 

いずれにしても

ここ最近は、家庭用ゲームに関する前向きなニュースを聞くことが多くなってきている。

それぞれが、見据えた正しさに向かって滞りなく力を尽くせるようになってきているのだろう。

定番であろうと、クラシックであろうと、何であろうと、それが今正しくあることで、家庭用ゲーム全体があるべき正しい姿に近付いていっている。

そう思う。